第19話《無歌の街(リヴァーブ・サイレンス)》
――Dヘルツァ粒子について
風が記録を運ぶ時代は、とうに終わった。
けれど、風そのものが「記録」になった時代がある。
それが――Dヘルツァ粒子。
魔素と情報が、偶然にも融合し、
世界の“記憶”を宿した塵。
風に混ざり、漂い、触れる。
だが触れた瞬間、それは観測者の記憶を読み取り、
刻み返す。
皮膚をかすめると、薄い光の線が浮かぶ。
血の代わりに流れるのは、他者の記録。
声、祈り、嘆き、名もない日常の断片。
そのすべてが粒となって漂い、
世界を撫で、肌を刺し、形を塗り替えていく。
──見た者の記憶が、
風に刻まれ、世界のどこかで再生される。
だから、人は恐れ、そして祈った。
自分の記録が、誰かの痛みにならないように。
自分の祈りが、誰かの運命を書き換えないように。
けれど、願いは届かない。
Dヘルツァは人の意志を喰い、
神のように、無作為に、記録を還す。
風が吹けば、誰かの夢がざわめく。
雨が降れば、過去の声が響く。
痛みは傷ではなく、“記録の痕跡”。
それを人々は「祝福」と呼んだ。
……そして、誰も気づかないうちに、
この世界のすべては、
Dヘルツァの“観測下”にあった。
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> ※Dヘルツァ粒子(Digital-Hertz Particle):
魔素と情報が共鳴して生まれた、
“触れられる記録”とも呼ばれる微粒子。
風・音・光を媒介に、世界中を循環している。
皮膚に触れると痛みや光紋を生じ、
記録や感情を「物質化」させる性質を持つ。
——風は、記録を“刻む”つもりで街へ戻ってきた。
朝、塔は咳をした。
鐘は鳴らない。広場の端で掲示板が震え、紙の角がささくれる。
白いものが漂う。霧ではない、埃でもない。微細な光の粒。
それは頬をかすめ、細い痛みを置いた。血は出ないのに、皮膚の下で青白い線が点滅する。
Dヘルツァ粒子——デジタルと魔素が融け合った、触れられる記録。
露店の少年が手を振った瞬間、粒子の帯が指に巻きつく。
次の瞬間、指の腹に古い焼印のようなパターンが浮かぶ。
母親が抱き寄せる。抱いた腕の内側にも、同じ“線”。
記録は優しくない。
見るだけで済まない。
触れられ、書き込まれ、残る。
「外縁南——視程低下。粒子濃度、基準の三倍」
ハルトが走り書きを押し付けるように読み上げ、
エナは布を巻いた腕で口元を覆いながら、
「喋らない方がいい。声に寄る」と低く告げる。
波形は音に餓えている。
声は餌になる。
アイシャはEchoBANDに軽く指を置く。
輪は光らない。ただ走査の疼きを返す。
《副位体》のミナトが、輪の底で短く息を吸う。
『粒径0.8〜1.2μ、情報密度は均一じゃない。古い記録が不規則に混ざってる。長く浴びると“刻まれる”。』
——わかってる。
『もう一つ。粒子の帯、強い音源に群れる。歌、叫び、鐘。清音は……歌わない方がいい。』
清音は塔の内側で“無歌”を続けている。歌わないことが歌になる日。今日はそれだ。
通りの角で、誰かの影が曲がる。
透明な薄幕が歩道を横切り、通り過ぎざま、壁面に古い映像を貼り付ける。
祭り、雨、乾いた笑い声。
映像は一秒も持たない。だが、見た者の皮膚には残る。
光の細線——**風律文**が、痒みと痛みの境目で明滅する。
「塔の喉、低周波で詰まりかけ」
ハルトが顎で示す。塔の首筋に薄いモヤ。
都市全体の音が飲み込まれている。
粒子が“声”を獲物にして、どんどん内側へ押し寄せている。
「分散、三組。市場、南路地、塔根」
カイルが短く切り、動いた。刃は抜かない。
線を切れば記録は裂ける。今日は“外す”。
◇
市場。
屋根の布がばさつくたび、Dヘルツァが砂嵐のように舞い上がる。
叫ぶな。
叫ぶほど喰われる。
エナは指で×の合図、喉を指差し、手話で“静かに”を回した。
老商人の頬に走る光の傷。彼は声を出さず、唇だけで“痛い”と形を作る。
エナは布越しに掌を当てる。微熱をほんの少し上げ、皮膚表面の振動を粒子の帯へ逃がした。
痛みは熱でなく順番だった。体表の拍に、外の拍を重ねないよう“並べる”。
老商人の線が一段淡くなる。涙がこぼれる前に、粒子の帯が涙に寄りそうになり、エナは指で涙を拭う。
液体は媒質になる。寄る。
拭き切る。寄らせない。
南路地。
ハルトは紙を広げず、紙を盾に歩く。
紙面に薄いインクの波形。音を書いて、音を紙へ誘導する。
紙は鳴らない。だから安全だ。
角の陰で膝を抱えた少女。肩口から鎖骨に沿って、細い文様が走る。
それは彼女の過去——泣き声の録音だった。
