私の粥を炉番娘へ渡した鋳物師に、木椀ごと求婚されました
カ、カ、カ。
私の匙が木椀の縁へ三度触れた。
寒さのせいだ。晩秋の朝である。指先くらい震える。淑女たるもの、たとえ二晩続けて帳面と睨み合っていようとも、朝粥の肉を数え損ねたりはしない。
四切れ。
しかも私の椀には大きいものが四切れ。昨日は二切れだった。領営鋳造所の資材配分を預かる者として、これは大変喜ばしい増量である。個人としてはもっと喜ばしい。さあ食べよう。四切れ全部。
「それは食べないでください」
匙を差し入れる寸前、向かいにいたキリアンが言った。
「はい?」
彼の視線は粥ではなく、私の指へ落ちていた。
右手が私の木椀を取る。左手が彼自身の椀を置く。二つの動作には、抗議を差し込む隙が匙の先ほどもなかった。
私の朝食は、卓上を木椀一つ分だけ横滑りして、サフタの前へ止まった。
私より先に炉番娘のところへ嫁いだのである。粥にそんな社交性があるとは知らなかった。
代わりに寄越されたキリアンの粥は薄い。肉は一切れ。小さい。これは肉ではなく、肉だった頃の思い出では?
「キリアン。いま、わたくしの椀をサフタへ渡しました?」
「ええ」
「肉が四切れ入っていた椀を?」
「数えていたんですか」
「資材の把握はわたくしの仕事です」
「朝食は資材ではありません」
「では返してください」
サフタは滑ってきた椀を覗き込み、口の端を上げた。
「私がやる」
何を。
食べるのを? 私の四切れを?
キリアンは答えず、立ち上がった。自分の朝食を私へ渡したので、彼の前には何もない。それなのに平然と炉のほうへ歩いていく。
「あなたは食べないのですか」
「時間がありません」
「わたくしには、その一切れで我慢しろと?」
「冷める前にどうぞ」
冷たいのは粥ではなく、あなたの仕打ちです。
もちろん口には出さなかった。領主家の令嬢には品位がある。
「横暴ですわ!」
品位より空腹のほうが声が大きかった。
* * *
五日後、鐘の鋳型を乾かし始めて二十一日目の最終夜。
私は炉温、炭を足した時刻、作業位置、戸口から吹き込む風向きを帳面へ書き込んでいた。
北東。三十息後も北東。炉前は上昇。西の湯口付近だけ遅い。
墨を含ませた筆を持ち上げる。
ぽたり。
数字の上に黒い染みが落ちた。
指が震えただけだ。寒さで。炉前なのに暑いけれど、きっと特殊な寒さだ。領主家の令嬢には、ときとして常識では説明できない寒さが訪れる。
帳面を覗き込んだキリアンが、私の手首を掴んだ。
「今夜はもう要りません」
低く、短い声だった。
「どなたが?」
「あなたがです。寝所へ戻ってください」
私は炉の向こうを見た。
サフタは長い火掻き棒を肩に担ぎ、送風口の火色を見ている。煤で頬を汚しながら、キリアンの指示を待っていた。
「サフタは残るのですね」
「彼女は炉番です」
「わたくしは記録係です」
「その記録が読めなくなる前に休んでください」
墨染み一つで、技能まで染み扱いされた。
しかも女として残されたのもサフタ。仕事でもサフタ。朝粥までサフタ。三戦三敗ではないか。まだ二戦だが、私の心は先んじて三敗目まで受け取った。
「承知しました」
帳面を閉じる音だけは、よく乾いた。
寝所へ戻り、横になった。目も閉じた。
眠れなかったので、翌朝キリアンに会ったなら「よく休みました」と言ってやることにした。完全なる虚偽だが、先に私を不要扱いしたのはあちらである。相殺。たぶん。
* * *
「立って。中を見るよ」
夜明けに寝所へ来たのはサフタだった。
「わたくし、昨夜はもう要らないそうです」
「今朝は私が要る」
「人を炭袋のように扱わないでくださる?」
「炭袋は自分で歩かない」
彼女は私の上掛けを剥いだ。恋敵、容赦がない。
鋳型は地中へ据えられている。高さ一・二メートル、鋳上がれば約七百二十キロ。中心には芯型、その外側に仮鐘を抜いた空隙、さらに外型。溶けた鐘銅を導く四本の湯口と、空気や余分な湯を逃がす二本の上がりが伸びている。
