愛しているって言いたかった
私たちは、仮面夫婦だ。
なぜこうなってしまったのか。
私が悪かったのだろうが、今さら後悔しても遅いだろう。
でも、それでも私は、君に、愛しているって言いたかった。
◇◇◇
一縷の望みをかけて、森へやってきた。
貴族の間で、密かに噂されていた。
そこは時計店で、時を戻すことが出来るというのだ。
私には時を戻したい理由がある。
この噂が、私にとって少なからず希望になっていた。
どれくらい歩いただろうか。
目の前に、一軒の小屋が見えてきた。
「本当に……あったのか……」
歩を進める速度をあげる。もう目の前に見えているのに、丈の長い草が私の足に絡みつく。
ようやくたどり着いた小屋には、時計店の看板がかかっていた。
カランカラン。
ドアにかかっていたベルが鳴った。
「いらっしゃいませ」
そこには長い髪を一つに束ねた男が立っていた。
男はゆっくりと振り返った。その顔には無精ひげが生えているものの、身なりは美しく、その佇まいも美しいものだった。
店内にはたくさんの時計がかかっていたが、その時計には針がついていなかった。
(なんだ?この時計店は……)
──時を戻すことができる。
本当にそんなことができるのか。しかし、まさに今も時を進めているのか、はたまた戻されているのか、それとも止まっているのかがわからない。時間の感覚が狂っていく。
「あの、ここは時計店なのですよね?」
「はい。ただし、針のない時計店です」
「あなたが店主ですか?」
「そうなりますね」
「では、お聞きしたいことが。こちらでは時を戻すことができるという噂があるのですが、本当でしょうか?」
男はにっこりと微笑んだ。
「いつに戻りますか?」
その言葉に、私は息を呑んだ。
「妻が、事故に遭う前に戻りたいんです」
「事故?」
「馬車の事故です。今、妻は意識もなく寝たきりなんです。ずっと医者からは、覚悟をと言われています。妻が事故に遭う前に戻りたい」
事故が防げれば。だが、それ以上に、妻ときちんと向き合いたかった。
「では、戻りたい時点を強く念じてください」
店主は懐中時計を手にすると、目を閉じ、強く念じ始めた。
◇◇◇
ゆっくりと目を開けた。目の前には見慣れた天井がある。
「はっ!」
私はがばりと起き上がった。辺りを見渡せば、ここは見慣れた私室のベッドの上だった。
(屋敷?)
寝間着のままだったが、部屋を飛び出した。向かったのは妻の私室だ。
「え!?ヴィルヘルム様!?」
廊下ですれ違った執事が驚き、声を上げた。しかし、それよりも何よりも……。
妻の部屋にノックもせずに入った。そこには、ベッドの上で起き上がっている妻がいた。
「ヴィルヘルム様!?」
目を大きく見開いている妻を見て、部屋に入った勢いをそのままに彼女に近づくと、ぎゅっと抱きしめた。
「エレン」
そんな私の背に、彼女の手がゆっくりと回された。その動きは、恐る恐るという言葉が合うだろう。
私が彼女を抱きしめるなんてことは、今までに一度もなかったのだから。
◇◇◇
私たちは、家格も同等で、年齢も同じとあって、ちょうどよいと婚姻が結ばれた。少なくとも、周囲にとってはそういう話だった。だが、私の中ではそうではなかった。ずっと、彼女のことは気にかけていたからだ。
社交場で彼女をよく見かけた。時々目が合うと、会釈だけする。
どんなに大きな夜会でも彼女を見つけていた。それが、知らず知らずのうちに彼女を探していたからだと気づくと、目を合わせることができなくなっていた。
父から提示された婚約者の候補の中に、彼女がいた。私は迷わず彼女を選んだ。
婚約は、条件が合うからという理由で、我が家から申し込んだものだった。
彼女がそれをどう受け取ったかはわからなかった。緊張するあまり、彼女との会話もままならなかったからだ。
結婚してからもそれは変わることはなかった。周囲は私たちのことをこう語っていた。
──仮面夫婦。
社交場では夫婦としてきちんと務めた。しかし、屋敷に戻れば会話もない。目を合わすこともない。
彼女を前にすると、どうすればいいのかわからなかった。
結婚して2年が経ったある日のことだった。落石事故だった。
