第32話《裂層の呼び声》(後編)
影が消えたあとも、空には静寂が戻らなかった。
むしろ逆に、空気がざらつき始める。
空の裂け目が、音を立てて“膨張”する。
低い振動が大地に響き渡り、
視界の端では古い建物がゆっくり歪んだ。
ルカが叫ぶ。
「おいおいおい……あれ、広がってないか!? 崩れてねぇ!? なぁ!?」
カイルは両手を額に当て、必死で解析を進める。
「……やばい。
裂層、閉じてないどころか――
“外側から押されてる”!」
「押されてるぅ!? 誰に!?」
「わかんない! でも……観測層の向こうから“何かが入ろうとしてる”!」
ルカは固まる。
「入ってくんなよ!!」
アイシャのEchoBANDが、強い光を放ちながら脈動した。
熱ではない。
風でも魔素でもない。
記録の呼吸。
ミナトの体がふっと揺らぎ、
背景と身体の境界がノイズに飲まれていく。
アイシャがすぐ支える。
「ミナト!? 待って、また実体が!」
ミナトは歯を食いしばった。
「……大丈夫だ。
ただ、さっきの観測者が言った通り……
締め切りが近いみたいだ」
アイシャは彼の手を握る。
「締め切りって……なに?」
ミナトは苦笑しながら空を見上げた。
「俺が“この世界にいられる理由”だよ」
その言葉は中途半端な冗談じゃない。
ミナト自身が、誰より理解していた。
世界は、ミナトを存在として“確定”させていない。
だから裂け目の揺らぎに引きずられ、
少しずつ実体が薄くなっている。
ルカもその変化に気づいた。
「おい……ミナト、腕……透けてんぞ!?」
見れば、肘から先が薄い膜のように揺れていた。
触れれば風のように抜けてしまいそうな現実感。
アイシャの喉が震えた。
「……ミナト、行っちゃうの……?」
ミナトは答えない。
答えられない。
何かを言えば、それが「決定」になってしまいそうで。
そのとき――空が“破裂するような音”を放った。
世界が揺れた。
大気が振動し、Dヘルツァ粒子が逆流する。
カイルが叫ぶ。
「まずい……!
裂層が“観測限界”を突破する!!
完全に破れる前に離れろ!!」
しかし遅かった。
裂け目の奥から、“巨大な影”が現れた。
ヴァルグレアのような羽ばたきではない。
もっと静かで――
もっと、人に近い。
カイルは息を呑んだ。
「……違う、あれはヴァルグレアじゃない。
“跳躍種の上位体”……!」
影がこちらへ向く。
空が落ちた。
風が震えた。
アイシャだけが、声を聞く。
> ——「まだ触れるな。観測が崩れる。」
——「汝ら、二層に触れすぎている。」
——「戻す。世界を、正しい軌道へ。」
ミナトの心臓が強く跳ねた。
この声を――
どこかで知っている気がした。
名前は思い出せない。
顔も思い出せない。
けれど、懐かしい。
そして。
怖い。
アイシャは一歩前に出る。
「……あなた、誰?」
影は静かに答えた。
> 「名を持つ必要はない。
我らは“観測者の徒”の記録核だ。」
ルカが耳を疑った。
「コア!? お前、全部のボスってことかよ!?」
影はミナトへ目を向けた。
その瞬間、空の色が変わる。
> 「決定されない存在よ……
そこに立つべきではない。
世界は汝をまだ理解できていない。」
ミナトは影を睨む。
「俺が……ここに来たことが、そんなにまずいのか?」
影は即答した。
> 「まずい。
世界が“自分の姿”を忘れ始めている。」
その言葉に、誰も返せなかった。
ミナトは拳を握る。
「だったら……俺はどうすればいい?」
影は答える。
> 「“観測地点”へ来い。
決定を与える者は……風を記す者と、汝自身。」
アイシャの身体が震えた。
風が、彼女の体に吸い込まれるように集まっていく。
EchoBANDが爆ぜるように光る。
カイルが叫んだ。
「アイシャ! だめだ、近づくな!
その状態は――観測者への“初期接続”だ!!」
しかしアイシャは止まれない。
ミナトの腕がまた透明になったから。
このままでは――消えてしまうから。
アイシャは叫ぶ。
「行こう、ミナト!!
あなたが消える世界なんて……絶対にいや!!」
ミナトの心臓が動いた。
風がうねり、空が裂け、世界が二つに揺れた。
> ——“来い。観測の中心へ。”
影が呼ぶ。
ミナトは息を吸う。
「……わかった。
行くよ。
俺の“在り方”を決めるために。」
アイシャは迷わずその手を掴んだ。
次の瞬間、光が二人を包み――
世界が反転した。




