第25話 ツイン・エコー【前編】
風が、一度だけ止まった。
さっきまで再生を続けていた街の輪郭が、ぴたりと静止する。
空に伸びていた光の柱も、途中で凍りついたみたいに動きをやめた。
「……今の、なに?」
アイシャが小さく息を呑む。
EchoBANDの光だけが、かすかに脈打っている。
胸の奥で、何かが「来る」と告げていた。
風が止まった世界で、
それでも、ひとつだけ動いているものがあった。
——空だ。
裂けた空の亀裂が、静かに広がる。
その向こうに、もうひとつの“街”が見えた。
「……上に、街が……?」
カイルが顔を上げる。
彼の瞳に映っているのは、
さっきまで自分たちが立っていたはずの街とよく似ている。
けれど、細部が違う。
塔の位置も、光の色も、人の影の流れ方も。
まるで、
“世界が一度描いた後、書き直したバージョン” を
空に貼り付けたみたいだった。
リュカがアイシャの袖をそっと掴む。
その指先が、かすかに震えている。
「……二つ、ある。
ここにある“いま”と、あそこにある“いま”。
どちらも、世界の“記録”に刻まれてる。」
「どういうこと?」
アイシャが問い返す前に——
風が、天から落ちてきた。
それは突風でも烈風でもない。
一本の“線”になった風だった。
空の亀裂からまっすぐ降りてきて、
彼らの目の前でゆっくりと形を変える。
光の線がまとまり、輪郭を持つ。
髪が揺れ、腕が現れ、足元に影が落ちる。
やがてそこに、“誰か”が立っていた。
「…………」
言葉を失ったのは、誰が一番早かったのか、もうわからない。
それは——アイシャだった。
アイシャと同じ背丈で、同じ髪の長さで、
同じ形の顔をしていた。
だが、決定的に違うものがあった。
その瞳は、深い蒼ではなく、
ほとんど血の色に近い、静かな紅だった。
「……え?」
自分と同じ顔が、自分を見つめている。
アイシャの喉から、うまく音が出てこない。
リュカが、かすれた声で呟いた。
「ツイン……エコー……」
カイルが振り向く。
「今、なんて——」
「二重の残響。
同じ“想い”から生まれた、二つの“答え”。」
リュカの瞳の中で、風が渦を巻いていた。
「どっちも、本物の“アイシャ”。
でも、たどり着いた場所が違う……」
紅い瞳のアイシャが、ゆっくりと視線を動かす。
髪が、風ではなく“無風”に揺れた。
周囲のDヘルツァ粒子が、彼女だけを避けて流れていく。
彼女の右腕には、EchoBANDはなかった。
代わりに、皮膚そのものに刻まれた黒い紋がある。
線と円が重なり合い、
まるで風の流れを**“封じ込めている”**みたいな文様だった。
「……あれは?」
カイルが眉を寄せる。
右手のDヘルツァが騒ぎ始める。
皮膚の下で二重コードが反応し、熱を持つ。
リュカが小さく答えた。
「風律刻印……
EchoBANDの、もう一つの形。」
紅の瞳の“もう一人のアイシャ”が、
ようやく口を開いた。
声はアイシャと似ている。
だが、その響きはまるで違った。
風を震わせるのではなく、
風を止めるための音だった。
「観測層、接続確認。
対象:アイシャ。
——誤差値、0.002。」
「誤差って……なによ、それ。」
アイシャが精一杯、声を絞り出す。
紅の瞳が、真っ直ぐに彼女を射抜いた。
「……あなたは、“選ばれなかった方”の記録。」
空気が、そこで一度、ひび割れた。
カイルが一歩前に出る。
反射的に右腕を構えた。
「やめろ。
誰の、何の“選択”だ。
そんなもん、勝手に決めさせるか。」
だがその瞬間、彼の右腕の二重コードが暴れた。
Dヘルツァの光が迸り、
地面がひび割れ、
風ではなく“静寂”が周囲に押し寄せる。
「……ぐっ……!」
カイルが歯を食いしばる。
「こいつ、勝手に……!」
紅の瞳のアイシャ——ツイン・エコーが
少しだけ首を傾げた。
「あなたの右腕。
二重コード。
世界の分岐を“読む側”の権限。」
「読む……?」
アイシャが彼を見る。
カイルは息を荒げながら笑った。
「……俺は本なんて読む趣味はないんだがな……
勝手に、ページをめくられてる気分だ。」
リュカが、急いでアイシャとカイルの間に立つ。
小さな体で、両方を見上げる。
「二人とも、落ち着いて……!
これは、誰かが悪いとかじゃないの……
これは、風そのものの“仕組み”。」
「仕組み?」
アイシャが問う。
「うん……」
リュカは胸に手を当てる。
「風は、ひとつの“願い”から
いくつもの“可能性”を試した。
その結果、生まれた二つの答えが——
一人は、風と一緒に“記録”を書こうとしたあなた。
一人は、風を止めて“世界”を守ろうとした、あの人。」
紅の瞳のアイシャが、静かに言葉を継ぐ。
「私は、“世界を固定する”ための記録。
変化は、常に崩壊を伴う。
だから私は、風を止める。」
「それが、あなたの“生きる理由”?」
アイシャが、自分と同じ顔に向かって尋ねる。
一瞬、紅の瞳が揺れた。
ほんの、わずかに。
「……“生きる理由”など、私は知らない。
私が持っているのは、“残された使命”だけ。」
アイシャは、ぐっと唇を噛んだ。
胸が痛んだ。
それは、目の前の“彼女”の痛みでもある気がした。
(私も、あのままだったら……
きっと、どこかでこうなってたのかもしれない。)
風が、三人の間を遠慮がちに流れていく。
まだ、どちらの肩にも寄り添おうとせず、
ただ観測しているだけの風。
カイルが、静かに問う。
「お前は、誰に“命令”されて動いてる。」
紅の瞳は、彼を見ない。
ただ、空の亀裂を見上げた。
「命令ではない。
これは“世界が残した仕様”。
風が止まれば、記録は安定する。
記録が安定すれば、崩壊は止まる。」
リュカが首を横に振った。
「でも、それだと——
“新しい物語”は、生まれない。」
「物語は、常に誰かを傷つける。」
紅の瞳が、今度は真っ直ぐリュカを見る。
「変化は、必ず喪失を伴う。
それでもなお、あなたたちは風を動かそうとする。」
アイシャは一歩、前に出た。
膝が震えても、足だけは踏み出した。
EchoBANDが、静かに光る。
「……そうよ。」
彼女は言った。
「だって私は——
“風が止まった世界で、もう一度生きる理由をつくる”って
決めたから。」
紅の瞳が、それを聞いて、
ほんの僅かに見開かれた。
風が、二人の髪を同じ方向へ揺らす。
世界のどこかで、
記録層がまた小さく軋む音がした。
——その瞬間、
空の裂け目の向こう側で、
“誰かの影”が、ふたつ重なって動いた。
それは、まだはっきりと見えない。
けれど確かに——
この世界の“次の選択” が、
静かに近づいてきていた。
(つづく)




