2匹目『狼は牙を剥く(中編)』
空気を裂く音と共に、真神の体が駅前大通りの喧騒を切り裂いた。
半獣としての身のこなし――月夜を駆ける狼の跳躍のような、鋭さとしなやかさを兼ね備えた動きで、真神は異形と化した人間へと迫っていく。
だが、その軌道には、まだ現実を理解しきれていない群衆の姿があった。
真神は瞬時に進路を見極め、すれ違う人々の僅かな隙間を縫うように駆け抜ける。
まるでその身が風となったかのように、肩も腕も一切触れさせず、アスファルトの上を滑るように疾走する。
その最中、真神が自身の手に力を込めた。
爪の先が黒く変色し、ぐくっ、と軋むような音を立てながら変形していく。
ものの数秒で、鋭く湾曲した鉤爪へと姿を変えた。
指先は太く、硬質に変わり、陽光を受けて鈍い光を反射する。
――それは、ただの狼の爪ではない。
確実に獲物を仕留めるために形を変えた武器だった。
次の瞬間、咆哮が街を裂き、地を震わせる。
その振動と音が、ようやく人々の恐怖のスイッチを押した。
誰かの悲鳴を皮切りに、叫び声が交錯し、逃げ惑う足音がアスファルトを激しく打ち鳴らす。
柴尾の足元で待機していた幻影の小さな犬達が、静かに動き出した。
彼の尻尾の指揮に応じて、もふもふとした犬達が地面を蹴り、人々の間を滑るように駆けていく。
大きな瞳に潰れた鼻。
少しデフォルメされたその姿は、普段なら誰もが微笑みたくなるような可愛らしさを備えていた。
だが今、その姿に笑う者はいない。
一体の幻影が滑り込み、逃げ惑う人の前に立ち塞がった次の瞬間――
飛来したコンクリ片がその体を貫いた。
だが、幻影の犬はふわりと霧散し、破片はそのまま力を失って地面に落ちる。
別の方向では、他の犬達が前足で瓦礫を弾き飛ばしたり、尻尾を振り回して破片を粉砕していた。
犬の群れは次々とその身を盾にしながら、群衆の前に陣形を築いていく。
真神の視界に、不意に一人の女性が映り込んだ。
逃げ遅れ、異形の直線上に立ちすくんでいる。
彼女が声を上げる暇も与えず、真神の体が先に動いた。
次の瞬間には女性を抱き上げ、跳躍と共に大きな腕が振り下ろされる。
ギリギリで交わし、空中を斜めに滑るように降下する。
降りる最中、視線を別の方向へと向ければ、逃げる途中で立ち止まり、動けずにいる親子の姿があった。
真神はすかさず片腕を振り抜く。
空を切ったその爪の軌跡が地面を走り、コンクリートを裂き、盛り上げ、せり上がる。
異形と親子の間に、厚く高い遮蔽の壁が出現した。
真神はそのまま壁の裏手に着地し、抱えていた女性をそっと下ろす。
その隣では、先に守った親子が、怯えたまま身を寄せ合っていた。
次の瞬間、壁の表で空気が唸る。
異形の腕が振り下ろされ――
ドゴォッ!
