第36話《風が示す異変》
最初に異変が現れたのは、音だった。
遠くの街から届くはずの鐘の音が、
一拍だけ遅れて響いた。
誰も気に留めない程度のズレ。
だが、それは確実に“始まり”だった。
街道沿いの瓦礫の隙間で、
透明な虫が、また一匹羽ばたいた。
羽音は小さい。
だが、その周囲だけ、空気がざらつく。
ルカが眉をひそめる。
「……増えてねぇか?」
「増えてる」
カイルは即答した。
「数も、種類も。
最初は単一構造だったが、
もう“適応”が始まってる」
「虫が進化するとか、冗談きついぞ」
「冗談じゃない。
あれは生き物じゃなくて、
“世界の処理残骸”が形を持ったものだ」
ミナトはしゃがみ込み、
一匹の虫にそっと手を伸ばした。
触れた瞬間、
指先に、微かな痛みが走る。
皮膚が切れたわけでもない。
だが、確かに“削れた”感触。
「……情報に、触れたな」
血は出ない。
代わりに、
指先の感覚が一瞬だけ薄れた。
カイルが頷く。
「Dヘルツァ粒子が凝集して、
物理と記録の境界に干渉してる」
ルカは距離を取る。
「触んなよ!?
それ、下手したら存在削られるやつだろ!?」
ミナトは立ち上がり、
空を見上げた。
「……でも、放っておくわけにもいかない」
その視線の先で、
雲が、わずかに逆流した。
少し離れた丘の上で、
アイシャは一人、風を読んでいた。
目を閉じると、
風の中に“線”が見える。
どこで流れが滞り、
どこで絡まり、
どこで裂けているか。
今までは感じなかった。
いや、感じていたのに、
読めていなかった。
「……世界が、迷ってる」
彼女の言葉は、
誰に向けたものでもなかった。
EchoBANDが静かに脈打つ。
だが、不思議なことに――
彼女自身は、虫の影響を受けていない。
近くを飛んでも、
風が乱れても、
記憶が削られる感覚はない。
ミナトが近づく。
「……やっぱり、平気か?」
アイシャは頷いた。
「うん。
風が、私を避けてる感じがする」
カイルが合流し、
考え込む。
「……避けてる、というより
**“同一視されてる”**んだ」
ルカが首をかしげる。
「どういうことだよ」
「アイシャはもう、
風や記録と“干渉する存在”じゃない。
記録を書く側に近づいてる」
アイシャの胸が、少しだけ強く鳴った。
「……それって」
「世界のバグに、
バグとして認識されない、ってことだ」
沈黙が落ちる。
それは、守られている証でもあり、
同時に――
戻れない場所へ進み始めている証でもあった。
その頃。
別の地域では、
別の異変が起きていた。
崩れた都市の上空で、
巨大な影が、一瞬だけ現れた。
翼はない。
だが、空間がその周囲だけ歪む。
記録が、引きずられる。
地上では、
人々が同じ夢を見る。
「空が、下から降ってくる夢」
目覚めたとき、
誰もが同じ言葉を口にした。
――雨が、上に向かって降っていた。
アイシャは、ふと呟いた。
「……だから、空を見てたのね。
みんな、無意識に」
ミナトが振り向く。
「アイシャ?」
彼女は、風の流れを指差す。
「記憶って、
もう地面に残らない。
上に、溜まってる」
「空に?」
「うん。
世界が、忘れたくないものを
全部、空に逃がしてる」
カイルが息を呑む。
「……空が、記録媒体になってるのか」
「だから、上に向かって雨が降る」
その言葉に、
全てが一本につながった。
世界は壊れていない。
耐えようとしている。
ミナトは、拳を握った。
「……なら、俺たちは」
アイシャは、はっきり言った。
「世界が迷ってるなら、
進む方向を書けばいい」
風が、彼女の周囲で円を描く。
EchoBANDが、
新しい位相で光った。
その瞬間、
遠くの空で、
何かが“応答”した。
まだ姿は見えない。
だが、確かに――
次の存在が、動き始めている。




