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婚約破棄されたので、お預かりしていた肖像画をすべてお返しします

作者: 年商1億
掲載日:2026/11/07

「イルゼ・グラウベルク。お前との婚約を、今この場で破棄する」


 春の叙任の夜会。王宮の大広間の真ん中で、第二王子ヴィンフリート殿下が、わたしを指さした。


「陰気で、笑わず、手袋の下はいつも絵の具だらけ。そんな絵の具臭い女を、王子妃にはできない」


 扇の陰で、くすくすと笑い声が広がる。殿下の腕には、男爵令嬢のロジーナ・ブラント嬢がしがみついていた。栗色の巻き毛に、社交界でいちばん美しいと評判の、白い頬。


 わたしの指は、いつも汚れている。


 右手の人差し指と、中指と、薬指。爪の際から第二関節まで、青みがかった灰色の染みが、霧のようにかかっている。宮廷画家の家に生まれた者の、鉛白の毒だ。洗っても落ちない。


 本当のことなので、否定はしなかった。


「承知いたしました」


 わたしは、膝を折った。


「それでは、殿下からお預かりしていた分を、すべてお返しいたします」


「……預かっていた?」


 殿下が、鼻で笑った。


「僕が、お前に何を預けたと言うんだ」


「二百十二個ございます」


 広間が、静まり返った。


 壁際で、宰相閣下の手からグラスが落ちて、割れた。


「覚えていらっしゃらないのは、当然です。お預けになったものは、皆様、お忘れになりますので」


 皆様、と言ったところで、広間のあちこちで、扇がぴたりと止まった。


*


 この国の貴族は、美しい。


 六十を過ぎた宰相閣下は四十にしか見えないし、七十の老侯爵には白髪が一本もない。夜会に集う誰もが、肌はなめらかで、目は澄んで、後ろめたいことなど何ひとつないという顔をしている。


 その理由を、わたしは知っている。


 王立画廊の奥に、灰色の布をかぶった肖像画が、三百二十九枚並んでいるからだ。


 グラウベルク家の画家が描く似姿は、写し絵(うつしえ)と呼ばれる。描かれた本人と、同じものとして扱われる。だから本人が額縁に両手を置いて願えば、老いも、疲れも、罪も、後ろめたさも、写し絵のほうへ移すことができる。


 預けたものは、本人の中から消える。記憶ごと。


 代わりに、写し絵の顔が崩れていく。


「殿下は六年間、わたくしの家に、いろいろなものをお預けになりました。ご婚約という縁があったからです。その縁を、今夜、殿下ご自身が、皆様の前でお断ちになりました」


 わたしは、できるだけ平らな声で続けた。


「縁が切れたら、お預かりしたものはお返しする。それが、決まりでございます。殿下のお口添えで預けられた方の分も、同じく」


 ロジーナ嬢の指が、ぴくりと動いた。


 広間のどこかで、誰かが小さく言った。


「お、お口添え……殿下の?」


「わ、私は違うぞ。殿下のお口添えでは、ない、はずだ……」


「わたくしもですわ。……たぶん」


 ひそひそ声が、さざ波のように広がっていく。誰も、自分が何を預けたのか覚えていない。だから、誰も安心できない。


「殿下ぁ。この方、何をおっしゃっていますの? 怖いですわ」


 ロジーナ嬢が、殿下の袖を引いた。


「は」


 殿下が、笑い飛ばそうとした。


「何を言い出すかと思えば。呪いの真似事か。そんな脅しで、僕が婚約を撤回するとでも――」


 そこで、殿下の口が、大きく開いた。


 言葉の続きではなかった。


 あくびだった。


 顎が外れるかと思うほどの、とてつもなく大きなあくび。殿下は慌てて手で口を押さえたが、止まらない。二度、三度。目尻に涙がにじみ、膝ががくりと折れかけて、ロジーナ嬢に支えられた。


