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2匹目『狼は牙を剥く(前編)』

 始発駅のホームに、柔らかな朝の光が差し込んでいる。


 真神サイが改札を抜け、階段を上がると、澄みきった青空を背に、電車の到着を知らせるアナウンスが静かに響いていた。


 真神はスーツケースを転がし、背中に背負ったリュックサック型の、大きな猫用キャリーバッグが揺れないよう気を配りながら歩いていた。


 キャリーバッグの中で丸くなっているのは、自宅から連れてきた二匹の猫だ。

 静かな寝息は、直接聞こえるわけではない。

 それでも真神には、彼らが穏やかに眠っていることが分かった。


 ふと、ホームの柱にもたれかかっていた男と目が合う。


「よっ、サイ」


 声をかけてきたのは、柴尾しびナナオだ。


 真神よりもひと回り背が高く、制服越しにも分かる程肩幅の広い、引き締まった体つきの長身。

 色素の薄い金髪が、朝の光を反射している。


 切れ長の黄色い目は静かで冷たさもなく、けれど、その佇まいは、周囲の空気を僅かに張り詰めさせるような存在感を纏っていた。


 彼は真神とは同い年で、家も通りを挟んで向かい同士の幼馴染だ。


 手には大きめの手提げバッグを軽々とぶら下げている。


 ブラッドハウンドへの入隊にあたって、真神は政府推薦という特別枠での内定だったが、柴尾は違う。

 一般公募から応募し、学科、筆記、実技、身体検査、適性審査——部隊配属と高校入学の両面を兼ねた厳しい選抜試験を経て、正規合格を勝ち取っているのだ。


 その過程は、推薦による抜擢とはまた異なり、意志と努力の結晶だった。


「なんで家が真向かいなのに、一緒に行かんと、駅で待ち合わせやねん」


 真神が、キャリーバッグの位置を肩で直しながらぼそりと呟く。


 柴尾は一瞬「あ?」と首を傾げたが、すぐに「あぁ……」と、妙に納得したように頷き、片手をスラックスのポケットに突っ込んだ。


「だって、今日は特別な日やろ?しばらく家族と会われへんくなるし」


 まるで何もかも見透かしているような、飄々とした笑み。

 真神は言葉を返せず、眉間に薄く皺を寄せた。


 柴尾は肩を竦めて続ける。


「どうせお前んち、パパとママが夫婦喧嘩で揉めるやろ。時間がかかるの分かっとったし、巻き込まれんの嫌やから、俺は先に来てん」


 すべてを言い当てられた真神は、眉を寄せたまま唇をへの字に曲げた。


「図星やろ?」

「やかましい」


 柴尾がさらりと口にすると、真神はつっけんどんに言い返す。


 真神の反応に彼は面白かったのか、指を差して、わざとらしくケラケラと笑い出した。

 そのからかうような態度に、真神は舌打ちをして、呆れたような目で彼を睨む。


 柴尾はニヤニヤと笑みを崩さず、悪戯を仕掛けた子供のように悪びれもせず、それでいてどこか楽しそうだった。


「……君、そんな手荷物だけで行くんか」


 視線を落としつつ、真神は柴尾の手にぶら下がっている手提げバッグを顎でしゃくった。

 スーツケースひとつなく、まるで少し遠出する程度の身軽さだ。


「ん?あぁ……二、三日分の着替えくらいやな。どうせ現地で揃うし」


 柴尾は口元を緩めたまま、機嫌良く付け加える。


「ブラッドハウンドの本部がある"ハウンドセンター"、寮やら学校だけやなくて、ショッピングモールも併設されとるって聞いたで?」


 その言葉に真神は小さく息をついて、ぽつりと漏らす。


「旅行気分やなぁ」


 真神の声は、皮肉とも冗談ともつかない調子だった。

 柴尾は笑いながら「まぁな」と気楽に返す。


 丁度その時、ホームに電車が滑り込んできて、軽やかな音と共に停止する。

 ドアが開き、二人は並んで乗り込んだ。


 車内はまだ、朝の通勤通学ラッシュ前で、座席にはちらほらと人がいるだけだった。

 真神はスーツケースを足元に寄せ、キャリーバッグを膝に乗せる。

 柴尾はその隣に腰を下ろし、真神の膝を見下ろしながら言った。


「お前こそなんやねん。猫まで連れて来て……まさか、ブラッドハウンドに骨埋めるつもりやないやろうな?」


 キャリーバッグの小窓を覗き込みながら、柴尾の声には呆れたような色が混じっていた。

 上下に仕切られたキャリーバッグの中では、二匹の猫がそれぞれ静かに丸まっている。


 この二匹を連れていくかどうか、最後まで迷い続け、それでも連れてきた。

 家族には「しばらく顔見せんくなるし、忘れられたら悲しいやん」と、軽く言って納得させたが、本音は全く違う。

 両親や祖父母とは、このまま疎遠になるだろう。

 いずれは、完全に縁を切ることになるかもしれない。

 けれど、それで猫達も実家に置いていけば、それこそ今生の別れになるかもしれないと思うと離れたくなかった。


