婚約破棄されたので、お預かりしていた肖像画をすべてお返しします
「イルゼ・グラウベルク。お前との婚約を、今この場で破棄する」
春の叙任の夜会。王宮の大広間の真ん中で、第二王子ヴィンフリート殿下が、わたしを指さした。
「陰気で、笑わず、手袋の下はいつも絵の具だらけ。そんな絵の具臭い女を、王子妃にはできない」
扇の陰で、くすくすと笑い声が広がる。殿下の腕には、男爵令嬢のロジーナ・ブラント嬢がしがみついていた。栗色の巻き毛に、社交界でいちばん美しいと評判の、白い頬。
わたしの指は、いつも汚れている。
右手の人差し指と、中指と、薬指。爪の際から第二関節まで、青みがかった灰色の染みが、霧のようにかかっている。宮廷画家の家に生まれた者の、鉛白の毒だ。洗っても落ちない。
本当のことなので、否定はしなかった。
「承知いたしました」
わたしは、膝を折った。
「それでは、殿下からお預かりしていた分を、すべてお返しいたします」
「……預かっていた?」
殿下が、鼻で笑った。
「僕が、お前に何を預けたと言うんだ」
「二百十二個ございます」
広間が、静まり返った。
壁際で、宰相閣下の手からグラスが落ちて、割れた。
「覚えていらっしゃらないのは、当然です。お預けになったものは、皆様、お忘れになりますので」
皆様、と言ったところで、広間のあちこちで、扇がぴたりと止まった。
*
この国の貴族は、美しい。
六十を過ぎた宰相閣下は四十にしか見えないし、七十の老侯爵には白髪が一本もない。夜会に集う誰もが、肌はなめらかで、目は澄んで、後ろめたいことなど何ひとつないという顔をしている。
その理由を、わたしは知っている。
王立画廊の奥に、灰色の布をかぶった肖像画が、三百二十九枚並んでいるからだ。
グラウベルク家の画家が描く似姿は、写し絵と呼ばれる。描かれた本人と、同じものとして扱われる。だから本人が額縁に両手を置いて願えば、老いも、疲れも、罪も、後ろめたさも、写し絵のほうへ移すことができる。
預けたものは、本人の中から消える。記憶ごと。
代わりに、写し絵の顔が崩れていく。
「殿下は六年間、わたくしの家に、いろいろなものをお預けになりました。ご婚約という縁があったからです。その縁を、今夜、殿下ご自身が、皆様の前でお断ちになりました」
わたしは、できるだけ平らな声で続けた。
「縁が切れたら、お預かりしたものはお返しする。それが、決まりでございます。殿下のお口添えで預けられた方の分も、同じく」
ロジーナ嬢の指が、ぴくりと動いた。
広間のどこかで、誰かが小さく言った。
「お、お口添え……殿下の?」
「わ、私は違うぞ。殿下のお口添えでは、ない、はずだ……」
「わたくしもですわ。……たぶん」
ひそひそ声が、さざ波のように広がっていく。誰も、自分が何を預けたのか覚えていない。だから、誰も安心できない。
「殿下ぁ。この方、何をおっしゃっていますの? 怖いですわ」
ロジーナ嬢が、殿下の袖を引いた。
「は」
殿下が、笑い飛ばそうとした。
「何を言い出すかと思えば。呪いの真似事か。そんな脅しで、僕が婚約を撤回するとでも――」
そこで、殿下の口が、大きく開いた。
言葉の続きではなかった。
あくびだった。
顎が外れるかと思うほどの、とてつもなく大きなあくび。殿下は慌てて手で口を押さえたが、止まらない。二度、三度。目尻に涙がにじみ、膝ががくりと折れかけて、ロジーナ嬢に支えられた。
「で、殿下?」
「な、なんでも……ふあ……ない……」
六年分の、寝不足だった。
広間の誰も、笑わなかった。皆、自分の頬に手を当てていた。
ロジーナ嬢も、左の頬を押さえていた。耳の下のあたりを、白粉の上から、指先でそっと。
「どうした、ロジーナ」
「いいえ。少し、かゆいだけですわ」