轟音と共に、遮蔽の縁が粉砕され、破片が跳ね飛ぶ。
細かい砂塵が壁を越え、裏側にまで降り注いだ。
だが、厚みを持ったコンクリートの壁は砕けきらず、親子と女性に傷一つ与えることなく、その一撃を受け止めきっていた。
真神の目が細められる。
壁の向こうで、理性を失った異形が、なおも吠え続けていた。
異形の姿に、人の面影はほとんど残っていない。
それでも真神にはそれが、かつて"誰か"だった存在だということが分かった。
膨れ上がった腕が地面に叩きつけられる度、アスファルトに亀裂が走り、獣じみた咆哮が空気を引き裂く。
怒りのままに突進し、目に映るすべてを標的にしようとしていた。
真神はすかさず姿勢を落とし、反射のように地を蹴る。
身体が宙を滑り、異形との距離を一気に詰めていく。
すれ違いざま、黒く鋭い爪が閃いた。
爪に異形の右腕を裂いた感触が伝わる――が。
異様に膨れ上がった筋肉は、その一撃を皮一枚で止めていた。
裂けた肉の下からは、更に硬く盛り上がった繊維が覗く。
異形が、怒号のような吐息を爆ぜさせながら、腕を振り回す。
空気が脈打ち、破壊の予兆が満ちていく。
真神は即座に跳び退き、その反動のまま地を蹴って反撃に転じた。
その一歩で生まれた衝撃が、彼の背後にあった街路樹を揺らし、ショーウィンドウのガラスを一息に砕く。
柴尾は、その爆風を迎え撃つように片腕を顔の前に掲げ、風圧を受け流した。
「……ったく、張り切り過ぎやろ」
舌打ち混じりに漏れた声は、風に掻き消される程の小ささだった。
「サイ……正式な実戦許可も下りてへんのに、そないに暴れて大丈夫なんか」
柴尾は駅前大通りの歩道沿い、群衆の流れが交差する外れに立っていた。
四方八方に散らばった幻影の犬達が、瓦礫を跳ね除けながら人々を守り続けている。
大通りを挟んだ向かい側では、真神と異形が激しく衝突していた。
ぶつかり合う音と咆哮が交錯する戦場からは、爆発のような風圧すらこちらに届く程だ。
柴尾のぼやきが真神に届いたかは分からない。
だが、本人は気にする様子もなく、なおも異形へと攻撃を繰り出している。
「まぁ、俺もか」
ぽつりとそう呟きながら、柴尾は背後にたゆたっていた七本の尻尾のうち一本を、前方へと振り抜いた。
空気が僅かに揺れ、尻尾の軌跡から、もふもふとした大きな犬の幻影が姿を現す。
その犬は、馬程の大きさがあり、堂々たる体躯を誇っていた。
首元の毛並みには、漢数字の"一"を描いたような模様がうっすらと浮かび上がっている。
他の幻影とは一線を画す、明らかに主力としての風格を備えていた。
――同時刻
異形が怒りに任せて、両腕で地面を思いきり抉り取った。
巨大なアスファルトの塊が浮き上がり、唸りを上げて真神の方へと放り投げられる。
真神は即座に反応し、片腕を振る。
爪が空を裂き、衝突する前に塊を分解した。
破片は粉砕され、細かな砕石となって空中に散る――が。
そのうちのいくつかが、真横へと逸れた。
真神の背後――逃げ惑っていた数人の頭上へ、雨のように降り注ぐ。
「しまったっ」
気づいた瞬間には、もう間に合わなかった。
その時――
大きな犬の幻影が駆けた。
地面を揺らす勢いで走り、群衆の前へと滑り込む。
どっ、と四肢を大きく開き、人々を背にして立ちはだかるように、全身を盾のように広げた。
バラバラと降り注ぐ破片が毛並みに当たる度、爆ぜるような音を立てて弾かれていく。
鋭利なコンクリ片すらも、体表で受け止められ、傷一つ残さない。
柴尾はスラックスのポケットに両手を突っ込んだまま動かず、ただ静かに、尻尾を一振りする。
その背後で、たゆたっていた七本の尾のうち一本が、淡く光を失い、霧のように消えていった。
一度は封じた狼の目――だが、今の敵に、もう一度試してみることを考えた。
真神は目を閉じる。
光の奔流、空気の軌道、敵意の流れ。
一瞬、全てが視えた――はずだった。
それでも、胸の奥に残る違和感は消えなかった。
さっきの一手が頭を過る。
地面を抉り、的確に投げつけてきた、あの投擲。
あれはただの蛮力ではないように思う。
瞬間的な判断。
狙い澄ました角度。
獣であるならば、本来はもっと無秩序に暴れる。
飢えた本能のままに、目の前の命を無差別に襲っては喰らうだけの存在のはずだ。
「こいつ、理性がまだ残っとんのか」
狼の目でも測れない、その違和感。
だが、こうして迷っている間にも、この異形は襲い続けるであろう。
感情も、理屈も、命も踏みにじる、ただの暴力として。
このままでは、誰かが死ぬ。
この異形が人間かどうかなんて、今は関係ない。
迷っている暇はない。
地面を踏み締め、全身に力を込める。
次の瞬間、跳ねるように踏み出した。
静止から一転、加速。
十数メートル先、異形との間合いを一気に詰める。
正面から突っ込めば潰される。
だが今回は、違う。
左斜め前から入り込み、腰を捻って異形の肘打ちを回避。
すれ違いざま、右足を脇腹に叩き込む。
鈍い音。
手応えはある――が、沈まない。
跳躍。
背後へと回り込み、首筋へ踵を振り下ろす。
だが異形は唸るように身を捻り、真神の攻撃は肩を掠めるだけで弾かれた。
着地。
行き場を失った力が地面に分散され、足元に亀裂が走る。
(筋肉の密度……ただの肉やない。異様に硬い)
異形が振り向き、腕を薙ぎ払ってくる。
真神は咄嗟に身を沈め、刃のような一撃を紙一重で交わす。
すかさず地を蹴る。
低く弧を描いて異形の側面へと回り込みながら、右手の爪を構えた。
「関節を落とすか」
左足の付け根――大腿骨と骨盤の接合部に狙いを定め、跳びかかる。
真神の体が異形の懐へ、滑り込むように突っ込んだ。
左足の関節へと、斜めから鋭角に爪を深く叩き込んだ。
ガキィンッ!