私たちは灯りを寄せ、ひび、剥離、補修跡を順に見た。
「東、乾燥よし」
「南もいい」
「北は?」
「昨日より締まってる。西は触って」
西の湯口の根元へ指を当てる。表面は乾いている。だが補修した土の奥に、ほかとは違う冷たさが残っていた。
「乾燥が遅れていますわね」
「やっぱり」
サフタの送風記録を、私の帳面の横へ並べる。北東の風が強まった時刻、炭を追加した時刻、彼女が西側の火を移した時刻。別々に見れば小さな差だが、一冊へまとめれば西だけが遅れた筋道が見えた。
「あなた、昨夜ここを離れたでしょう」
「炉の火口が落ちた。半刻だけ」
「それを監督へ言わなければ」
「言えば私の失敗で終わる」
「言わなければ鐘の失敗になります」
サフタが鼻の頭の煤を手の甲で擦った。余計に広がった。
「私を庇うの?」
「鐘を庇うのです」
「ついでに?」
「あなたもです」
サフタはにやりとした。
「肉四切れ取られたのに?」
「忘れていません。あなたの椀は肉四切れ、わたくしには一切れ。鐘の配合は銅七十八に錫二十二。どちらも偏りは正確に記憶しています」
「私が見たのは四切れじゃない」
「三切れだったと?」
「そこじゃない」
「では何切れですの」
「あとでキリアンに聞いて」
またキリアン。
腹立たしいので、私は彼女の送風記録を自分の帳面へ綴じ込んだ。これで彼女の失敗だけを一枚抜いて捨てることはできない。
「一冊にしました。逃げられませんわよ」
「そっちもね」
望むところである。恋は負けても帳面では負けない。
* * *
その夜、炉の中で銅七十八、錫二十二の鐘銅が光っていた。
黄色ではない。白に近い熱が、覗き穴の奥で息をしている。
鋳型職人たちは四本の湯口へ樋を合わせ、二本の上がりの周りから道具を退けた。誰の顔にも汗が浮かび、火の粉が飛ぶたび目だけが細くなる。
西の湯口は、まだ使えない。
待ちすぎれば炉温が落ちる。急いで湿りの残る湯口へ鐘銅を流せば、水気が一息で蒸気へ変わる。七百二十キロ分の熱が暴れれば、淑女の品位どころか鋳造所の屋根まで飛ぶ。
「鋳型前、空けろ!」
キリアンの号令で、職人たちが左右へ分かれた。
私は帳面を抱えて西側へ寄った。
彼の手が肩を押し戻す。強い。落下範囲を示す白線の外まで三歩。
「座っていてください」
三度目。
食べるな。帰れ。座れ。
なんということでしょう。私、順調に人間から置物へ昇格しております。
「嫌です」
「ヴァシリキ」
「わたくしの記録が必要です」
「必要だから、そこから読んでください」
「風向計が見えません」
「私が見ます」
「あなたはいま湯面を見ているでしょう!」
キリアンの右手には滓を払う長柄、左手には炉口を開ける合図の縄。目は湯面、足は樋、耳は職人の復唱を拾っている。ここへ風向きまで載せたら、いくら彼でも首がもう一つ要る。
私は白線の内側へ足を戻した。
「座れですって? 止めるべきは鋳造ではなく、寝不足の人間を黙って運ぶあなたの口です!」
「黙って運んではいません。毎回、言っています」
「説明が足りないと言っているのです!」
「いまですか!」
「いまだからです!」
炉が唸る横で、私たちは怒鳴り合った。恋愛とはもっと優雅なものだと思っていた。少なくとも溶けた銅の隣で行うものではない。
「西が冷たい!」
サフタの声が飛んだ。
彼女は補修箇所の外側へ指を当て、すぐ離した。
「表面だけ乾いてる。奥に湿りがある」
工房監督が彼女へ指を向けた。
「昨夜の火を切らしたな。炉番の見落としだ、東と南だけで流すぞ」
「駄目です!」
私の声に、樋を持ち上げかけた職人たちが止まった。
「四本の湯口で満たす設計です。西を外せば湯回りが偏ります」
「なら火を切らした炉番をどけろ。令嬢の私情で庇って鐘を割る気か」
サフタの顎が引かれた。