わたしは、殿下に向かって、もう一度膝を折った。
「長らくお預けくださり、ありがとうございました。……殿下。明朝は、鏡をご覧にならないほうが、よろしいかと存じます」
背を向けて、広間を出た。
誰も、引き止めなかった。
今ごろ王立画廊の奥では、二百十二の灰色の印に、ひびが入り始めているはずだった。
*
縁が切れると、写し絵の裏の預かり印にひびが入る。ひびの入った印からは、預けたものが、少しずつ持ち主へ戻っていく。
何か月もかけて、少しずつ。
それは、預かり役の作法に反する。お返しするなら、きちんと、ひとつ残らず。
わたしは夜会のドレスのまま、王立画廊の通用口の鍵を開けた。
表の回廊を抜け、突き当たりの扉を開けると、ひやりとした空気が頬に触れた。奥の間だ。両側の壁に、灰色の布をかぶった額縁が、奥まで続いている。
殿下の写し絵は、入口から七番目にあった。
布を外す。
金色の巻き毛の少年が、そこにいた。十三歳。わたしと婚約した年の殿下だ。
けれどその顔は、少年のものではなかった。
目の下に、墨をなすりつけたような隈。頬には吹き出物が散り、こめかみの髪は束になって白く、口元は何かに怯えるように歪んでいる。そして、膝の上に置かれた右の手のひらだけが、赤く腫れていた。
何かを、打ったあとの手のように。
額縁を少し傾けて、裏に回る。
キャンバスの裏一面に、小指の先ほどの灰色の蝋の印が、びっしりと押してあった。灰色の山に、一本の筆。グラウベルク家の紋だ。
その全部に、細いひびが入っていた。
わたしは、腰の小袋からパレットナイフを取り出した。それから、革表紙の帳面を開いた。
最初の印に、刃を当てる。
「六一二年、秋。ご婚約の儀の翌日。初めての乗馬で落馬なさったときの、恐怖」
かり、と小さな音がして、蝋が剥がれた。
「六一三年、初夏。剣術の御前試合の前夜の、臆病」
かり。
「六一四年、春。礼法の授業で、王妃陛下の御前でくしゃみを三回なさった恥ずかしさ」
かり。
「同じ日。その後で、くしゃみは侍従のせいだとおっしゃった後ろめたさ」
かり。
「六一四年、冬。家庭教師の課題を、ご友人に代わりにやらせたときの、後ろめたさ」
かり。
「六一五年、秋。ご友人に、乗馬が苦手だと知られたくなかった見栄」
かり。
「六一六年、夏。賭け札で負けた金額を、陛下に申し上げられなかった焦り」
かり。
「六一七年、秋。王国史の試験で、隣の席の答案を写されたこと」
かり。
殿下は、疲れた日も、しくじった日も、怖くなった夜も、ここへ来て額縁に手を置いた。宮廷では誰もがそうしている。若い貴族にとっては、ちょっとした身だしなみのようなものだった。
殿下が預けるたびに、わたしは筆を取った。筆の先から、冷たいものが指を伝って上ってきた。
六年間、殿下はわたしの顔を、一度も見なかった。
見ていたのは、いつも手袋だった。
「残り、二百四」
夜明けまでに、終わるだろうか。
終わらせなければならない。
*
最後の印を削り落としたのは、東の窓が白み始めたころだった。
表に回って、わたしは息を止めた。
絵が、変わっていた。
隈が消えていた。吹き出物も、白い髪も、歪んだ口元も、赤い手のひらも。金色の髪の少年が、澄んだ目でまっすぐにこちらを見ていた。肌はなめらかで、口元には自信のようなものさえ浮かんでいる。
美しい少年だった。
本来は、こういう顔をしていたのだ。預けていたものが、すべて持ち主に返ったから。
布は、かけ直さなかった。もう隠すものは何もない。
わたしは、自分の右手を見下ろした。
一晩じゅうパレットナイフを握っていた指が、細かく震えている。灰色の染みは、いつもどおり、そこにあった。
母の手は、最期には手首まで灰色だった。
