第38話《降りる記憶、立ち上がる影》
最初に降りてきたのは、音だった。
空気が裂けるような破音でもなく、
雷鳴のような轟音でもない。
それは、
誰かが深く息を吐いたような音だった。
村の中央、
何もなかったはずの場所に、
淡い光の輪が浮かび上がる。
光は円を描き、
その中心から“影”がにじみ出た。
形は、人に近い。
だが、輪郭が曖昧で、
身体の一部が欠けている。
ミナトは直感した。
(……これが、“空から降りた記憶”)
ルカが一歩下がる。
「……おい、あれ……生きてんのか?」
カイルは目を細め、慎重に言った。
「生きてる、というより……
生きられなかった可能性だな」
影が、動いた。
歩幅はぎこちない。
まるで、自分の身体の使い方を
思い出そうとしているようだった。
村人の一人が、
ふらりと前に出る。
「……あ、あれは……」
影と目が合った瞬間、
その男は膝をついた。
「……俺だ……」
震える声。
「……若い頃の……俺だ……」
影は、男を見つめていた。
そこに敵意はない。
ただ、答えを探している目だった。
アイシャの胸が、痛む。
EchoBANDが静かに脈打つ。
風が、彼女にだけ語りかける。
——これは、記録だ。
——だが、未完の記録だ。
——選択されなかった人生。
——終わらなかった感情。
「……戻りたかったのね」
アイシャの声は、小さかった。
ミナトは、影と男の間に立つ。
「近づくな」
優しく、しかし迷いのない声。
「……それは、お前じゃない」
影が、わずかに揺れた。
理解できない。
だが、拒絶されたことだけは、分かった。
影の身体が、歪む。
記憶が、暴走を始める。
カイルが叫ぶ。
「まずい!
“自己同一性”が崩れる!」
影の輪郭が崩れ、
別の映像が重なり始める。
怒り。
後悔。
言えなかった言葉。
それらが、
一つの塊になって噴き出す。
村の空気が、重くなる。
ルカが歯を食いしばる。
「……ちっ、情緒の塊が暴走してんのかよ」
ミナトは、刀を構えなかった。
代わりに、一歩前に出る。
「……お前は、選ばれなかった。
でも、それは――
間違いだったって意味じゃない」
影が、止まる。
ミナトは続けた。
「世界は、全部を残せない。
だから、空に逃がした」
アイシャが、静かに言葉を継ぐ。
「……でもね。
逃がした記憶は、
消していいものじゃない」
彼女は、一歩踏み出した。
風が集まり、
空に“線”が描かれる。
EchoBANDが、
新しい位相で光った。
「……私は、書く」
ミナトが振り向く。
「アイシャ?」
彼女は、影をまっすぐ見つめた。
「あなたは、ここに居続ける必要はない。
でも……
忘れられる必要も、ない」
風が、影を包む。
暴走していた記憶が、
少しずつ整っていく。
カイルが息を呑む。
「……記録を書き直してる……
“存在”じゃなく、
“意味”として保存してる……」
影は、徐々に光へと変わった。
人の形を失い、
ただ、柔らかな光の束になる。
最後に、
影は一度だけ、ミナトを見た。
感情はない。
だが――
感謝だけが、残っていた。
光は、空へと還っていく。
上に向かって、
静かに、降る雨のように。
村の空気が、少し軽くなった。
ルカが息を吐く。
「……助けた、のか?」
アイシャは首を振る。
「……“しまった”だけ」
ミナトは、彼女を見つめる。
「……それで、いい」
だが。
空の奥で、
別の“影”が動いた。
今度のそれは、
優しくない。
記憶が、
怒りと欲望だけを残したまま、
降りようとしている。
カイルの声が、低くなる。
「……一体じゃないぞ。
これから、次々に来る」
ミナトは、静かに刀を握った。
「……なら、守る」
アイシャも、EchoBANDに触れる。
「……読むだけじゃ、足りない」
風が、二人の間を通り抜ける。
世界は、
記憶を降ろし始めた。
それを、
どう受け止めるかは――人次第だ。




