第22話《風が読む夜(リーダブル・ウィンド)》
夜は穏やかに沈み、世界はしばらく静けさを取り戻していた。
街の灯りは少なく、風は再び透明に戻りつつある。
だがその静寂は、まるで深呼吸の「前」のように感じられた。
——何かが、息を吸い込むような気配。
アイシャは塔の上で、空を仰いでいた。
昨日見た光の文字は消えていない。
むしろ、より明瞭に、より多く。
まるで空が「読む」ように、風の流れが文章を追っている。
その光は、雲と星の間で滑らかに動き、時に螺旋を描き、時に断片化していく。
その動きは、人が言葉を“読んでいる”速度とまるで同じだった。
「……空が、読んでる」
カイルが呟いた。右手を見つめる。
手の甲に浮かぶ細い線が、静かに光っている。
それはまるでアイシャの腕に刻まれた風律文と同じ構造——だが、向きが逆だった。
「これ……あの時、塔で……」
「Dヘルツァの逆流。あなたの体に、風が“読み取った”の」
「読む?」
「そう。観測の順番が反転した。私たちが風を読んでいたのに、今は風が私たちを読んでる」
カイルは苦笑した。「つまり、俺が本になったってことか」
「……たぶんね。でも、あなたの記録は綺麗。風が喜んでる」
「そうかよ。……なら、書き殴られないように気をつけないとな」
軽口を返す余裕はあった。
だが彼の右腕は、確実にDヘルツァの共鳴を始めていた。
皮膚の下を光が流れ、筋肉が時折わずかに震える。
体の奥で、何か別の“意識”が目を覚ましつつあるようだった。
アイシャは風を感じていた。
心臓の鼓動と、BANDの拍が一致している。
呼吸をひとつ整えると、輪が光を広げ、周囲の空間に淡い青の文様が浮かび上がった。
風が再び動く。
その瞬間、空の光の文字が、一斉に“反応”した。
風が彼女を読んでいる。
空が、彼女の心を覗いている。
それは侵略でも共鳴でもなく、もっと静かで、もっと原始的な“観測”。
この瞬間、アイシャは自分が「風の記録」に書かれていることを理解した。
だが同時に、風は問いかけてきた。
——あなたは、誰を記す?
息を飲む。
胸の奥に、過去の声が響く。
ミナトの声。
カイルの笑い。
市場で笑っていた子どもたちの声。
すべてが、風の中に混ざっている。
アイシャは静かに言葉を放った。
「私は……“記す”。失われた風を、人の形に戻すために。」
EchoBANDの光が白へと転じる。
次の瞬間、塔の上空が割れた。
空が裂けたのではない。
世界の“観測面”が反転したのだ。
風が、アイシャを媒介に「読む側」と「書く側」を入れ替えた。
Dヘルツァ粒子が花弁のように舞い、空中で巨大な図形を描く。
それは円環でも、螺旋でもない。
数式と詩を掛け合わせたような幾何模様。
その中心に立つアイシャは、まるで“風の筆”そのものだった。
「スカイライター・プロトコル、起動」
ミナトの声が輪の中で鳴る。
『風律の中枢アクセス承認。記録者——アイシャ。風格位:第一層。
共鳴率上昇、警告。風が……読むぞ。』
——その瞬間。
地平線の向こう、別の場所で空が裂けた。
風ではない。
空間そのものが、縦に切り裂かれたのだ。
炎でも稲妻でもない、光と影の境界。
そこから、何かがゆっくりと現れた。
翼だった。
無数の層でできた、巨大な“風の翼”。
透明に近いが、光が走るたびに、表面に文字列が浮かぶ。
翼の一枚一枚が、Dヘルツァ粒子の構造を模していた。
羽ばたくたびに記録が散り、音ではなく“記憶”が響く。
その中心に在るもの——それを“生物”と呼ぶにはあまりにも異形だった。
顔はない。
形は変化し続け、時に人の影、時に獣の骨格、時に機械の残骸を模す。
その全てが「記録された残響」で構成されている。
観測者たちは後にそれをこう呼ぶ。
> ヴァルグレア(Valgrea)
——“記録と風の狭間から墜ちた者”
起源不明。時空座標を持たず、存在時間が観測によって決まる。
風を食らい、記録を再構築する。
翼の一枚ごとに異なる時代の残響を宿し、
“観測されるほど存在が安定する”という、逆転した生命構造を持つ。
ヴァルグレアはゆっくりと空を滑り、街の上空を通過する。
その影が塔を覆った瞬間、アイシャの輪が共鳴した。
「……これ、感じる?」
「感じるどころか、右腕が勝手に動く……!」
カイルの声が震える。右手が光り、文字列が皮膚から浮き上がる。
Dヘルツァと彼の神経が、共鳴している。
『……観測者の共鳴。同期率四十七。危険域へ接近中。』
「止めるな、ミナト。風が繋がってる。
あの生き物……記録そのものを喰ってるんだ!」
「喰って……再構築してる。
つまり、ヴァルグレアは……“記録の回収者”」
アイシャは空を見上げ、両手を広げた。
風が逆流する。
塔の上に白い光の柱が立ち、EchoBANDが共鳴音を放つ。
Dヘルツァ粒子が線を描き、ヴァルグレアの翼と同じ文様を形成する。
「——読むのをやめて。今度は、聴いて」
彼女の声が風に溶け、空全体が一瞬止まる。
風が読み取るのをやめ、代わりに“聴く側”へと回る。
世界の空気が柔らかく震え、音のような、祈りのような波が街を包む。
ヴァルグレアがその音に反応し、翼を折った。
光の粒が散る。
空に、文が書かれる。
それは“記録の詩”——アイシャが綴った、風への返歌だった。
> 「風よ、読むな。聴け。
声を喰らうな、記録を抱け。
私たちは記されるだけの存在ではない。
私たちは、あなたに物語を渡すために生きている。」
その詩が空に刻まれた瞬間、ヴァルグレアの翼が透明になり、
風に解けていった。
残されたのは、ひとつの言葉。
——「また、会おう。」
誰の声かはわからない。
けれど確かに、風の奥で、未来か過去かも定かでないどこかから響いていた。
アイシャは腕を下ろし、深く息をつく。
「……読まれたんじゃない。聴かれたのね」
カイルは苦笑して頷いた。「つまり、風が……俺たちの“物語”を気に入ったってことだな」
空の光は静かに薄れ、Dヘルツァ粒子は風の中へ溶けていった。
空のどこかで、もう一度誰かがページをめくる音がした。
変異体《ヴァルグレア(Valgrea)》
起源:異時空由来の“記録の凝集体”。
外見:Dヘルツァ粒子が自己構築した多層翼体。
特性:観測されることで存在が安定する。観測されないと崩壊し、再転移する。
知性:部分的に言語理解を持ち、感情は共鳴波で伝達される。
能力:他者の記録(記憶・意志・感情)を吸収し、世界に再分配する。
象徴:「風が観測者になる」時代の訪れの先触れ。