「そんなわけないやろ――」


 静かに口を開いた、その瞬間。


「せやんな。任務終えたら除隊して、俺と一緒に"芸能界に復帰"するんやもんな?」


 不意に飛び込んできた言葉に、真神の表情がはっきりと変わった。

 驚きが顔に出て、声も出せずに目を見開いて、柴尾の顔をまっすぐ見つめたまま、言葉が止まってしまう。



 電車の車輪が鉄の継ぎ目を規則正しく叩きながら、ゆっくりと町を遠ざけていく。


 窓の外を流れる景色は、住宅地から、若草の萌え始めた原野へと緩やかに変わっていった。


 柴尾が、座席に背をもたれさせて隣の真神に目を向ける。


「つーか、お前のオカンって、その"条件"で入隊に許可出したんやなかったっけ」


 彼の言葉のお陰で、ようやく理解した真神はすぐさま目を逸らし、窓の外に視線を流した。



 しばしの沈黙。


 車内には、低く響くモーター音と、レールの継ぎ目が起こす、細かな振動が流れている。



 ――確かに、その通りだった。



 女優として業界に名を知られる母は、幼少の頃からサイを、"名家が生んだ奇跡"として芸能界に立たせた。


 彼女にとって本当に重要なのは、"真神"という家名、その血筋、その価値――それだけだった。


 すべては、息子のサイを飾るための装飾に過ぎず、彼女にとってサイは「高貴な血と唯一無二の美を併せ持った象徴」でしかなかった。


 芸能界にサイを立たせたのも、母の望む"理想の真神サイ"を作るためだ。

 名と顔を武器にさせ、世間に爪痕を残し、サイの名声を押し上げる。

 それが、彼女の描いた成功のシナリオだった。

 サイにとっては、自身の夢でも希望でもなく、ただの義務なのだ。


 そして今度は、国家直属の特殊部隊――ブラッドハウンドへの入隊。

 命のやり取りが行われる仕事すらも、母にとっては、"国に忠誠を誓う真神サイ"という、彼の肩書きを飾る美談を得る手段に過ぎない。


 そうして得た民衆の称賛が、やがて、彼の芸能界での更なる飛躍に繋がる。

 母は、心の底からそう信じていた。


「……せやな。許可が出たんは、一時的な離脱やからや。母さん的には、終末一家を制圧するいう任務でちょっと名前を売ってから、華々しく復帰した方が話題になるんやと」


 皮肉の滲む言い方に、柴尾は隣で腕を組んだまま、苦笑を漏らした。


 電車は原野の中を滑るように進み、窓の外には、広がり始めた田畑が静かに流れていた。


 車窓に沿って電柱の影が横切る。

 光が一瞬だけ揺れ、車内の空気が僅かに変わったような気がした。


 そして、真神は柴尾へと視線を向け、目元をほんの少しだけ伏せる。


「……ホンマに、まだ目指しとるんか。芸能界復帰」


 その問に込められた温度は、からかいにも呆れにも似ていた。

 だがその奥には、自分の意志で道を選び、誰の意向にも縛られずに生きている柴尾への、淡い憧れがあった。


 家の名を利用して、芸能界で理想の姿を演じさせられている真神。

 一方、アイドルになりたいという夢を胸に、自らその世界に飛び込んだ柴尾。


 生き方の違う二人はやがて、"Mag7(マグナ)"というユニットを結成し、共に表舞台に立ったのだ。

 だが今は、その活動も芸能界での仕事も、ブラッドハウンドへの入隊を機に、すべて一時休止している。


 真神にとって芸能界は、与えられた役割を果たし、名を売り、結果を残して戻る――それだけの場所だ。

 Mag7の活動も、柴尾がいたからこそ続けられたものであり、もし再び芸能界に戻ったとしても、そこでユニットを続けるという未来は、最初から真神には存在していなかった。


 一方で柴尾にとって、アイドルになることは、人生そのものだった。


 柴尾は真神の問に肩を竦めて笑った。

 けれど、すぐには何も返さない。

 まるで、それが思っていたより深く刺さったかのように、視線を窓の外へと滑らせる。


「華々しく復帰ねぇ……やっぱ、あの人の理想ってサイひとりで完結しとるんやな。お前は人生ごと、作品にされとる」


 言葉は軽く、口調も柔らかい。

 柴尾は、いつもの調子を装ったまま、冗談めいた言葉でやんわりと話題を逸らした。

 だがその軽さの裏に、僅かに滲んだ苛立ちは隠しきれていなかった。

 誰に向けたものでもないようでいて――その矛先は、明らかに真神の母親だった。


 しばらく窓の外を見つめた後、柴尾は少しだけ声を落とす。


「……まぁ、そんなん言うてる俺も、結局自分の夢しか見とらんのやけどな」


 その言葉は、問への返事というより、独り言のように響いた。

 そして、真神が返す前に、柴尾は話を続ける。


「獣狩りで生涯終えるより、芸能界復帰の方がええやろ。トップって程の人気はまだないにしても、国際指名手配までされとる組織ぶっ潰してヒーローにでもなってみぃや。こんなん利用するしかないって」