肉が裂け、骨が軋む鈍い音が手のひらに伝わる。
直後、異形の動きが止まり、左足が崩れるように力を失った。
バランスが保てず、巨体が地面に片膝をつく。
赤黒く濁った血が飛沫のように空中へと舞い上がった。
一瞬の沈黙――
騒然としていた大通りに、奇妙な静けさが落ちる。
真神は体を捻って重心を低く落とし、そのまま着地。
返す刃のように、再び追撃へ移ろうとしていた時だった。
「ねぇ……あの人さ、見たことない?」
柴尾の近くに身を寄せていた女性がぽつりと呟いた。
混乱の中、ふと視線を上げた彼女の胸に、得体の知れないざわめきが走る。
「ほら、あの人……なんか、柴尾ナナオに似てない?」
「でも見た目、あんな感じだったっけ……」
女性の隣にいた男性が、不安げに眉を潜める。
犬のような耳と一本減って六本になった尻尾。
柴尾の頭部と臀部に、動物のそれらがはっきりと視認できるため、確信が持てないのだ。
「え、じゃあ、あそこで戦ってるのって、真神サイ?」
数歩離れた位置にいた女子高生が、スマホを取り出しながら言った。
カメラアプリで画面越しにズームされた顔と、目の前の姿が重なっていく。
「うっそ!マジ!?ちょっと待って、本物のMag7だよ!」
次々とスマホが掲げられる。
写真が録られ、動画が撮られ、名前が呼ばれ、確認するかのように繰り返される。
「Mag7だー!やっぱそうだ!」
「さっちゃんとナナくん!」
歩道のあちこちで、誰かが誰かに彼らの名を投げかけていた。
「最近、活動休止って発表してなかったっけ?」「ブラハウ入るって炎上してたよね〜」などといった声も混じりながら、興奮と驚愕は波紋のように広がっていく。
やがてそれは、ざわめきのうねりとなって街全体を包み込んだ。
だが、当の二人は振り返らない。
観客の歓声も、スポットライトも、そこにはない。
今、あの場所に立っているのは、パフォーマンスを披露する表現者でも、カメラの前で愛想笑いを見せる芸能人でもなかった。
観られる存在ではなく、人々の命を守り、異形と対峙する――立ち向かう者として、ただそこにいた。
――その時。
地面を這うような低い唸り声が、異形の口から漏れた。
咳き込むような、呻くような、言葉にならない音。
それは最早、本能の咆哮ではなく、何かを訴えかける声だった。
真神の目が僅かに細められる。
「どないしたらそんな姿になったんか知らんけど……未だに人間のフリ、しとるだけかもしれんね」
完全に狂気に塗れたはずのその瞳の奥。
ほんの一瞬だけ、人間の感情のようなものが宿った気がした。
だが次の瞬間、唸りは喉の奥に呑み込まれ、異形は牙を剥いた。
肩を震わせ、暴走の衝動に身を任せて地を叩く。
真神は即座に構え直し、重心を落とす。
「せやから、楽にしたるで」
真神のその声に一切の情はない。
肉を裂く感触にも、骨が砕ける音にも、真神は眉一つとて動かさなかった。
物静かで冷酷。
そこにあるのは、殺すためだけに父親によって最適化された動作だった。
一撃、脇腹を穿つ。
また一撃、今度は、喉元へと蹴り上げる。
更に膝を砕き、太腿も裂いた。
無慈悲な連撃が、正確に急所を捉える。
異形は呻き声を漏らしながら、それでも立ち上がろうとする。
ただ生きたいという、生存本能だけが、その肉体を動かしていた。
真神はそれすらも容赦しない。
「生きたいって言うんやったら、それなりの覚悟、見してみぃな」
次の瞬間、真神の爪が異形の頬を抉る。
左目の下を斜めに切り裂くと、赤黒い鮮血が飛び散った。
人間の顔が、異形の表面から剥がれ落ちるようだった。
立ち上がる度に削がれ、動く度に崩される。