妻の乗った馬車が通りかかったその時に、落石があった。馬車は崖から転落し、御者や付き人もいたのだが、一命を取り留めたのは妻だけだった。彼女は意識不明で寝たきりとなった。
その日から1カ月、悔やむ日々を送り続けていた。
なぜ私は妻との時間を有意義に過ごそうとしなかったのかと。
時間を作っては妻の部屋に行き、顔を見つめ、頬を撫でた。手を握りしめた。
「エレン」
名前を呼び、目を覚ましてくれと願った。
しかし、医師は彼女の鼓動が日に日に弱っていると言った。覚悟をするよう言われた。
そして噂を聞きつけ、時計店を探した。
まさか、本当に時戻りができるとは。
今、目の前には、動くエレンがいる。エレンが微笑んでいる。それだけで、涙が出そうだった。
◇◇◇
「先ほどは突然すまなかった」
「いえ、私も夢見が悪かったものですから、安心しました」
突然抱きしめてしまったことを、私を立て、自分のためでもあったと補ってくれる心配りは、流石であった。
あのあと、すぐに部屋に戻り、執事に日付を確認すると、妻が事故にあう1か月前であることが分かった。事故の原因はわかっているのだから、防げるはず。今は彼女がこうして以前の姿で存在している。私の行動を改める機会を得たのだから、後悔を晴らさなければ。
「私も同じく、夢見が悪かったのだ。しかし、そのおかげでこうやって共に食事をすることになった。今日はこのまま、二人で出かけないか?」
「え?」
「君さえよければ」
私は、彼女の目をしっかり見つめた。
「はい。是非」
彼女は、笑顔と共に返事をくれた。
屋敷中の使用人らが顔を見合わせる中、私とエレンは出かける準備をし、馬車に乗り込んだ。
(どう話しかけようか……)
向かい合わせに座っているエレンにちらりと目を向けた。すると、彼女と目が合った。
(あ……)
彼女の真っ直ぐな視線に捕まった。わずかな時間だったが見つめ合うと、彼女が穏やかに微笑んだ。
「あの、どちらに行かれるのですか?」
「……まずは、天気も良いし、国立庭園はどうだろうか」
「はい。よろしいと思います」
エレンがこくりと頷いた。
同意を得られたことで、私は車窓を眺めた。時折、エレンの様子を窺う。すると、彼女もまた、こちらの視線に気づいたように顔を上げた。
あの頃と同じように目が合った。でも会釈ではなく、微笑みを返した。エレンは一瞬目を丸くするも、彼女もまた微笑んでくれた。
二人で庭園を散策する。私の腕には彼女の手がかけられ、何か話すことなく花を見て回った。今の私たちは、周りからはどう見えているのだろうか。仮面夫婦ではなく、夫婦に見えているだろうか。
色とりどりのマーガレットが咲いていた。そこで足を止めた。
「君は、この花が好きだろう?」
「ご存知だったのですか?」
庭に咲いていたマーガレットの前にしゃがむエレンをよく見かけていた。だから、彼女の一番好きな花なのだろうと思っていた。
「ああ。よく摘んでいたか」
「ご覧になっていたのですか?お恥ずかしいです」
「いや、もっと摘んでも良かったのに、いつも1輪だったから気になっていた」
「あれは、花占いに使っていたのですよ」
「占い?」
エレンを見れば、彼女の顔は真っ赤に染まっていった。
「エレン?」
「……恋占いです。あなたの心はどこにあるのかと……」
彼女の、私の腕をつかむ力が、わずかに強まった。
私は、腕にかけられたエレンの手に、空いている手をそっと添えた。
「そんなことを、していたのか……。そんなことをせずともよかったのに……」
「ヴィルヘルム様?」
彼女が私を見上げた。私は目を覗き込むように合わせた。
「私の心は君にあるよ、エレン」
彼女が息を呑んだのがわかった。
「それで?結果はどうだったのだ?」
「正しかったようです。いつも答えはYESでしたから」
彼女は嬉しそうに微笑んだ。
次に、街を散策した。こういうこともしたことがなかった。
「何か、気になるものはあるか?」
「いえ、特には。でも、そうですね……。ジュエリーを見てもよろしいでしょうか?」
宝飾店に立ち寄った。エレンが向かったのはイヤリングでもネックレスでもなく、カフスボタンが置いてある棚だった。
「エレン?」