なるほど。若い炉番娘なら一言で失敗にできる。領主家の令嬢には私情という札を貼る。便利な指だ。そのまま帳面の数字まで指していただこう。
「私情ですわ」
「何?」
「サフタはわたくしの友人です。ですから庇います。けれど、記録はわたくしに恋をしておりません」
帳面を開き、墨染みの一つ前を指で押さえた。
「昨夜、北東の風が強まったのは第二鐘の三十息後。西側の炭火を炉口へ移したのが、その二十息後。補修が終わったのはさらに半刻後です。乾燥時間がほかの三本より足りません」
次の頁。
「サフタが火口を離れたのは南側の送風を戻すため。監督、あなたの指示です。ここに作業位置と時刻があります」
「だが、炉番が先に気づけば」
「わたくしが帰されなければ、二人で気づけました」
キリアンの顔が動いた。
ほんの少し、眉間が狭くなる。こちらを見る。すぐ炉へ戻す。その一瞬で十分だった。私の三敗目は、ここで勝手に取り消す。
私は帳面を掲げた。
「西の湯口を待て!」
「西の湯口を待て!」
鋳型職人たちが即座に復唱し、持ち上げていた樋を下ろした。
監督の指が下がった。
よろしい。その指は最初から作業に使うべきだったのだ。
「炭火を西へ!」
キリアンが叫ぶ。
「炭火を西へ!」
職人二人が赤く熾った炭を鉄籠へ移し、西の湯口の左右へ据えた。
「送風、弱く入れる!」
「送風、弱く!」
サフタが革袋の取っ手を引く。押す。炎が湯口の外側を舐めた。強すぎれば表面だけ焼ける。弱すぎれば炉温が先に落ちる。
「三十息!」
私は数え、帳面へ線を引く。
キリアンが湯面へ滓払いを差し入れた。薄黒い膜を縁へ寄せ、長柄を返す。左手で炉口の具合を確かめる。額から落ちた汗が顎を伝ったが、拭わない。
「風、北へ変わる!」
「送風を半分!」
サフタが引く幅を狭める。
「三十息!」
補修箇所の色が変わる。黒褐色から、ほかの湯口と同じ乾いた灰色へ。
サフタが火掻き棒の先で外側を軽く叩いた。
硬い音。
「まだ奥が冷たい」
「次の三十息まで保つ!」
キリアンは炉口を絞った。職人が炭を足す。火が持ち上がり、彼の頬を赤く照らす。
私は風向計を見る。北。一定。
「三十息!」
サフタが片膝をつき、手袋を外した。指の背を湯口の根元へ近づける。触れずに熱を測り、次に外型側へ一瞬だけ当てる。
「揃った」
「西、乾燥よし!」
「西、乾燥よし!」
職人たちが樋を持ち上げた。
「四本、位置!」
「東、位置よし!」
「南、よし!」
「北、よし!」
「西、よし!」
キリアンが滓払いを引き抜いた。湯面から黒い膜が消え、白い光だけが残る。
「上がり二本、空けろ!」
「二本、空き!」
「ヴァシリキ、風は」
「北、一定。次の三十息まで変化なし!」
彼が縄を引いた。
炉口が開く。
鐘銅が流れた。
最初の一筋が樋へ落ちる。眩しさが夜を押し退けた。東、南、北、西。四本の湯口へ同じ勢いで光が走る。
「東、入る!」
「南、入る!」
「北、入る!」
「西、入る!」
私は帳面を胸へ押しつけた。書いている余裕などない。目で時刻を刻む。
「三十息!」
サフタが送風を止める。キリアンが流量を絞る。職人が樋の傾きを一段下げる。
一本目の上がりへ赤い湯が顔を出した。
「上がり一!」
「二本目、まだ!」
「西を保って!」
西の樋がわずかに揺れた。職人の手袋へ火の粉が散る。
「手を替えるな! あと十五息!」
私が怒鳴ると、彼は歯を食いしばって頷いた。
二本目の上がりが光る。
「上がり二!」
「炉口、閉じる!」
キリアンが縄を戻した。流れが細くなり、止まる。四本の樋に残った光を職人たちが順に落とし切る。
誰も動かなかった。
外型の内側で、まだ見えない鐘が熱を抱えている。二本の上がりから小さく炎が立ち、消えた。
キリアンが西の湯口を見た。サフタを見る。最後に私の帳面へ視線を落とした。
「入りました」
彼の声は、先ほどまでの号令よりずっと小さかった。
私の膝から力が抜けた。
「だから座っていろと言ったんです」