呼吸もままならなくなってきたその体で、それでもなお、異形は前に出ようとする。
真神は何も思わない。
その目に、異形を人間の像として映していなかった。
地を蹴ると同時に、真神の体が視界から消える。
引き絞られた足が爆発的に反発し、真正面へと一気に踏み込む。
異形の目に映ったのは、殺気だけを纏った水色の双眸だった。
その意図はただ一つ、殺すことだけだ。
一閃――
爪が異形の右肩を斜めに裂いた。
刃のような一撃が、筋肉を裂き、腱を断ち切って、腕を根元からだらりと垂れさせる。
異形は呻き声すら上げず、ついに今度は両膝をついた。
そこへ、間髪入れずに真神が回り込む。
後頭部、脇腹、膝裏など、ありとあらゆる箇所を角度を変え、深く、鋭く、爪で裂いては突く。
すべてが殺傷を意図した一点突破。
殺すためだけの、容赦なき連打。
異形の肉体は、最早、限界を超えている。
膨れ上がった体は、裂けた皮膚から赤黒い血液を垂れ流し、左足は根元から力を失い、体重を支えきれない。
右腕は垂らしたまま動かず、胸元には大きく抉られた傷が口を開けている。
片目は潰れ、息は喉の奥から漏れる泡混じりの音だけ。
それでも、死んではいない。
いや、まだ死にきれていないのか。
呻きともつかない声が漏れる度、その姿はますます人の形から逸れていく。
まるで、壊れたまま再起動を繰り返す機械のように。
醜悪に、未練がましく、なおも動こうとしていた。
「無理や。もう諦めろ。次で終わらしたる」
真神は冷たく吐き捨てる。
重心を沈め、右足を僅かに引き、地を捉える。
腰元に構えた右手は、殺意を孕んだ鉤爪を突き出す寸前の角度で構えられ、左手はバランスを取るように開かれて、敵との距離を測るように前方へと差し出されていた。
それは、獣を仕留める直前の、無駄を一切排した半獣の構えだ。
真神の目が、まっすぐに異形を捉える。
そこに感情の色はなかった。
怒りでもなく、憐れみでもない。
ただ、冷たく無機質に、殺すためだけの集中が宿っていた。
地を蹴った瞬間、足元に風が巻き上がる。
鋼のように引き絞られた体が一直線に跳躍し、異形との間合いを一気に詰める。
その動きに、迷いは一片もない。
――この一撃で、終わらせる。
そう思っていた矢先のことだった。
「殺すな」
突然耳元で、低く、ぞっとする程静かな声が囁かれた。
誰の声かを判断するよりも早く、真神の意識が一瞬、軋んだように止まる。
風も、気配もない。
だが、確かに何かが、彼のすぐ横から現れた。
真神の目が見開かれる。
空気が震えた直後、彼の視界の端に赤黒い色の物体が一瞬だけ、揺れて見えた。
ブラッドハウンドの、血のような赤黒い隊服だ。
いつの間にか目の前に、誰かがいた。
視線の先、異形の腹部に、拳が深く叩き込まれている。
瞬間、異形の口から濁った吐息が一つ、静かに漏れ出る。
そして、何かがふっと抜けたように、ゆっくりと膝を折り、そのまま地面に沈んでいく。
白目を剥き、口からは泡を吹き、手足が痙攣しながらも、立ち上がる気配はなかった。
それは明らかに殺してはいないが、完全に終わらせたような一撃だった。
その場に立つ真神の周りを、土と生臭さの匂いを含んだ風が微かに吹き抜けた。
一気に力が抜けたように両腕をだらりと垂らすと、狼の鉤爪はゆっくりと、人の爪へと戻っていく。
指先に残る僅かな違和感だけが、先程の殺意の余韻を物語っていた。
真神は、異形の心臓を貫く寸前だった。
それなのに、いきなり横合いから断ち切られたのだ。
ただ、その場に立ち尽くす。
視線は彷徨い、何かを探すように、あるいは確かめるように揺れていた。