「で、殿下?」


「な、なんでも……ふあ……ない……」


 六年分の、寝不足だった。


 広間の誰も、笑わなかった。皆、自分の頬に手を当てていた。


 ロジーナ嬢も、左の頬を押さえていた。耳の下のあたりを、白粉の上から、指先でそっと。


「どうした、ロジーナ」


「いいえ。少し、かゆいだけですわ」


 わたしは、殿下に向かって、もう一度膝を折った。


「長らくお預けくださり、ありがとうございました。……殿下。明朝は、鏡をご覧にならないほうが、よろしいかと存じます」


 背を向けて、広間を出た。


 誰も、引き止めなかった。


 今ごろ王立画廊の奥では、二百十二の灰色の印に、ひびが入り始めているはずだった。


*


 縁が切れると、写し絵の裏の預かり印(あずかりいん)にひびが入る。ひびの入った印からは、預けたものが、少しずつ持ち主へ戻っていく。


 何か月もかけて、少しずつ。


 それは、預かり役の作法に反する。お返しするなら、きちんと、ひとつ残らず。


 わたしは夜会のドレスのまま、王立画廊の通用口の鍵を開けた。


 表の回廊を抜け、突き当たりの扉を開けると、ひやりとした空気が頬に触れた。奥の間だ。両側の壁に、灰色の布をかぶった額縁が、奥まで続いている。


 殿下の写し絵は、入口から七番目にあった。


 布を外す。


 金色の巻き毛の少年が、そこにいた。十三歳。わたしと婚約した年の殿下だ。


 けれどその顔は、少年のものではなかった。


 目の下に、墨をなすりつけたような隈。頬には吹き出物が散り、こめかみの髪は束になって白く、口元は何かに怯えるように歪んでいる。そして、膝の上に置かれた右の手のひらだけが、赤く腫れていた。


 何かを、打ったあとの手のように。


 額縁を少し傾けて、裏に回る。


 キャンバスの裏一面に、小指の先ほどの灰色の蝋の印が、びっしりと押してあった。灰色の山に、一本の筆。グラウベルク家の紋だ。


 その全部に、細いひびが入っていた。


 わたしは、腰の小袋からパレットナイフを取り出した。それから、革表紙の帳面を開いた。


 最初の印に、刃を当てる。


「六一二年、秋。ご婚約の儀の翌日。初めての乗馬で落馬なさったときの、恐怖」


 かり、と小さな音がして、蝋が剥がれた。


「六一三年、初夏。剣術の御前試合の前夜の、臆病」


 かり。


「六一四年、春。礼法の授業で、王妃陛下の御前でくしゃみを三回なさった恥ずかしさ」


 かり。


「同じ日。その後で、くしゃみは侍従のせいだとおっしゃった後ろめたさ」


 かり。


「六一四年、冬。家庭教師の課題を、ご友人に代わりにやらせたときの、後ろめたさ」


 かり。


「六一五年、秋。ご友人に、乗馬が苦手だと知られたくなかった見栄」


 かり。


「六一六年、夏。賭け札で負けた金額を、陛下に申し上げられなかった焦り」


 かり。


「六一七年、秋。王国史の試験で、隣の席の答案を写されたこと」


 かり。


 殿下は、疲れた日も、しくじった日も、怖くなった夜も、ここへ来て額縁に手を置いた。宮廷では誰もがそうしている。若い貴族にとっては、ちょっとした身だしなみのようなものだった。


 殿下が預けるたびに、わたしは筆を取った。筆の先から、冷たいものが指を伝って上ってきた。


 六年間、殿下はわたしの顔を、一度も見なかった。


 見ていたのは、いつも手袋だった。


「残り、二百四」


 夜明けまでに、終わるだろうか。


 終わらせなければならない。


*


 最後の印を削り落としたのは、東の窓が白み始めたころだった。


 表に回って、わたしは息を止めた。


 絵が、変わっていた。


 隈が消えていた。吹き出物も、白い髪も、歪んだ口元も、赤い手のひらも。金色の髪の少年が、澄んだ目でまっすぐにこちらを見ていた。肌はなめらかで、口元には自信のようなものさえ浮かんでいる。