腕を掴まれ、木箱へ降ろされる。
「いまのは疲労ではなく、成功によるものです」
「同じです。座ってください」
「説明を」
「あとでします」
「その『あとで』を帳面に記入してよろしい?」
「期限も書いておいてください」
む。言質を取った。してやったりである。
サフタが床へ座り込み、煤だらけの顔で笑った。
「そこ、二人とも邪魔」
「あなたも座っていますわよ」
「私は炉番だからいい」
「どの規則ですの、それ」
八日間、鐘は鋳型の中で冷えた。
八日目、外型を崩す。土を払い、胴を磨く。縁に欠けはなく、肩にも割れはない。西側の表面を撫でたキリアンの指が、ようやく止まった。
音合わせには、同じ槌を使った。
まず縁。
カァン、と高い音が伸びた。
次に胴。
コォン、と厚みのある音が重なる。
最後に肩。
ゴォン、と低い響きが鋳造所の梁を震わせた。
三点とも同じ強さ。余計なうなりはない。
サフタが両手を腰に当てた。キリアンが槌を下ろした。私は帳面の検査欄へ丸を一つ書いた。
今度は指が震えなかった。
* * *
あの鋳造の六日前、匙が木椀の縁へ三度触れた。
カ、カ、カ。
サフタには、卓の端に立っていたからこそ見えたものがある。
ヴァシリキの指先が、匙の柄をうまく支えられていなかったこと。
研磨場から吹いた風が、開け放した窓を抜けたこと。
粥の白い表面と木椀の縁に、青緑の粉が散っていたこと。
そしてキリアンが、一音目で顔を上げ、二音目で粉を見つけ、三音目で立ち上がったこと。
「それは食べないでください」
同じ席順だった。
キリアンの右手がヴァシリキの椀を取った。左手が自分の無傷の椀を置いた。
問題の椀は木椀一つ分だけ横へ滑り、サフタの前で止まった。
キリアンの視線は、ヴァシリキの震える指から離れなかった。
サフタは椀の縁を覗いた。青緑の粉。銅を含む研磨屑だった。量はわずかでも、食卓に落ちてよいものではない。
「私がやる」
サフタが言うと、キリアンは一度だけ頷いた。
贈り物を受け取ったのではない。汚染源を調べる役を引き受けたのだ。
それでもヴァシリキは肉を数え、キリアンは説明を省き、サフタは面白くなって笑ってしまった。
キリアンは自分の朝食を渡し、空腹のまま炉へ戻った。
ヴァシリキは最後まで、それを余った薄い粥だと思っていた。
そしていま、完成した鐘の音合わせを終えた三人は、研磨場から二棟離れた新しい食卓を囲んでいる。
窓は風下へ開く。夜番は二人交代。卓には遅番の者の分まで蓋付きの粥が置かれ、火傷用の水桶と清潔な布も炉の両側へ増やされた。
サフタは二人の顔を見比べ、十四日分ためていた話を放った。
「あの椀は贈り物ではなく、研磨粉の見本です」
ヴァシリキの匙が止まった。
「見本?」
「青緑の研磨粉が落ちてました。私が調べた。風上の研磨台から飛んでた」
「では、肉四切れは」
「粉まみれ」
「キリアン」
「はい」
「なぜ説明しなかったのです」
「あなたが食べる前に椀を退けることしか考えていませんでした」
「そのあと説明できますでしょう!」
「炉口の修理に呼ばれました」
「戻ってからでも!」
「あなたは怒っていました」
「怒らせたのはあなたです!」
キリアンは背筋を伸ばし、頭を下げた。
「すみませんでした」
あまりに素直だったので、ヴァシリキの次の一言が行き場を失った。開いた唇が閉じる。匙が粥へ沈む。
サフタは自分の肉を一切れ食べた。今日の分は粉まみれではない。ちゃんと美味しい。
「夜番もです」
ヴァシリキが言った。
「二晩で四時間しか寝ていなかったでしょう」
キリアンが返す。
「五時間です」
「横になっていた時間ではなく、眠った時間です」
「横になった努力も加算してください」
「できません」
「冷酷ですわね!」
「寝所へ帰したら、よく休んだと言いましたね」
「あなたに負けたようで癪でしたので」
「誰と何を競っていたんですか」