祖母も、そうだったと聞いている。グラウベルク家の画家は、誰も三十五を越えずに死ぬ。
鉛の毒は、怖い。
わたしは手袋をはめて、奥の間を出た。
殿下は、鏡をご覧になるだろう。
*
目を覚ました瞬間、ヴィンフリートは、誰かに上から押さえつけられているのだと思った。
体が重い。腕も脚も、まぶたさえも、濡れた砂袋を縛りつけられたように重い。
「殿下、朝でございます」
侍従がカーテンを引いた。ヴィンフリートは呻きながら身を起こし、いつものように、寝台の脇の姿見に目をやった。
そして、悲鳴を上げた。
鏡の中に、知らない男がいた。
目の下に、墨をなすったような隈。頬はかさついて、顎に赤い吹き出物がふたつ。何より、こめかみから耳の上にかけて、金色の髪に白いものが混じっていた。一本や二本ではない。束になって。
「殿下、そのお髪は……」
「見るな!」
*
午前の講義には、帽子を目深にかぶって出た。
休めば噂になる。昨夜の婚約破棄と結びつけて、面白おかしく語られる。それだけは避けたかった。
老博士が、王国史の講義を始めた。
三行も聞かないうちに、ヴィンフリートの頭が、がくりと落ちた。
「殿下」
はっと顔を上げる。よだれが一筋、羊皮紙に垂れていた。
「し、失礼。少し、寝不足で」
「左様ですか。では、続けます。灰の十年の終わりは、王国暦の何年でしたかな」
「それは……」
出てこなかった。
去年までは、すらすら答えられたはずの問いだった。いや、答えられたことになっていたはずの問いだ。
「殿下は昨年、王国史の試験で満点を取られましたな」
老博士が、穏やかに言った。
その一言で、背中に冷たい汗がにじんだ。
あれは、隣の席の伯爵令息の答案を写したものだ。そんなこと、とうに忘れていた。忘れていたはずなのに、今は写した答案の筆跡まで、ありありと思い出せる。胸の奥が、ぎゅっと縮んだ。
こんな気持ちは、知らない。
いや。知っていて、どこかへやってしまっていたのだ。
「……今日は、もう帰る」
*
廊下で、ロジーナが待っていた。
「殿下ぁ!」
駆け寄ってきた彼女は、ヴィンフリートの顔を見上げたとたん、半歩後ろに下がった。
「……まあ。お疲れですの?」
扇の陰で、彼女の目がこめかみの白い筋を追っている。ヴィンフリートは帽子のつばを引き下げた。
「あの女に呪われたんだ。預かっていた分を返す、と言っただろう。あれは呪いの文句だ」
「呪い……」
ロジーナは小さく息を呑み、左の頬に手を当てた。今朝はいつもより、白粉が厚い。
「どうした。昨夜から、そこばかり触っているな」
「いいえ。なんでもございませんわ。……少し、赤いだけ」
彼女はそれきり、頬から手を離さなかった。
*
王立画廊の北の端に、グラウベルク家の工房はある。
ヴィンフリートが扉を蹴り開けると、油と溶剤の匂いが鼻を打った。
イルゼは、作業台の前に座っていた。灰色の地味な作業着に、白い前掛け。何を考えているのか分からない、いつもの顔で、こちらを見上げる。
「おはようございます、殿下」
「何をした」
ヴィンフリートは帽子を床に叩きつけた。白い筋の混じった髪が、むき出しになる。
「僕に何をした! この髪も、この顔も、お前の仕業だろう! 返せ!」
「何を、でございますか」
「僕の顔だ! 昨日までの、僕の顔を返せ!」
「お返ししたのが、殿下のお顔でございます」
ヴィンフリートは、言葉に詰まった。
「お前……昨日まで、僕に口答えなんか一度もしなかっただろう」
「はい。殿下の婚約者でしたので」
「今は」
「今は、ただの画家の娘でございます」
イルゼは、表情ひとつ変えなかった。
「わたくしは、お返ししただけでございます。殿下がお預けになったものを」
「僕は何も預けてない!」
「左様でございますか」
