第23話 《狭間に揺らぐ記録(リゾナンス・ゲート)》
風が消えた――
いや、音そのものが、世界から抜け落ちた。
空は裂けたまま、青と白が層を成している。
上下もない。光もない。
ただ、漂う“記録”が、糸のように空間を織っていた。
その中心で、アイシャは息を止めた。
指先が震える。
Dヘルツァ粒子が肌の表面で静電気のように弾け、
風のような、音のような何かが囁く。
——『ここは、記録の狭間。過去と未来が交わる観測層。』
声はどこからともなく響いた。
いや、声ではない。
言葉が脳に直接“書き込まれて”いる。
アイシャはEchoBANDを押さえた。
青白い光がまだ微かに点滅している。
その光が腕を伝って、胸の鼓動と同じリズムで揺れた。
(……ミナト、なの?)
彼女の呼びかけに応じるように、
空気が波紋を描いた。
空間がひとつ、深呼吸するみたいに膨らむ。
その瞬間、眼前に“誰か”の姿が現れた。
歪んだ光の層の中、輪郭が揺れる。
人影。
カイルではない。
ミナトでもない。
——『記録の守護者』
風が低く唸る。
Dヘルツァ粒子が渦を巻き、空間の縁を食む。
アイシャの髪が逆流する風に舞い上がる。
守護者の目は、まるで無数の“データの海”だった。
その奥で、過去の映像が走馬灯のように流れる。
戦争。火。氷。風。祈り。
あらゆる文明が滅び、また生まれていく。
「……あなたが、“記録を守る者”?」
『違う。私は“記録に還る者”。お前たちが触れたのは、閉じられた層だ。』
「閉じられた……層?」
アイシャは理解できずに首を傾げた。
その間にも、風の粒が肌を切り裂く。
Dヘルツァ粒子が痛みに変わり、
血と光が混ざって流れ落ちる。
その赤が、空に吸い込まれていく。
赤い筋は糸となり、空間に文字を刻む。
『観測は行われた。よって、記録が変わる。』
その言葉に、アイシャの背筋が凍った。
記録が変わる?
つまり、それは——「世界が書き換わる」ことを意味していた。
——風が記録を読む。世界が自分を観測する。
それが今、現実として起きている。
足元が崩れた。
無数のデータ断片が滝のように流れ落ち、
そこに“記憶の光”が混ざっていた。
(これが……世界の、記録……?)
光の流れの中に、彼女は見た。
ミナトが笑っている。
カイルが立ち上がる。
崩れた塔、舞い上がる砂、夜空を裂く光。
そして、その中心に浮かぶ——“双極の空”。
アイシャの身体が限界を迎えた。
足が動かない。
EchoBANDが高く鳴り、腕に刻まれた刻印が光る。
その光の中から、カイルの声が響いた。
「……アイシャ! どこだ!」
彼の姿が風の向こうに見えた。
しかし、その間に“裂け目”がある。
風ではなく、時間の断層。
カイルの右手がDヘルツァ粒子に共鳴している。
青い光が骨の内側から浮かび上がり、
風が彼の指先を通って空を切り裂く。
アイシャはその光景を見ながら、
涙をこぼした。
(あぁ……この風は、あなたが呼んだのね。)
風が一瞬だけ、音を取り戻した。
その音は歌のようで、
悲鳴のようで、
祈りのようだった。
——そして、二人の間の狭間に“何か”が生まれた。
光が反転し、音がねじれ、
空間が一瞬、白く塗りつぶされた。
そこに立っていたのは、ひとりの少女。
淡い銀色の髪、透明な瞳、風と光が混ざった存在。
『……記録の再転移、確認。』
少女の声は、風そのものだった。
アイシャも、カイルも、言葉を失った。
彼女は微笑んだ。
「やっと……呼び声が届いたのね。」
風が震え、Dヘルツァ粒子が花弁のように舞った。
そして、世界が再び——息を吹き返した。