ヴァシリキの視線が、ちらりとサフタへ来た。
来て、逃げた。
また来た。
「サフタと」
「私?」
「仕事です。仕事の話ですわ」
「粥の肉も?」
「資材配分の話です」
「私の椀、食べてないよ」
「でも三切れ取られました」
「さっき四切れって言った」
「キリアンの椀に一切れありましたから、差は三切れです。計算くらいできます」
「全部、研磨粉の見本」
「理屈ではそうですけれど!」
ヴァシリキが匙を置いた。
勢いよく置いたわりに、木椀の縁には当てなかった。もう指は震えていない。
「あなた方は短い号令だけで通じます。わたくしには、食べるな、帰れ、座れ。それだけ。サフタには火を見ろ、風を送れ、西を触れ。わたくしより彼女を信頼しているように見えました」
今度はキリアンが黙った。
炉の前なら一息で三つの指示を出す男が、卓の上では手の置き場所さえ決められない。右手が椀へ行き、戻る。左手が膝へ下りる。
サフタは粥を食べるのをやめた。
キリアンがヴァシリキの指先を見る。
「あなたの帳面がなければ、粉の飛来元は特定できませんでした」
「それは仕事です」
「西の乾燥不足も見抜けなかった」
「それも仕事です」
「サフタの記録を自分の帳面へ綴じたことは?」
「一人の失敗にさせたくなかっただけです」
「監督に私情だと言われて、私情だと認めたことは?」
「友人を友人と呼んだだけですわ」
キリアンの指が、木椀の縁を一度なぞった。
「そういう仕事をする人だから、信頼しています」
ヴァシリキの肩から、言い返すために入っていた力が抜けた。
「評価まで色恋だと思われたくなかった。あなたが領主家の令嬢だから選ばれたとも、私があなたに気があるから帳面を使ったとも」
そこで彼は息を止めた。
サフタは聞き逃さなかった。
ヴァシリキも聞き逃さなかった。耳まで赤くなった。だが、言葉の中身は取り逃がしたらしい。
「いま、何と?」
「説明が遅くなりました」
「そこではありません」
「食卓を移すのも遅かった」
「キリアン」
「夜番の交代制も続けます」
「話を炉へ戻さないで!」
キリアンは椀を両手で持った。
まるで七百二十キロの鐘銅を注ぐ直前のような顔だった。
「これからの食卓を一緒に守ってほしい」
「はい?」
「私と」
「はい」
「毎朝、同じ卓で」
「それは鋳造所の食事当番への勧誘ですか?」
「求婚です」
ヴァシリキの口が開いた。
閉じた。
また開いた。
「木椀を持って求婚する方がいます?」
「ここに」
「なぜ椀ごと」
「食卓を一緒にと言ったので」
「比喩というものをご存じない?」
「あなたは食事の配分を正確に把握するので、現物が必要かと」
「必要ありませんわ!」
「では、この椀は下げます」
キリアンが手を伸ばした。
ヴァシリキも同時に伸ばした。
木椀を取り合う手だけはぴたりと重なった。
「下げるとは言っていません」
「必要ないと」
「求婚に木椀が必要ないだけです」
「では椀は返してください」
「中の肉が二切れです」
「私の椀にも二切れあります」
「合計四切れ」
「数えないでください」
「同じ食卓を守るなら資材は共有では?」
「もう承諾したんですか」
「そんなこと言っていません!」
サフタは用意していた新品の木椀を二つ、二人の間へ置いた。
「三角関係は食卓の脚だけで足ります」
一瞬、ヴァシリキが新品の椀を見た。
キリアンが見た。
サフタは真顔を保とうとした。
最初に吹き出したのはキリアンだった。
ヴァシリキが目を丸くし、それから腹を押さえた。サフタも卓へ額をつけた。粥をこぼさないよう椀だけは三人揃って遠ざける。その動作までぴたりと合い、余計におかしくなった。
鋳造所に、完成した鐘より遠慮のない笑い声が響いた。
笑いながらヴァシリキは、重なった手を離さなかった。
もう片方の手でキリアンの木椀を掴み、自分の椀の隣へ引き寄せる。
二つの木椀は、縁を軽く鳴らして止まった。