 美しい少年だった。


 本来は、こういう顔をしていたのだ。預けていたものが、すべて持ち主に返ったから。


 布は、かけ直さなかった。もう隠すものは何もない。


 わたしは、自分の右手を見下ろした。


 一晩じゅうパレットナイフを握っていた指が、細かく震えている。灰色の染みは、いつもどおり、そこにあった。


 母の手は、最期には手首まで灰色だった。


 祖母も、そうだったと聞いている。グラウベルク家の画家は、誰も三十五を越えずに死ぬ。


 鉛の毒は、怖い。


 わたしは手袋をはめて、奥の間を出た。


 殿下は、鏡をご覧になるだろう。


*


 目を覚ました瞬間、ヴィンフリートは、誰かに上から押さえつけられているのだと思った。


 体が重い。腕も脚も、まぶたさえも、濡れた砂袋を縛りつけられたように重い。


「殿下、朝でございます」


 侍従がカーテンを引いた。ヴィンフリートは呻きながら身を起こし、いつものように、寝台の脇の姿見に目をやった。


 そして、悲鳴を上げた。


 鏡の中に、知らない男がいた。


 目の下に、墨をなすったような隈。頬はかさついて、顎に赤い吹き出物がふたつ。何より、こめかみから耳の上にかけて、金色の髪に白いものが混じっていた。一本や二本ではない。束になって。


「殿下、そのお髪は……」


「見るな!」


*


 午前の講義には、帽子を目深にかぶって出た。


 休めば噂になる。昨夜の婚約破棄と結びつけて、面白おかしく語られる。それだけは避けたかった。


 老博士が、王国史の講義を始めた。


 三行も聞かないうちに、ヴィンフリートの頭が、がくりと落ちた。


「殿下」


 はっと顔を上げる。よだれが一筋、羊皮紙に垂れていた。


「し、失礼。少し、寝不足で」


「左様ですか。では、続けます。灰の十年の終わりは、王国暦の何年でしたかな」


「それは……」


 出てこなかった。


 去年までは、すらすら答えられたはずの問いだった。いや、答えられたことになっていたはずの問いだ。


「殿下は昨年、王国史の試験で満点を取られましたな」


 老博士が、穏やかに言った。


 その一言で、背中に冷たい汗がにじんだ。


 あれは、隣の席の伯爵令息の答案を写したものだ。そんなこと、とうに忘れていた。忘れていたはずなのに、今は写した答案の筆跡まで、ありありと思い出せる。胸の奥が、ぎゅっと縮んだ。


