第29話《残響の座標》(後編)
──狭間世界:ミナト視点**
足元はない。
空も、地も、海もない。
ただ、無数の“記憶”が光の粒になって漂っている。
触れれば流れ込み、離せば消える。
形のない海のようで、しかし重さだけは確かにある世界。
ミナトは静かに歩き出した。
歩けるはずのない場所なのに、足は自然と前へ進んでいた。
(ここが……未観測層)
風がないのに肌が揺れる。
音がないのに声が聞こえる。
――アイシャ
――カイル
――ルカ
――そして、もうひとつの“俺”
すべての声が、透明な糸のようにこの空間に響いていた。
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ふいに、足元の記憶粒がひとつ弾けた。
光が揺れ、映像が空間に浮かび上がる。
まだ子どもの頃の自分。
自転車に乗れなくて膝を擦りむいた日。
母親の手。
夕焼けの匂い。
夏の蝉の声。
懐かしいようで、遠すぎるようで、痛くなるほど温かい。
(……ああ そうだ
俺は……“向こう側”に家族がいたんだな)
けれど、次の瞬間、その映像は波紋のようにひび割れて消えた。
まるで、「これは戻る場所ではない」と告げるように。
代わりに浮かび上がったのは
あの崩壊の瞬間。
黒い雲が空を覆い、地面が割れ、
巨大な異常重力が世界をゆっくり飲み込んでいく。
——特異点誤爆。
——観測層の捩れ。
——ヤタノ方程式の暴走。
——そして、“跳ね返された”自分。
(あのときたしかに、誰かの声を聞いた
助けを求める声じゃない
“導くような声”だった)
その記憶が濃くなると
目の前の光景がぐにゃりと歪み
新たな映像が重なっていった。
見覚えのある金の髪。
青い瞳。
小さな風の調べ。
――アイシャだ。
記憶の中のアイシャは、泣いていた。
現実では見せたことがないほど、弱く、幼い表情で。
『……ミナト……消えないで……』
それはミナトの記憶ではない。
アイシャの記憶だ。
(……見えてるのか
俺の方にも)
ふいに胸が熱くなった。
帰りたい、と思った。
理由が、明確に生まれた。
(………ただ、生きたかっただけじゃない
“あの場所で” 生きたいんだ
あいつらと
あそこで
もう一度)
その瞬間、空間が大きく脈動した。
脚の下に“床”が生まれた。
光の粒が凝縮し、硬度を持ち始める。
世界が“ミナトをこの層に固定しようとしている”。
だが、それは同時に――危険でもあった。
遠くから黒い霧が寄ってくる。
記憶の腐敗層、“虚無圏”。
観測されない記憶が崩れ
負の感情だけが漂う領域。
(ああ、くそ……思い出した
これ、転移事故のときに俺を引きずり込んだ“正体”だ)
黒霧がミナトの腕に絡む
皮膚がざわりと震え
そこから記憶が吸い出されようとする
——名前を忘れていく
——顔を忘れていく
——悲しみだけが残る
まさに、崩壊した世界そのものの力。
ミナトは歯を食いしばった。
「……舐めんなよ」
光の剣が、手に宿った。
かつての刀の“残響”。
刃に沿って、金と青のデジタル光が流れていく。
黒霧が牙のように突き刺さる
体がきしむ
視界が滲む
思い出が削れる
それでもミナトは踏みとどまった
「俺は、この世界の方が……ずっと好きだよ」
黒霧が一気に後退する
光が一斉に弾ける
空間がわずかに色を取り戻す
呼吸のたびに、アイシャの声が聞こえた
『ミナト……帰ってきて……』
笑った
泣きそうなほど、笑った
「帰るよ。絶対に」
世界が、収束した。
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現実側。
空の光が急激に濃くなった。
アイシャが息を飲む
EchoBANDが熱を帯びる
カイルの腕が激しく反応する
「来るぞ……!」
光の中心に、人影ができ始めた
輪郭
肩
胸
指先
少しずつ、確かに“形”になっていく
アイシャが震える
カイルが構える
ルカが涙目で叫ぶ
「お、おい……マジかよ……!」
風が一瞬、すべて止まった
次の瞬間——
光が爆ぜた。
世界が、ミナトを“思い出した”ように。