イルゼは、作業台の上の革表紙の帳面を開いた。ページをめくる指先に、灰色の染みが見えた。
「では、お読みいたしましょうか。六一五年、春」
イルゼの声は、平らだった。
「侍女のマルテに茶をこぼされ、頬を打ったあとの、嫌な気分」
ヴィンフリートの喉が、ひくりと鳴った。
思い出した。
打った手のひらの痛みまで、はっきりと。黙ってうつむいた、マルテの横顔も。
「やめろ」
「全部で、二百十二ございます」
「やめろと言っている!」
イルゼは、帳面を閉じた。
「昨夜、すべてお返しいたしました」
ヴィンフリートは、作業台に両手をついた。
「……婚約は、撤回する。破棄は取り消しだ。それなら、元に戻せるだろう」
「申し訳ございません」
イルゼは、少しだけ首をかしげた。
「一度ひびの入った印は、元には戻りませんので」
*
回廊を戻る途中で、洗濯物の籠を抱えた侍女とすれ違った。
マルテだった。
彼女は王子に気づくと、壁際に寄って深く頭を下げた。白髪の混じった頭を見ても、何も言わなかった。
ヴィンフリートは、その横を通り過ぎた。
目を合わせることが、どうしてもできなかった。
これまでは平気だったのだ。平気な顔をしていられたのは、平気でいられないものを、全部どこかに置いてきていたからだった。
その日、ヴィンフリートは生まれて初めて、自分の顔を重いと思った。
*
その日の夕方、工房の扉を、遠慮がちに叩く音がした。
開けると、ヴェールで顔を覆った娘が立っていた。
「……ブラント嬢」
「入っても、よろしいかしら」
昨夜、殿下の腕にしがみついていた声と、同じ声とは思えなかった。
工房の小さな椅子に座ってもらい、家政婦のベルタが茶を出した。六十を過ぎた工房の家政婦で、母の代からこの家にいる。
「どうぞ。蜂蜜を、多めにしておきましたよ」
ベルタはそれだけ言って、台所へ引っ込んだ。引っ込みながら、こちらに目配せをした。昨夜の、あのお嬢さんですよ、という顔だった。存じています。
ロジーナ嬢は茶碗を両手で包んだまま、しばらく黙っていた。
それから、ヴェールを上げた。
左の頬。耳の下から顎の線にかけて、手のひら半分ほどの痕があった。赤く、引きつれて、まだらに光っている。
火傷の痕だった。
「朝は、少し赤いだけでしたの。お昼を過ぎたら、白粉では隠せなくなって」
ロジーナ嬢の声が震えた。
「殿下に、お会いしに行きましたわ。殿下なら何とかしてくださると思って。……殿下は、わたくしの顔を見て、窓のほうを向いてしまわれました。今は誰とも会いたくない、帰ってくれ、って」
「左様でございましたか」
「それで、父の書斎に行って、問いただしましたの。父は、驚いていませんでした。それで、全部分かりましたわ」
六つのとき、冬の夜、居間の暖炉で負った火傷だという。
四年前、殿下との縁談の話が出たころに、男爵は殿下にお口添えを頼み、グラウベルク家に娘の写し絵を描かせた。娘を薬で眠らせて、頬の痕を預けた。目を覚ました娘は、痕のことも、火のことも、すっかり忘れていた。
「父は、言いましたわ。『あの痕では、良い縁談は来ない。王子妃どころか、伯爵家にも嫁げない。だから、お前のためにしたことだ』って」
ロジーナ嬢は、ふっと笑った。少しも笑っていない顔で。
「わたくしのため。……そんな言葉が、こんなに気持ちの悪いものだなんて、知りませんでしたわ」
*
「もう一度、預かっていただけませんか」
ロジーナ嬢は、身を乗り出した。
「お金なら、父に払わせます。借金をしてでも。だから」
「申し訳ございません」
わたしは、首を振った。
「ブラント嬢のお預かり物は、殿下のお口添えで受けたものです。殿下とわたくしの家の縁が切れた以上、もうお預かりすることはできません」
「では、わたくしは、このまま」
「はい」