 こんな気持ちは、知らない。


 いや。知っていて、どこかへやってしまっていたのだ。


「……今日は、もう帰る」


*


 廊下で、ロジーナが待っていた。


「殿下ぁ!」


 駆け寄ってきた彼女は、ヴィンフリートの顔を見上げたとたん、半歩後ろに下がった。


「……まあ。お疲れですの?」


 扇の陰で、彼女の目がこめかみの白い筋を追っている。ヴィンフリートは帽子のつばを引き下げた。


「あの女に呪われたんだ。預かっていた分を返す、と言っただろう。あれは呪いの文句だ」


「呪い……」


 ロジーナは小さく息を呑み、左の頬に手を当てた。今朝はいつもより、白粉が厚い。


「どうした。昨夜から、そこばかり触っているな」


「いいえ。なんでもございませんわ。……少し、赤いだけ」


 彼女はそれきり、頬から手を離さなかった。


*


 王立画廊の北の端に、グラウベルク家の工房はある。


 ヴィンフリートが扉を蹴り開けると、油と溶剤の匂いが鼻を打った。


 イルゼは、作業台の前に座っていた。灰色の地味な作業着に、白い前掛け。何を考えているのか分からない、いつもの顔で、こちらを見上げる。


「おはようございます、殿下」


「何をした」


 ヴィンフリートは帽子を床に叩きつけた。白い筋の混じった髪が、むき出しになる。


「僕に何をした! この髪も、この顔も、お前の仕業だろう! 返せ!」


「何を、でございますか」


「僕の顔だ! 昨日までの、僕の顔を返せ!」


「お返ししたのが、殿下のお顔でございます」


 ヴィンフリートは、言葉に詰まった。


「お前……昨日まで、僕に口答えなんか一度もしなかっただろう」


「はい。殿下の婚約者でしたので」


「今は」


「今は、ただの画家の娘でございます」


 イルゼは、表情ひとつ変えなかった。


「わたくしは、お返ししただけでございます。殿下がお預けになったものを」


「僕は何も預けてない!」


「左様でございますか」


 イルゼは、作業台の上の革表紙の帳面を開いた。ページをめくる指先に、灰色の染みが見えた。


「では、お読みいたしましょうか。六一五年、春」


 イルゼの声は、平らだった。


「侍女のマルテに茶をこぼされ、頬を打ったあとの、嫌な気分」


 ヴィンフリートの喉が、ひくりと鳴った。


 思い出した。


 打った手のひらの痛みまで、はっきりと。黙ってうつむいた、マルテの横顔も。


「やめろ」


「全部で、二百十二ございます」


「やめろと言っている!」


 イルゼは、帳面を閉じた。


「昨夜、すべてお返しいたしました」


 ヴィンフリートは、作業台に両手をついた。


「……婚約は、撤回する。破棄は取り消しだ。それなら、元に戻せるだろう」


「申し訳ございません」


 イルゼは、少しだけ首をかしげた。


「一度ひびの入った印は、元には戻りませんので」


*


 回廊を戻る途中で、洗濯物の籠を抱えた侍女とすれ違った。


 マルテだった。


 彼女は王子に気づくと、壁際に寄って深く頭を下げた。白髪の混じった頭を見ても、何も言わなかった。


 ヴィンフリートは、その横を通り過ぎた。


 目を合わせることが、どうしてもできなかった。


 これまでは平気だったのだ。平気な顔をしていられたのは、平気でいられないものを、全部どこかに置いてきていたからだった。


 その日、ヴィンフリートは生まれて初めて、自分の顔を重いと思った。


*


 その日の夕方、工房の扉を、遠慮がちに叩く音がした。


 開けると、ヴェールで顔を覆った娘が立っていた。


「……ブラント嬢」


「入っても、よろしいかしら」


 昨夜、殿下の腕にしがみついていた声と、同じ声とは思えなかった。


 工房の小さな椅子に座ってもらい、家政婦のベルタが茶を出した。六十を過ぎた工房の家政婦で、母の代からこの家にいる。


「どうぞ。蜂蜜を、多めにしておきましたよ」


 ベルタはそれだけ言って、台所へ引っ込んだ。引っ込みながら、こちらに目配せをした。昨夜の、あのお嬢さんですよ、という顔だった。存じています。


 ロジーナ嬢は茶碗を両手で包んだまま、しばらく黙っていた。


 それから、ヴェールを上げた。


 左の頬。耳の下から顎の線にかけて、手のひら半分ほどの痕があった。赤く、引きつれて、まだらに光っている。


 火傷の痕だった。


「朝は、少し赤いだけでしたの。お昼を過ぎたら、白粉では隠せなくなって」


 ロジーナ嬢の声が震えた。


「殿下に、お会いしに行きましたわ。殿下なら何とかしてくださると思って。……殿下は、わたくしの顔を見て、窓のほうを向いてしまわれました。今は誰とも会いたくない、帰ってくれ、って」


「左様でございましたか」


「それで、父の書斎に行って、問いただしましたの。父は、驚いていませんでした。それで、全部分かりましたわ」


 六つのとき、冬の夜、居間の暖炉で負った火傷だという。


 四年前、殿下との縁談の話が出たころに、男爵は殿下にお口添えを頼み、グラウベルク家に娘の写し絵を描かせた。娘を薬で眠らせて、頬の痕を預けた。目を覚ました娘は、痕のことも、火のことも、すっかり忘れていた。