「ヴィルヘルム様にご用意したくて。来月お誕生日がございますでしょう?」
自分の誕生日など、すっかり忘れていた。
それは、エレンが事故にあった後だったからだ。祝い事など、頭の中からは消えていた。
「せっかく来たというのに。まだ先の話だろう?」
「ですが、ご用意しておいてもいいでしょう?せっかく二人で来ることができたのですから。こちらはいかがです?あなたの緑の瞳と同じ色ですわ」
商品を手にすると、エレンは少し背伸びをして、私の瞳を覗き込んだ。彼女の透き通った青い瞳と目が合った。
「だったら、こちらの色がいい。君の瞳の色だ、エレン」
私が違う商品を指差すと、彼女は目を瞬かせた。その愛らしい表情に思わず笑ってしまった。
「ふっ。私は君の色を身に着けたい」
エレンの頬を指でなでた。彼女の目元が潤んでいく。溜まった涙を、添えた指で受け止めた。
「私の色は、君に身に着けてもらうとしよう。何がいい?」
こうして、ネックレスも選ぶことにした。
帰り道、馬車の中では横並びに座った。
急に態度の変わった私を、自然と受け止めてくれているエレン。彼女もまた、このように過ごすことを望んでくれていたのだろうか。だとしたならば、なんてひどい夫だっただろうか。
「エレン。今まですまなかった。私はきちんと君と向き合えていなかった。想いは君にあったのに、それを表現することをしなかった。急なことで戸惑ったであろう。それほどまでに、私が見たのは悪夢だったのだ。これからは、素直に、君と向き合いたい。もし受け入れてもらえるのなら……」
膝の上で握りしめていた拳に、エレンが手を重ねた。
「私は、ずっとヴィルヘルム様を見てきました。あなたの妻になれたことだけでも嬉しいことだったのです。あなたの側にいられることだけでも。ですから、私はどんなあなたでも、受け入れていますよ」
「エレン」
私は、そっとエレンを抱き寄せた。
屋敷に戻ると執事に伝えた。これからは寝室を共にするから、そのように整えてほしいと。
彼女を抱きしめて眠るなど、一切してこなかった。
彼女の温もりに安らぎを感じ、共に朝を迎える喜びを噛み締めた。
先に目を覚ますと彼女の呼吸を確認し、彼女の目覚めに安堵した。
あの日から、私たちはずっと一緒にいた。
今までできなかったいろんなことをした。できる限り食事を共にし、観劇や散策、祭りにも参加した。二人寄り添い過ごし、愛の言葉も伝えた。
エレンは嬉しそうに微笑んだ。彼女の輝く笑顔に胸を打った。
そして、問題のあの日がやってきた。妻が事故にあった日だ。
何かと理由をつけて、妻には家にいるよう伝えた。執務中も彼女を側に置いた。
「そろそろ休憩にしよう」
ティータイムにする。お茶請けはエレンの好きなクランベリーのスコーンを用意した。
「今日はクランベリーなのですか?」
「ああ。君が一番好きな味だろう?」
「よくご存知ですね」
「君を見ていればわかるよ」
彼女の頬に口づけをした。
「ヴィルヘルム様……」
エレンが私を真っ直ぐに見つめた。
「愛していますわ」
突然の彼女の告白に、私の胸は締め付けられた。
「いったい、どうしたというのだ?エレン」
彼女の手を取ると握りしめた。彼女が今にも消えてしまいそうで、しっかりと握り直した。
「ヴィルヘルム様から、毎日愛をいただいて、私もしっかり伝えておかなくてはと思ったものですから。愛していますわ、ヴィルヘルム様。私を妻にしてくださって、ありがとうございます」
「そんなこと……。私こそ至らない夫だっただろう?でも、これからは自慢できる夫でいるよう努力するよ」
私はエレンを引き寄せると、包み込むように抱きしめた。
翌朝のことだった。
「エレン?」
彼女は眠ったまま目覚めなかった。まるで、事故後の、あの寝たきりの状態に戻ったように。
医師に診せたが原因はわからず、彼女はひと月眠り続けた。
徐々に鼓動は弱くなり、そして、目覚めることなく儚くなった。
◇◇◇
「エレン……」
私は目から零れた涙をそのままに、泣き崩れた。
気がつけば、そこは屋敷ではなく、時計店だった。
「……」
店主は私を支え、椅子に座らせてくれた。
「いかが、でしたか?」
「いかが?」
私はゆっくりと顔を上げた。