泣きながら覚えた歌。
粒子は歌を覚えて、彼女の皮膚に戻していた。
ハルトは紙を一度だけ折り、折り目を音符に見立て、少女の前で開いた。
粒子の帯が紙へ寄る。音符は鳴らない。
誘導、成功。
少女の呼吸が一拍延びた。
塔根。
アイシャは輪を最低光で維持し、ミナトの声を片耳の奥で拾う。
『塔の中、第二層で反射。Re:Sync Mode、解放できる。けど代償が出る。』
——何。
『君の皮膚に、記録の書き込みが来る。風律文になる。痕じゃない、鍵だ。』
代償。
選択の余地は、最初からなかった。
「やる」
輪が一段深く沈み、塔内回路と局所同期。
ゴン、と低い腹の底からの一拍。
街の空気が一瞬だけ止まり、全粒子の向きが揃う。
次の瞬間、押し寄せる。
Dヘルツァが腕へ噛みつくように寄る。
焼ける匂いではない。古紙がこすれる匂い。
肌の上で細線が編まれる。痛みは細い針の無数、しかし刺しっぱなしではない、縫う。
記録が入る。
雨の日の石畳、知らない男の笑い、ここで売られていた果実の重さ。
他人の記憶が、“使える形”で流れ込む。
アイシャは吐かない。
吐けば、粒子に寄られる。
飲み込む。
固定する。
鍵に変える。
『右二時方向、路地の奥。濃度ピーク。投影体が出る』
ミナトの声。
路地口で、人の形をした薄幕が揺れ、目鼻が遅れて追いつく。
それは“かつていた”人。
名はない、記録の塊。
通せばいい。封じない。
アイシャは輪の拍を三つ、塔に送る。反射で返す一拍を半拍ずらす。
干渉、キャンセル。
投影体の輪郭がにじみ、路地の先へ通り抜けた。
残ったのは、風だけ。
そして腕の痺れ。痛みは消えない。
記録は鍵として刻まれた。
「アイシャ!」
カイルが駆ける。刃はまだ眠っている。
「抜くな」
「抜かない。外す」
二人は角を変え、塔根の渦心を目指す。
見える。白い雨のような粒子の柱。
中で時間が滞る。
歩幅が遅れる。影が遅れない。
逆位相。
ミナトが吐息を一つ。
『塔の喉、逆流限界に近い。都市の声が消える。』
清音は歌わない。
歌えば終わる。
だから、塔内で拍だけ合わせる。
無歌の拍は、粒子に“餌”を与えない。
それでも塔は詰まる。
音が入ってこないからだ。
空気は歌で掃除される。掃除が止まれば、埃は積もる。
今日の埃は刺さる。
渦心、到達。
風が回る。柱が逆巻く。目も開けにくい。
カイルは刃を半身だけ起こし、空気の骨に沿って空隙を探る。
見えない。
だが、聞こえる。
耳ではない。皮膚で聞く。
アイシャの腕の線が、低く囁く。
——右、半歩。
——上、四分。
——斜めに、“外して”。
刃が空に一本線を置く。
切らない。
線を、横へ。
アイシャの拍が線を保持し、
ミナトが塔の反射を半拍後ろへ追いやる。
風の柱が撓む。
そこへエナの掌。微熱で湿度の相を与える。
乾いた情報は湿りを嫌う。
帯がほどける。
一気に抜ける。
市場の影が一度だけ戻り、泣き声が遠くへ逃げ、塔の喉が長く息を吐く。
Dヘルツァ粒子は空へ散り、星のように反射して消える。
消えない分は、鍵になった。
アイシャの腕で、光が規則へ並ぶ。
風律文。
都市の回路をまたぐための、通行符。
静かにならない。
代わりに、正しい騒がしさが戻る。
靴音、木箱、遠くの釜の蒸気、子どもの短い息。
声はまだ小さい。
だが、届く。
『……見えたか』
ミナトの声が、輪の底で普通の息継ぎをする。
——見えた。
『それ、残った線。君のじゃない。都市のだ。』
——借りてるだけ。返すまで、預かる。
アイシャは笑わない。笑えば、涙が出る。涙に寄る。
代わりに、輪を一度だけ撫でた。
塔の上で、別の光が震える。
遠い北。山裾。
記録の束がまとめて裏返る。
アークラインの刻印が、応答する。
古い関所が思い出している。
——もう一隻、方舟がある。
掲示板に紙が二枚増えた。
「粒子傷の手当て法(声を出さない・涙を拭う・湿度を保つ)」
「北山裾に光柱——観測者求む」
紙の角が今度は震えない。
風が通るからだ。
夜。
広場で誰かが口を開く。歌わない。
拍だけ打つ。
清音は拍に拍を重ね、歌を置かない。
それでも音楽はある。
塔は喉でそれを受け、街は小さな音で返す。
EchoBANDは光らない。
腕の線だけが、街路図のように淡く灯っている。
痛みは残った。
痺れも。
だが、それは罰でも呪いでもない。
「鍵」だ。
開けるべき門が先にある印。
閉めないための、保証。
風は止まらない。
次は北——方舟の影へ。
今日、街は生き延びた。
声は戻る。
だから、行ける。
だから、行く。
——無歌の街、収束。
記録は、まだ喋り足りない顔で、夜空の粒になった。