「父は、言いましたわ。『あの痕では、良い縁談は来ない。王子妃どころか、伯爵家にも嫁げない。だから、お前のためにしたことだ』って」


 ロジーナ嬢は、ふっと笑った。少しも笑っていない顔で。


「わたくしのため。……そんな言葉が、こんなに気持ちの悪いものだなんて、知りませんでしたわ」


*


「もう一度、預かっていただけませんか」


 ロジーナ嬢は、身を乗り出した。


「お金なら、父に払わせます。借金をしてでも。だから」


「申し訳ございません」


 わたしは、首を振った。


「ブラント嬢のお預かり物は、殿下のお口添えで受けたものです。殿下とわたくしの家の縁が切れた以上、もうお預かりすることはできません」


「では、わたくしは、このまま」


「はい」


 ロジーナ嬢は、言葉を失ったようだった。


 しばらくして、彼女は小さな声で言った。


「……怒って、いらっしゃらないの」


「何を、でございますか」


「昨夜、わたくし、殿下の腕にしがみついて、扇の陰で笑いましたのよ。あなたの婚約者を取ったのよ。ざまあみろと言われても、仕方がないと思って、ここへ来ましたの」


 わたしは、ロジーナ嬢の頬を見た。


 四年前、薬で眠る十二歳の少女の頬に、わたしは筆を当てた。そのときのことを、よく覚えている。


「それは、あなたの傷です」


 わたしは言った。


「あなたが悪いのではありません。お父様がお預けになり、わたくしがお預かりして、今、あなたにお返ししました。それだけのことです」


「でも」


「殿下は、あなたのものではありませんでした。わたくしのものでも、ありませんでした」


 ロジーナ嬢は、目を見開いた。


 それから、ゆっくりと、自分の頬の痕に指先で触れた。


*


「……あ」


 ロジーナ嬢の指が、止まった。


「思い出し、ましたわ」


 ささやくような声だった。


「暖炉の火の中に、硝子玉みたいに光るものがあって。きれいで、手を伸ばしたの。そうしたら、後ろから、誰かが腰を強く抱いて、引き戻してくれて」


 ロジーナ嬢の目に、涙が溜まっていった。


「袖の焦げる匂いがして。床に転がって。痛かったね、ごめんね、ロジーナ、って」


 彼女の母君は、彼女が九つのときに病で亡くなったと聞いている。


「お母様の、腕でしたわ」


 涙が一粒、引きつれた痕の上を伝って落ちた。


「この傷は、お母様が、わたくしを火から引き戻してくれた痕でしたのね。父はそれを、消してしまった。お母様の腕の記憶ごと」


 わたしは、何も言わなかった。


 ロジーナ嬢は、しばらく頬に手を当てたまま、目を閉じていた。


*


 帰り際、ロジーナ嬢は戸口で振り向いた。


 ヴェールは、つけていなかった。作業台の上に、きちんと畳んで置いてあった。


「それは、置いていきますわ。もう要りませんもの」


 夕暮れの光が、彼女の頬の痕を赤く照らしていた。


「返してくださって、ありがとう」


 わたしは、まばたきをした。


 何と答えればいいのか、分からなかった。


「……お返しして、お礼を言われたのは、初めてです」


 ロジーナ嬢は少しだけ笑って、自分の顔のまま、夕暮れの道を帰っていった。


 台所から、ベルタが顔を出した。


「あのお嬢さん、いらしたときと帰るときで、まるで別人みたいなお顔でしたねえ」


「ご自分のお顔に、おなりになったのです」


「はあ。お嬢様は、ときどき難しいことをおっしゃる」


 ベルタは首をかしげながら、畳まれたヴェールを手に取って、どこにしまおうか迷っていた。


*


「お嬢様。一昨日の晩は夜会から戻らずに朝まで蝋を削って、昨日は殿下に怒鳴り込まれて、夕方には男爵家のお嬢さん。お嫁入り前の娘の暮らしじゃありません」


 その翌朝、ベルタは湯を張った盥(たらい)を、どんと作業台に置いた。


「……もう、お嫁入りもなくなったんでしたね」


「ええ。なくなりました」


「それを、そんな落ち着いた声で言うんじゃありません」


 ベルタは鼻をすすり、わたしの右手を取って湯に浸けた。指を一本ずつ洗っていく手が、ふと止まった。


「あら。この指」


 わたしは、湯の中の自分の右手を見た。


 人差し指の染みが、引いていた。


 いつもなら第二関節まである灰色が、第一関節のあたりで止まっている。中指と薬指はそのままなのに、人差し指だけ、霧が晴れたように薄くなっていた。


「鉛の毒が、抜けたのかしら」


