第1話 風のない世界
――冷たい、鉄の匂い。
目を開けた瞬間、息が詰まった。
視界は歪み、音は遠く、
世界そのものが、壊れかけた映像のように揺れていた。
灰色の空。
崩れた高層構造物。
そして、何よりも――風が、ない。
「……ここは、どこだ……?」
喉が焼けるように痛む。
声を出す感覚すら、久しぶりだった気がする。
いや、“久しぶり”という言葉すら、本当かどうかわからない。
記憶が、ない。
名前だけは、辛うじて覚えていた。
ミナト・カナギ。
けれど、その先が何もない。
どうしてここにいるのか。
なぜ生きているのか。
なにも、思い出せなかった。
腕が、重い。
見下ろすと、手首には半透明の多層リング――
《EchoBAND》 が嵌まっていた。
淡く光る紋様が皮膚に浮かび、
まるで血管を通じて身体と一体化しているようだった。
脳裏に、断片が走る。
> “――警告:時空連結不安定。記録領域破損。記憶同期失敗――”
電子音のような声。
そして、光。
視界が白く塗りつぶされ、
気がついたときには、この世界だった。
「……次元……転送?」
思わず、口の中で呟いた。
言葉が自然に出たことに、自分で驚く。
でも、身体が覚えている。
“何か”を、扱っていた感覚。
高度な装置。光るコード。
研究塔の白い廊下――
すべてが、遠い昔の夢のようだった。
EchoBANDが、微かに反応した。
リングの内側が光り、
空中に立体文字が浮かび上がる。
> 【リストア対象:風脈データ 断片検出】
【警告:同調率 9% 使用者の神経損耗が予測されます】
「……なんだ、それ。」
恐怖よりも、好奇心が勝った。
でも同時に、
この装置が“普通じゃない”ことも、直感していた。
再び周囲を見渡す。
廃墟。錆びた機械。
黒い液体に侵食された壁面。
そして、奥の通路から――“音”がした。
低く、濁った、呻き声。
「……誰か、いるのか?」
返事はなかった。
代わりに、
何かが這う音が近づいてくる。
影が揺れた。
見えた瞬間、ミナトは息を飲んだ。
人の形をしている。
けれど、それはもう“人”ではなかった。
全身が黒い魔素に蝕まれ、
皮膚からは金属のような結晶が突き出している。
瞳は空洞。
喉から漏れるのは、風のない咆哮。
> 《黒蝕種》――魔素の汚染による変異体。
※
※魔素とはこの世界に満ちる情報的エネルギー体であり、
※通常は生命と共存関係にあるが、過剰吸収により肉体情報が“崩壊”する。
※崩壊の末に再構成された存在が黒蝕種である。
「……マジかよ。」
震える足を無理やり動かし、
腰のホルダーにあるものを探る。
そこにあったのは――一本の刀。
黒い鞘、金属質の質感。
見た瞬間、名前が口をついて出た。
「……《神風》。」
鞘から抜くと、刃が微かに震えた。
空気を切る音が、異様に静かに響く。
刀身の内部で、青白い粒子が走った。
> 【警告:魔素との接触を検知――融合反応、開始】
刃に、青い風紋が走る。
空気がないのに、風が生まれる。
「……は?」
困惑する間もなく、黒蝕種が飛びかかってきた。
反射的に刀を振る。
光が走る。
刃が、金属結晶を滑るように断ち切った。
遅れて、黒蝕種の身体が崩れ落ちる。
静寂。
ミナトは肩で息をしながら、手にした刃を見た。
「……この刀、魔素を……喰ってる?」
刃の紋様が淡く脈打ち、
EchoBANDと共鳴するように光を放っていた。
「……俺は、何をしたんだ……?」
答える者はいない。
ただ、風のない廃墟の中で、
EchoBANDの光だけが、淡く――彼の存在を証明していた。
第1話 完




