第26話 《風を読む者》
——風が、戻らなかった。
音も動きもない世界で、
カイルはゆっくりと瞼を開けた。
空が、逆に流れていた。
いや、流れているのは“記憶”だった。
地平線がねじれ、
街が空へと吸い込まれ、
代わりに、空から“光の雨”が上へ昇っていく。
細い糸のような光が、無数に空の奥へ伸びていく。
「……雨が……上に……?」
手を伸ばすと、指先に小さな光が触れた。
それは冷たくも熱くもない。
ただ、“懐かしさ”の感触だけを残して消えた。
次の瞬間、
カイルの中に知らない記憶が流れ込む——
誰かの笑い声、誰かの泣き声、
そして、どこかで聞いたアイシャの祈り。
彼は気づく。
上に昇っていく光は、
“雨”ではなく、“記録”なのだと。
Dヘルツァ粒子——
風とデジタルを融合させた物質は、
情報の層を空に浮かべ、
死者も、生者も、風も、
すべてを「上書きしながら漂わせている」。
だから、
空は“記憶の層”になっていた。
> 「……だから上に向かって雨が降っていたのね……」
その声は、誰かのものだった。
振り向いても、姿は見えない。
ただ、空が答えるように微かに光る。
上空では、
光の帯が渦を巻いて一つの形をつくり始めていた。
それは“人の姿”だった。
風のように透け、
記憶でできた存在——“観測体”。
「私は“風を読む者”。
この世界の記録を保全する観測体。」
声は、風の内側から響いた。
「空に漂う光は、誰かの記録。
この世界のすべての瞬間が、風と共に空へ流れ、
“上へ降る雨”となって再帰する。」
カイルは空を見上げた。
雲の奥に、街が映っている。
そこには動く人影がある。
——かつての自分たちだ。
「……これは……過去の記録か?」
観測体は頷く。
「風は常に記録し、空はそれを保持する。
だが、今——二つの世界が重なったことで、
記録と現実の境界が崩壊しつつある。」
「つまり……空に浮かんでるのは……記憶の“海”?」
「そう。
空は“記録の海”であり、
雨は“記憶の再生”なのだ。」
風の粒子が頬を撫でる。
そこに、声が混じっていた。
> 『ねえ、また会えるよね……』
それは、アイシャの声だった。
風が震え、
カイルの右腕が微かに光る。
「……アイシャ……」
彼が名を呼ぶたび、
空の雨はさらに強く“上へ”降っていった。
まるで、記憶たちが空へ帰ろうとするように。
その光景は、美しくも、恐ろしかった。
だってそこにあるのは、
世界のすべての記録だから。
観測体が言う。
「あなたがこの雨を止めることはできない。
けれど、方向を変えることはできる。」
「方向?」
「上ではなく、“誰かへ”——
つまり、記録を“人”に戻すこと。」
カイルは息を呑んだ。
「……それができれば、アイシャたちは——」
観測体は微笑むように光を揺らした。
「彼女は“風の層”にいる。
風を戻せるのは、あなたの双極コードだけ。
記録は風を求め、風は人を求める。
あなたが“風を選ぶ”なら、再び繋がるだろう。」
空が鳴る。
それは雷でも、風でもない。
記録が再生される音だった。
無数の光の帯が渦を巻き、
空の奥で、かつてのアイシャの影が浮かび上がる。
風が再び流れ始める。
だが、それはまだ——
帰り道を見つけていない風だった。




