第39話《怒りだけが降る》
空が、低く鳴った。
雷ではない。
崩落でもない。
抑えきれなくなった感情が、世界を叩く音だった。
村の上空に浮かぶ光の輪が、先ほどよりも歪んでいる。
色は濁り、輪郭は荒れて、風が近づくたびに軋んだ。
アイシャは一目で悟る。
「……だめ。これは……読めない」
ミナトが視線を向ける。
「読めない?」
「ううん……
読めるけど、書きたくない」
EchoBANDが、いつもより鈍い光を放っている。
まるで拒絶するように。
カイルが短く息を吸った。
「……感情の偏重体だな。
記憶が“怒り”だけを保持したまま実体化してる」
ルカが顔をしかめる。
「つまり?」
「対話不能。
意味も、後悔も、救いも……もう削ぎ落とされてる」
その言葉が終わる前に、
光の輪が破裂した。
音はなく、
ただ、影が落ちてきた。
地面が砕け、
粉塵が舞い、
空気が押し潰される。
それは人の形をしていなかった。
腕は異様に長く、
背中は曲がり、
顔にあたる部分は――空洞。
中には、
赤黒い光が渦巻いている。
ミナトは、即座に前に出た。
「下がれ!」
村人たちを背に庇う。
刀を抜く音が、短く響いた。
影が動く。
速い。
迷いがない。
感情が単一だからだ。
怒りは、
躊躇を必要としない。
影の腕が振り下ろされる。
ミナトは半身でかわし、
刃を返した。
触れた瞬間、
刃を通して“感情”が流れ込む。
叫び。
否定。
拒絶。
そして――
「なぜ、俺だけが」
ミナトの奥歯が噛み締められる。
(……くそ)
影は、生前の理由すら覚えていない。
ただ、世界に拒まれたという感覚だけが残っている。
「ミナト!」
アイシャの声が飛ぶ。
彼女は弓を構えていない。
代わりに、EchoBANDを押さえている。
「……これ、書いたら……
この怒りも、意味として残る」
その一瞬の迷いが、
影に隙を与えた。
ミナトの肩に、
衝撃が走る。
空間が歪み、
身体が吹き飛ばされる。
地面を転がりながら、
ミナトはすぐに立ち上がった。
「……アイシャ」
声は低い。
しかし、揺れていない。
「これは……
書かなくていい」
彼女が息を呑む。
「ミナト……?」
「これは、残すべき記憶じゃない。
守るべきは、生きてる人間だ」
影が、再び迫る。
ミナトは、刀を構え直した。
構えは、静かだ。
迷いがない。
「……すまない」
誰に向けた言葉かは、分からない。
一歩。
二歩。
刃が走る。
今度は、
躊躇なく。
影の中心に、
深く、刃が入る。
怒りの塊が、
悲鳴を上げることはなかった。
ただ、
急激に崩れ落ちる。
赤黒い光が砕け、
粒子となり、
風に散る。
それは、
空へも、
地面へも、
行かなかった。
どこにも残らなかった。
沈黙。
ミナトは、刀を下ろす。
呼吸が、少しだけ乱れている。
アイシャは、しばらく動けなかった。
「……消した、の?」
ミナトは、はっきり答えた。
「……消した」
カイルが、静かに言う。
「正しい判断だ。
あれは“記録”にしてはいけない類だった」
ルカは、目を逸らした。
「……でもよ」
ミナトは続ける。
「全部を残す必要はない。
世界が壊れるなら、
切り捨てる選択も必要だ」
アイシャは、唇を噛んだ。
EchoBANDが、静かに冷えていく。
「……私、初めて……
書くのを、拒んだ」
ミナトは、彼女を見た。
「それでいい」
風が、二人の間を通り抜ける。
だがその風は、
どこか冷たかった。
カイルが空を見上げる。
「……問題は、ここからだ」
遠くの空に、
複数の光の歪みが浮かび始めている。
一つじゃない。
二つでもない。
「怒りだけじゃない。
欲望、後悔、恐怖……
偏った記憶が、次々に降りてくる」
ミナトは、静かに言った。
「……世界が、試してるな」
アイシャは、拳を握った。
「読むか、書くか……
それとも、拒むか」
三つの選択肢。
どれも、
世界を変える。
空が、また低く鳴った。