息をすることすら忘れたように、静かだった。
ほんの一瞬、感情が追いつかないまま、ただ時間だけが流れる。
倒れた異形の傍らに、一人の男が静かに立っていた。
真神や柴尾よりも頭一つ分は高い長身。
後ろ髪の上半分をうなじ辺りで束ね、残る髪が襟足で風に揺れている。
シャツの袖は無造作に捲られ、露出した腕には、只者ではないと分かる古傷がいくつも刻まれていた。
シャツ越しにも伝わるその体格は、無駄のない、鍛え上げられた岩のような肉体だった。
不意に、その男の頭上に、低く唸るような音が降りてくる。
ブォン――と、風を切って舞い降りたのは、大きな円盤型のドローン。
機体の表には、目玉の形をしたレンズが二つ、並んで取り付けられていた。
目玉から発せられた淡い光が周囲を旋回するなか、無機質な音声が響く。
「対象、意識喪失。生命反応あり。行動不能を確認。拘束処置、開始せよ」
それを受け、男は腰のベルトに装着された棒状のデバイスを一本抜き取る。
手のひら程の長さで無機質な光沢を放つその器具は、起動と同時に微かな駆動音を発した。
男がそれを軽く投擲すると、上下の先端からワイヤーが瞬時に展開され、四肢へと絡みついていく。
ワイヤーは自動的に締まり、ピンッと電子音を鳴らして拘束を完了させた。
そして男はゆっくりと、真神の方へと振り返る。
ようやく見えた顔には、右目の上瞼と下瞼に、一つずつ小さなほくろがあり、顔全体には皮膚が剥がれたような生々しい傷痕が点々と走っていた。
男の目には、鋭さも、感情もなかった。
まるで光を失ったかのような、凍てついた眼差し――いや、むしろ、何も映していないとしか思えない程、虚無の瞳だった。
その沈黙を破るように、再びドローンが冷静に告げる。
「隊員コードBH-KG-M412・真神サイ。BH-KG-S087・柴尾ナナオ。実戦許可のない状態での異能使用及び戦闘行為により、命令違反が各一件。現場は一般人の密集地域。甚大な被害リスクを鑑みて、上層部への詳細報告を求める」
その通達を聞きながら、真神は目前をふよふよと浮遊するドローンを、明らかに鬱陶しげな目つきで睨みつける。
ドローンが伝えていることなんてどうでもいい。
今、問題なのは――
真神の視線が男に向けられる。
男も、真神の視線に応じるように、まっすぐ見据えてくる。
そして静かに、口を開いた。
「加減もできねぇのか、狼」
それは怒りでも苛立ちでもない。
冷たく、突き放すような声音で、どこか挑発のようにも聞こえた。
感情のない言い方だからこそ、余計に棘が際立っている。
真神の眉間が僅かに寄せられる。
あの瞬間、自分の手で終わらせるはずだった。
その決着を、土足で踏みにじられた。
喪失感に、言葉は追いつかない。
呆然としたまま、真神はその場から動けなかった。
その中で、群衆のざわめきが、少しずつ戻ってくる。
「なに今の!?やばっ!」
「え、真神が倒したのかよ!?速すぎて何が起こったか、全然分かんねぇ!」
「動画にはバッチリ映ってると思う!さっちゃん、超強いじゃん!」
ほんの一瞬の出来事――その速さは、人間の肉眼では到底追えないものだったようだ。
スマホが次々に掲げられ、歓声が波のように広がっていく。
誰もが目を輝かせ、録画ボタンを押しながら口々に名前を叫んでいる。
だが、無垢な彼らは、本当を知らない。
ただ一人。
真神と柴尾だけが、それを知ることができたのだから。
(……ちゃう)
あの男の動きは、真神を超越していたのだ。
(あの兄ちゃんに、横取りされたんやわ)
誤解だけが、勢いを持って広がっていく。
その中で真神は、悔しげに立ち尽くしているだけだった。