「あなたは時戻りをしました。やり直したいとお考えの時間に時を戻し、選ばなかった未来を歩むことができたのです。さて、歩んだ先の結末はいかがでしたか?」
目を閉じ、時戻りの間を振り返った。
「幸せでした。とても愛に満ちた日々を……」
「では、なぜ泣いておられるのですか?」
「結局、エレンは寝たきりになり、亡くなりました」
それには、店主が驚きの声をあげた。
「え?事故は防げなかったのですか?」
「事故は防げたのですが、妻が目覚めることがなかったのです」
「そう、でしたか……。時戻りは、やり直すことで選ばなかった先を経験することができるだけなのですが」
店主のその言葉を聞き、あることに思い当たった。
「では、あの戻った人生というのは、何だったのです?」
「もしもの世界です」
「もしも?仮の世界ということですか?夢のようなもの?」
「そう考えてもらってもよいかと」
「では、今、現実ということですか?今は、いつなのです?」
「時戻りをする瞬間に戻ってきただけです。つまり、現実の世界では時間は変わっていませんよ」
あの愛に満ちた日々は夢の中だった。現実では妻に何も伝わっていないということなのか。
愕然としている私に、店主は告げた。
「この先の未来はあなた次第です」
「この先?──はっ!エレン!」
カランカラン
店を飛び出すと、急いで屋敷へと戻った。
廊下を走り抜ける私に、皆が振り返る。
目的地はエレンの部屋だ。
扉を開け中に入った。
「エレン……」
ゆっくりと、ベッドで横になっている妻に近づいた。
膝をつき、彼女の顔を覗き込んだ。
エレンは変わらず美しかった。ずっと見てきた彼女の顔は、大好きだった。
おそらく一目惚れだったのだ。彼女を知ってから、いつも目で追うほどに。
目が合うようになって、会釈するようになって。
そんな彼女と結婚できたのだ。
エレンを妻にできたことだけでも嬉しかった。
──私は、ずっとヴィルヘルム様を見てきました。あなたの妻になったことだけでも嬉しいことだったのです。
時戻りの世界で、エレンが伝えてくれたことだった。二人の関係が変わったからじゃない。変わる前からそうだったと教えてくれたのだ。
目が合っていたのは、エレンもまた、私を見ていたからだ。
──愛していますわ
(ああ、私もだ)
伝えなくては。エレンに。
エレンの頬にそっと触れる。もう片方の手で、彼女の手を握りしめた。
「エレン。私と結婚してくれてありがとう。君を、愛しているよ」
すると、彼女の口角がわずかに上がった様な気がした。
「エレン?」
そして、彼女の目から、涙が一筋零れた。
彼女が大きくふぅと息を吐いた次の瞬間、彼女は時を刻むことを止めてしまった。
「エレン……」
(よかった。想いを伝えることができた。そして、受け取ってもらえた)
私は彼女の顔を両手で包み込むと、しばらくの間、エレンの顔を見つめ続けた。
その穏やかな表情を、目に焼き付けるように。
◇◇◇
「死の運命だけは、変わらないということなのか……」
店主の元に、ヴィルヘルムから手紙が届いた。
妻の最期に立ち会えたこと、愛を伝えることができたこと。時戻りのおかげで、現実と向き合い、しっかりと別れることができたと書かれていた。
夫は妻を愛の言葉で看取った。
二人に待っていたのは永遠の別れであったが、二人は心を通わせることができたようだ。
失っても残るものはある。それを今後の糧にできるかどうかは、時戻りを経て何を選んだかによるのだろう。
店主は懐中時計を手に握りしめた。その時計には針はない。
時を刻まぬ時計を、店主は見つめ続けた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
本作は『針のない時計店』を舞台にした短編集の第二話です。
時計店を訪れる人々が経験する、選ばなかった人生と、その先にある選択を描いていく予定です。
また別のお話でお会いできましたら幸いです。
よろしければ、ブックマークや評価をいただけますと、今後の執筆の励みになります。
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