 ベルタが首をかしげる。


 わたしも、首をかしげた。


 鉛の毒が、そんなに急に抜けるものだろうか。


*


 昼前、殿下の写し絵に布をかけ直そうと、奥の間へ向かった。もう隠すものはないけれど、一枚だけ顔をさらしているのは、どうにも落ち着かない。


 扉を開けると、先客がいた。


 いちばん奥の、ほかのどれよりも大きな額縁の前に脚立を立てて、背の高い男が、額縁の彫刻を小さな刷毛で払っていた。


 短い黒髪。首から下げた真鍮の拡大鏡。シャツの袖に、溶剤の染みが点々とついている。


「修復師の、ベックさん」


「ノアでいい」


 男は、脚立の上から振り向きもせずに言った。


 三年前に来た、王立画廊の修復師だ。奥の間に入れるのは、預かり役のわたしと、額縁の手入れを任されたこの人だけだった。


 この人がいつも手入れしているのは、最奥の一枚だ。先王陛下の写し絵。母から受け継いだまま、わたしも一度も布を外したことがない。ほかのどれよりも、重い布がかかっている。


「七番目の布が、外れていた」


 ノアが言った。


「かけ直そうかと思ったが、やめておいた。君が外したんだろう」


「ええ。一昨日の夜、お返しいたしましたので」


「あの晩は、一晩じゅう、蝋を削る音がしていた」


「お耳障りでしたか」


「いや」


 ノアは、少しだけ間を置いた。


「二百十二個を、一晩でか」


「はい」


「手は、痛まないのか」


「慣れております」


「慣れるものじゃない」


 ぶっきらぼうな言い方だった。けれど、責められている気はしなかった。


 ノアは脚立を降り、刷毛を腰の袋にしまった。それから、わたしの右手に目を留めた。


 手袋をしていなかった。盥から上がったまま、ここへ来てしまったのだ。


 ノアは首から拡大鏡を持ち上げ、わたしの手から一歩離れたところで、片目に当てた。


「その色は」


 低い声だった。


「どの顔料にもない」


*


 わたしは、思わず手を引いた。


「鉛白の毒ですわ。画家の家の者は、皆こうなります」


「鉛の毒は、そういう色にはならない」


 ノアは、拡大鏡を下ろした。


「鉛は、歯茎に青黒い線を作る。指先なら、くすんだ灰色だ。そんなふうに、夜明け前の空を灰で薄めたような色にはならない」


 わたしは、自分の指を見た。


 生まれたときからあった染みではない。母が死んだあと、九つのとき、ある朝ふと気づいたら、指先に浮かんでいた。それからずっと、少しずつ、上へ。


「……では、何の色なのでしょう」


「分からない」


 ノアは、あっさりと言った。


「分からない色には、分かるまで名前をつけない。修復師の決まりだ」


「修復師の方は、顔料にお詳しいのですね」


「それしか取り柄がない」


 ノアは脚立をたたみ、肩にかついだ。


「それから、その人差し指」


「はい」


「先月見たときは、第二関節まであった」


 わたしは、顔を上げた。


「先月、ご覧になったのですか」


「表の回廊ですれ違った。手袋を外していた」


 ノアはそれだけ言って、奥の間を出ていった。扉が閉まる直前に、もう一言だけ聞こえた。


「私は、絵の表面しか見ない。気にするな」


*


 ひとりになった奥の間で、わたしは、窓から差す光に右手をかざした。


 人差し指の、第一関節。その上の、何もない、ただの肌の色。


 どの顔料にもない。


 では、この色は何なのだろう。


 なぜ、引いたのだろう。


 あの夜、わたしがしたことは、ひとつだけだ。


 殿下に、お返しした。


 奥の間には、まだ三百二十八枚の絵が眠っている。宮廷じゅうの人々が、何年も、何十年もかけて預けていったものが。


 そしていちばん奥には、誰も布を外さない一枚がある。


 わたしの指は、いつも汚れている。


 けれど今朝は、人差し指の一節ぶんだけ、汚れていなかった。


 その理由を、わたしはまだ知らない。


お読みいただき、ありがとうございました。


奥の間には、まだ三百二十八枚の絵が眠っています。

その中に、誰も布を外さない一枚があります。


続きが気になると思っていただけたら、ブックマークと、下の☆☆☆☆☆からの評価をいただけると励みになります。

反響があれば、連載版で、その布を外します。

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