ロジーナ嬢は、言葉を失ったようだった。
しばらくして、彼女は小さな声で言った。
「……怒って、いらっしゃらないの」
「何を、でございますか」
「昨夜、わたくし、殿下の腕にしがみついて、扇の陰で笑いましたのよ。あなたの婚約者を取ったのよ。ざまあみろと言われても、仕方がないと思って、ここへ来ましたの」
わたしは、ロジーナ嬢の頬を見た。
四年前、薬で眠る十二歳の少女の頬に、わたしは筆を当てた。そのときのことを、よく覚えている。
「それは、あなたの傷です」
わたしは言った。
「あなたが悪いのではありません。お父様がお預けになり、わたくしがお預かりして、今、あなたにお返ししました。それだけのことです」
「でも」
「殿下は、あなたのものではありませんでした。わたくしのものでも、ありませんでした」
ロジーナ嬢は、目を見開いた。
それから、ゆっくりと、自分の頬の痕に指先で触れた。
*
「……あ」
ロジーナ嬢の指が、止まった。
「思い出し、ましたわ」
ささやくような声だった。
「暖炉の火の中に、硝子玉みたいに光るものがあって。きれいで、手を伸ばしたの。そうしたら、後ろから、誰かが腰を強く抱いて、引き戻してくれて」
ロジーナ嬢の目に、涙が溜まっていった。
「袖の焦げる匂いがして。床に転がって。痛かったね、ごめんね、ロジーナ、って」
彼女の母君は、彼女が九つのときに病で亡くなったと聞いている。
「お母様の、腕でしたわ」
涙が一粒、引きつれた痕の上を伝って落ちた。
「この傷は、お母様が、わたくしを火から引き戻してくれた痕でしたのね。父はそれを、消してしまった。お母様の腕の記憶ごと」
わたしは、何も言わなかった。
ロジーナ嬢は、しばらく頬に手を当てたまま、目を閉じていた。
*
帰り際、ロジーナ嬢は戸口で振り向いた。
ヴェールは、つけていなかった。作業台の上に、きちんと畳んで置いてあった。
「それは、置いていきますわ。もう要りませんもの」
夕暮れの光が、彼女の頬の痕を赤く照らしていた。
「返してくださって、ありがとう」
わたしは、まばたきをした。
何と答えればいいのか、分からなかった。
「……お返しして、お礼を言われたのは、初めてです」
ロジーナ嬢は少しだけ笑って、自分の顔のまま、夕暮れの道を帰っていった。
台所から、ベルタが顔を出した。
「あのお嬢さん、いらしたときと帰るときで、まるで別人みたいなお顔でしたねえ」
「ご自分のお顔に、おなりになったのです」
「はあ。お嬢様は、ときどき難しいことをおっしゃる」
ベルタは首をかしげながら、畳まれたヴェールを手に取って、どこにしまおうか迷っていた。
*
「お嬢様。一昨日の晩は夜会から戻らずに朝まで蝋を削って、昨日は殿下に怒鳴り込まれて、夕方には男爵家のお嬢さん。お嫁入り前の娘の暮らしじゃありません」
その翌朝、ベルタは湯を張った盥を、どんと作業台に置いた。
「……もう、お嫁入りもなくなったんでしたね」
「ええ。なくなりました」
「それを、そんな落ち着いた声で言うんじゃありません」
ベルタは鼻をすすり、わたしの右手を取って湯に浸けた。指を一本ずつ洗っていく手が、ふと止まった。
「あら。この指」
わたしは、湯の中の自分の右手を見た。
人差し指の染みが、引いていた。
いつもなら第二関節まである灰色が、第一関節のあたりで止まっている。中指と薬指はそのままなのに、人差し指だけ、霧が晴れたように薄くなっていた。
「鉛の毒が、抜けたのかしら」
ベルタが首をかしげる。
わたしも、首をかしげた。
鉛の毒が、そんなに急に抜けるものだろうか。
*
昼前、殿下の写し絵に布をかけ直そうと、奥の間へ向かった。もう隠すものはないけれど、一枚だけ顔をさらしているのは、どうにも落ち着かない。
