第21話《空を記す手(スカイライター)》
夜が明けたはずなのに、空には朝の色が来なかった。
薄い銀灰の光が雲を撫で、塔の影を曖昧に溶かしていく。
風はほとんどない。それでも街はざわめいていた。
Dヘルツァの粒子が沈黙し、ただ静かに漂っている。
人々はその静けさに安堵を覚えながらも、どこかに残る違和感を感じていた。
——風が“呼吸していない”。
アイシャは塔の根元に腰を下ろし、片手でEchoBANDを撫でた。
昨日よりも光が弱く、拍が一定しない。まるで眠っているようだった。
「……静かすぎる」
小さくつぶやくと、輪の奥から微かに声が返る。
『——起動率、二十五。風律接続……保留中』
音声はノイズ混じりだったが、それがまだ“ミナトの声”の形をしていることに、アイシャは胸を撫で下ろした。
「ミナト……あなたの声、ちゃんと残ってる」
『記録炉、再構築済み。だが……風層の位相が反転してる。地表じゃなく……空に記録が浮いてる』
「空?」
『見上げてごらん。もう、始まってる』
アイシャが首を上げた瞬間、空が微かに光った。
雲の裂け目に、文字のような、図形のような光の線が走っている。
淡く、ゆっくりと流れながら組み変わり、やがて円環を形づくった。
最初は人の手の跡のようにも見えたが、すぐにそれが違うと分かった。
まるで誰かが、空に“筆記している”のだ。
記録が、空をキャンバスにして描かれていく。
「……空が書いてる」
「違う、風が。——いや、“記憶が風に書かせてる”の」
カイルの声が背後からした。
彼は肩に軽い傷を負っていたが、いつも通り無造作に包帯を巻き、塔の壁にもたれていた。
「塔の観測板でも見える。あの光、全部風律文の断片だ。けど……言語としては読めない。お前、わかるか?」
アイシャはBANDを軽く叩く。青い光が脈を打ち、視界に薄い文字列が重なった。
「……これは古式の“アマノ書式”。ミナトの時代の、記録言語」
「読めるのか?」
「少しだけ。……“記す手、風に従う。声は輪を超え、記録は空を越える”」
カイルは小さく息を漏らした。「詩か、呪文か、どっちだ?」
「どっちでもあり、どっちでもない。……この空自体が、“誰かの手”になってる」
アイシャが視線を空の中央に戻すと、淡い光の中から、輪郭をもたない“影”が見えた。
それは風の形をしているのに、風よりも重く、輪郭の揺れ方が異質だった。
その中心から、ミナトの声が途切れ途切れに響く。
『……風律の反響……観測域、北東三層……“再記録者”……が……』
「ミナト? 聞こえる? ミナト!」
『——“風を記す手”が、もう一人、現れた』
言葉の直後、空の光が一瞬だけ弾けた。
渦が生まれ、風が再び息を吹き返す。
だがその風は、これまでのものと違っていた。
心地よいはずの風圧に、微細な痛みが混ざっている。
頬をかすめるだけで、わずかな切り傷が走り、青白い光が滲む。
「……Dヘルツァがまた動き出してる」
カイルが剣の柄に手をかけ、周囲を見回す。
空から粒子が降る。
だが今度のそれは、情報の欠片ではなかった。
粒子の中に、形を持ったものが混じっている。
金属質の虫のようなもの。羽音はなく、けれど確かに空気を裂いて降ってくる。
「また……記録が生きようとしてる」
アイシャは一歩前に出て、腕のBANDを掲げた。
「Dヘルツァ反応、変異種確認。風層、第六まで上昇。共鳴開始」
声が風に溶け、空が共鳴する。
風は彼女の髪を引き、輪が共鳴を始める。
粒子がBANDに触れた瞬間、世界が反転した。
街の全てが、かつての姿に変わる。
人々の声、灯り、祭りの音。
まるで時間が巻き戻されたかのように。
だが同時に、それは“現実に干渉する幻”だった。
「これが……“風の再記録”」
ミナトの声が静かに届く。
『記録は想いを媒体にして実体化する。
想いが強ければ、記録は人を喰う。
君はその境界にいる。風を選ぶ側だ。』
「……選ぶ?」
『風に書くのか、風に読ませるのか。
記録を綴る手になるか、それとも、記録に書かれる存在になるか。』
アイシャは少しだけ笑った。
「ミナト、あなたらしい言い方ね。……でも、私はもう選んでる」
空を見上げる。光はゆっくりと流れ、風に混ざりながら新しい文字を描いていく。
彼女は静かに呟いた。
「私は“記す”。あなたが残した風の続きを——この空に。」
カイルは言葉を失い、ただ空を見上げた。
風は彼らの周囲を包み、記録の粒子が頬をかすめながら、新しい文を刻んでいった。
その文の最後に、微かに残る言葉。
——『スカイライター・モード、起動』
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