第35話《戻る世界、歪む現実》
風が、正しい方向に吹いていなかった。
それは強風でも嵐でもない。
ただ、わずかに“遅れて”流れている。
空は青い。
雲もある。
太陽もある。
だが、どこかが噛み合っていない。
世界が、ほんの一拍だけズレて呼吸している。
地上。
カイルは瓦礫の間に立ち、空を見上げていた。
手元の簡易解析装置が、低く警告音を鳴らし続けている。
「……おかしい」
数値は安定している。
Dヘルツァ濃度も、暴走域には達していない。
それでも――
“世界の応答速度”が落ちている。
ルカが隣で腕を組んだ。
「なあ。
これ、俺の勘なんだけどさ……」
「勘は信用してる」
「世界がさ、
ちょっと考えてから動いてる気がしねぇか?」
カイルは視線を戻さずに答えた。
「……正解だ」
ルカが眉を上げる。
「マジかよ」
「世界の“自動補正”が遅延してる。
まるで、演算リソースを別の場所に割いてるみたいだ」
ルカは息を吐いた。
「つまり?」
「……ミナトだ」
その名が出た瞬間、風が揺れた。
少し離れた場所で、
空間が静かに歪む。
音もなく、
光も派手に散らさず、
“そこに戻るべき存在”が、現実へ戻ってくる。
ミナトとアイシャは、地面に膝をついていた。
呼吸が重なる。
空気が、やけに濃い。
ミナトは、まず“重さ”を感じた。
重力。
空気抵抗。
自分の体重。
どれも、確かだ。
「……戻った、な」
声は、ちゃんと空気を震わせた。
アイシャは一瞬、動けなかった。
EchoBANDの光が、ゆっくりと収束していく。
彼女は周囲を見渡し、
それから、ミナトを見た。
そこにいる。
消えていない。
透けてもいない。
……それだけで、胸が詰まった。
カイルとルカが駆け寄ってくる。
「ミナト!」
「アイシャ!」
ルカは思わず笑った。
「おいおい……
消えたと思ったら、
なんか“重く”なって帰ってきてねぇか?」
ミナトは苦笑する。
「……たぶんな。
世界に、しっかり腰下ろした」
カイルは真剣な顔で二人を見た。
「戻った直後で悪いが……
もう始まってる」
「始まってる?」
「“代償”だ」
その言葉と同時に、
遠くの空で、奇妙な現象が起きた。
雲の一部が、
まるで巻き戻されるように逆流する。
次の瞬間、
別の場所では、雲が“先に崩れた”。
時間の整合性が、局所的に崩れている。
ミナトの喉が鳴った。
「……俺の存在固定の影響、か」
カイルは頷く。
「世界が“ミナトという存在”を確定させるために、
他の場所の処理を後回しにしてる」
ルカが冗談めかして言う。
「世界くん、ブラック企業かよ」
誰も笑わなかった。
アイシャは、静かに空を見つめていた。
風の流れが、彼女には“読めてしまう”。
今まで感じなかった、
**“世界の迷い”**が、風に混じっている。
「……世界が、選択を迷ってる」
ミナトが振り向く。
「アイシャ?」
彼女は、少し間を置いてから答えた。
「ミナトを残すって決めた。
でも、そのために……
何を削るべきか、まだ決めきれてない」
その言葉は、重かった。
そのとき。
地面の隙間から、
小さな音がした。
カサリ。
虫の羽音に似ている。
だが、生き物の気配がない。
ルカがしゃがみ込む。
「……なんだこれ」
そこには、
**透明な羽を持つ小さな“虫”**がいた。
だが、羽ばたくたびに、
空間に微細なノイズが走る。
カイルの顔色が変わる。
「……マイクロ・データ変異体」
「小さいけど……やばいやつ?」
「うん。
“世界の処理落ち”の副産物だ」
ミナトはそれを見つめ、
静かに息を吐いた。
「……始まったな」
何が、とは言わない。
誰もが理解していた。
ミナトの帰還は、
物語の“解決”ではない。
新しい世界の始まりだった。
アイシャは、そっとEchoBANDに触れた。
まだ、温かい。
その温度が、
これから失われるものの数を、
なぜか教えてくるようだった。
風が吹く。
少し、遅れて。
少し、重く。
世界はまだ、歩き出したばかりだ。