扉を開けると、先客がいた。
いちばん奥の、ほかのどれよりも大きな額縁の前に脚立を立てて、背の高い男が、額縁の彫刻を小さな刷毛で払っていた。
短い黒髪。首から下げた真鍮の拡大鏡。シャツの袖に、溶剤の染みが点々とついている。
「修復師の、ベックさん」
「ノアでいい」
男は、脚立の上から振り向きもせずに言った。
三年前に来た、王立画廊の修復師だ。奥の間に入れるのは、預かり役のわたしと、額縁の手入れを任されたこの人だけだった。
この人がいつも手入れしているのは、最奥の一枚だ。先王陛下の写し絵。母から受け継いだまま、わたしも一度も布を外したことがない。ほかのどれよりも、重い布がかかっている。
「七番目の布が、外れていた」
ノアが言った。
「かけ直そうかと思ったが、やめておいた。君が外したんだろう」
「ええ。一昨日の夜、お返しいたしましたので」
「あの晩は、一晩じゅう、蝋を削る音がしていた」
「お耳障りでしたか」
「いや」
ノアは、少しだけ間を置いた。
「二百十二個を、一晩でか」
「はい」
「手は、痛まないのか」
「慣れております」
「慣れるものじゃない」
ぶっきらぼうな言い方だった。けれど、責められている気はしなかった。
ノアは脚立を降り、刷毛を腰の袋にしまった。それから、わたしの右手に目を留めた。
手袋をしていなかった。盥から上がったまま、ここへ来てしまったのだ。
ノアは首から拡大鏡を持ち上げ、わたしの手から一歩離れたところで、片目に当てた。
「その色は」
低い声だった。
「どの顔料にもない」
*
わたしは、思わず手を引いた。
「鉛白の毒ですわ。画家の家の者は、皆こうなります」
「鉛の毒は、そういう色にはならない」
ノアは、拡大鏡を下ろした。
「鉛は、歯茎に青黒い線を作る。指先なら、くすんだ灰色だ。そんなふうに、夜明け前の空を灰で薄めたような色にはならない」
わたしは、自分の指を見た。
生まれたときからあった染みではない。母が死んだあと、九つのとき、ある朝ふと気づいたら、指先に浮かんでいた。それからずっと、少しずつ、上へ。
「……では、何の色なのでしょう」
「分からない」
ノアは、あっさりと言った。
「分からない色には、分かるまで名前をつけない。修復師の決まりだ」
「修復師の方は、顔料にお詳しいのですね」
「それしか取り柄がない」
ノアは脚立をたたみ、肩にかついだ。
「それから、その人差し指」
「はい」
「先月見たときは、第二関節まであった」
わたしは、顔を上げた。
「先月、ご覧になったのですか」
「表の回廊ですれ違った。手袋を外していた」
ノアはそれだけ言って、奥の間を出ていった。扉が閉まる直前に、もう一言だけ聞こえた。
「私は、絵の表面しか見ない。気にするな」
*
ひとりになった奥の間で、わたしは、窓から差す光に右手をかざした。
人差し指の、第一関節。その上の、何もない、ただの肌の色。
どの顔料にもない。
では、この色は何なのだろう。
なぜ、引いたのだろう。
あの夜、わたしがしたことは、ひとつだけだ。
殿下に、お返しした。
奥の間には、まだ三百二十八枚の絵が眠っている。宮廷じゅうの人々が、何年も、何十年もかけて預けていったものが。
そしていちばん奥には、誰も布を外さない一枚がある。
わたしの指は、いつも汚れている。
けれど今朝は、人差し指の一節ぶんだけ、汚れていなかった。
その理由を、わたしはまだ知らない。
お読みいただき、ありがとうございました。
奥の間には、まだ三百二十八枚の絵が眠っています。
その中に、誰も布を外さない一枚があります。
続きが気になると思っていただけたら、ブックマークと、下の☆☆☆☆☆からの評価をいただけると励みになります。
反響があれば、連載版で、その布を外します。