 言葉は冗談めいていても、そこにこもる熱は本気だった。


「俺は俺の人生を、ブラッドハウンドに捧げる気ィはこれっぽっちもあれへん」



 真神は、何も言わなかった。


 だが、顔を背けるでもなく、笑って受け流すでもなく、ただ静かに、まっすぐにその言葉を受け止める。


 否定も肯定もないその沈黙は、けれど、確かに柴尾の意思に応えていた。



 一見すれば対照的な二人だが、一つだけ、確かに重なるものがある。

 それは、このブラッドハウンドで過ごす時間を"終点"ではなく、"通過点"として捉えていることだ。


 真神にとっては、家という檻から自由になるための手段。

 柴尾にとっては、もう一段ステージを上げるための足場。


 目的も道も違えど、どちらも、ブラッドハウンドに永久的に身を置く気など、最初からなかった。




 電車が最終の停車駅に差し掛かると、真神と柴尾は静かに立ち上がり、無言のままホームへと降りた。


 新幹線の乗り場に上がった頃には、空はすっかり朝の光に満ちていた。


 滑り込んできた新幹線に乗り込み、並んで席に座る。

 会話は途切れたままだが、それを気にするような間柄ではない。


 先程の会話を蒸し返すこともなく、かといって気まずさが漂うわけでもない。

 その静けさは、互いにとってごく自然なものだった。


 車内が緩やかに揺れる中、真神は気圧の変化に僅かに顔を顰める。

 ふと隣に目をやると、柴尾は相変わらず、どこか気楽な顔で口を開いた。


「親父が言うとったぞ。ブラハウの食堂って、美味い飯が食えんねやて」


 真神は小さく「ふーん」とだけ曖昧に相槌を打ち、目はそのまま窓の外に向く。


 しばらくして、柴尾が天井を仰ぎながら呟いた。


「寮の部屋、二人部屋とかやったら最悪やんな。もしそうなら、お前と同室になるのだけは避けたい」


 真神は「こっちのセリフや」とだけ返しながらも、視線を窓の外から動かさなかった。


 聞いていないわけではない。

 だが、深く絡む気もない。


 それでいい。

 この距離感こそが、彼らにとって自然だった。


 気を使わない。

 無理に話す必要もない。

 言葉がなくても成り立つ空気は、長く並んで歩いてきた二人の間にしかない平常だった。



 新幹線は速度を上げ、遠ざかる街の輪郭が静かに背後へと流れていく。

 代わりに、窓の先には鉄塔や工場の煙、ぽつぽつと現れる高層ビル群――都市の匂いを纏った風景が、じわじわと近づいてきた。


 陽光が強さを増し、車窓のガラスに反射した光が、天井を微かに照らす。


 遠くには高速道路の立体交差が重なり、雑居ビルの看板が次第に数を増していく。


 やがて、線路脇の建物が迫り、新幹線は速度を落としながら、車体を小さく揺らす。

 ブレーキの軋む音が響く中、車両は目的の駅へと滑り込んでいった。



 ドアが開いた瞬間、都会特有のざわめきと人の流れがホームに押し寄せる。

 絶え間ないアナウンス、人々の足音、誰かの笑い声。

 けれど、その喧騒は、真神と柴尾にとって、全くの馴染みのない音ではない。


 芸能活動で何度も訪れてきた街だ。

 だが、見慣れているはずのこの場所が、今日だけはどこか違うように思えた。


 真神は自然と背筋を伸ばし、ふっと笑みを零す。


 ようやく、これから暮らす地へ辿り着いたのだという実感が湧いてきたのだ。


 見慣れた高層ビルやガラス張りの駅舎、人の波。

 どれも変わらないはずなのに、どこか新鮮だった。


 今日から始まるのは、ただの滞在ではない――住むということだ。


 この街で、もうひとつの人生が動き出す。


 真神はそう思い、スーツケースの持ち手に添えた指先に、力をこめたのだった。




 駅を出ると、騒がしさは更に増す。

 スーツ姿の会社員、制服姿の学生、観光客、子連れの家族。

 幅広い年齢層の人々が行き交い、足音や会話、スマホの通知音なんかが、四方から飛び交っている。


 頭上では大型モニターがニュース番組を流し、車やバスがひっきりなしに行き交う。

 見上げる程の高層ビルが空を切り取り、この街が持つ、忙しない息遣いが全身に伝わってくる。


 真神と柴尾は駅前の大通りに足を踏み出し、しばし、その場で立ち止まる。


 柴尾は、スラックスのポケットからスマホを取り出すと、ハウンドセンターまでの経路を確認するように、画面へと視線を落とした。




 ――その時。




 駅前の大通りを歩く群衆の中に、明らかに場違いな存在の男が紛れ込んでいた。


 男はふらつく足取りで、まるで、どこかの現実に取り残されたかのように彷徨っているみたいだ。


 ボサボサの髪、土気色の肌、黒く油染みたジャケットの袖口から覗く入れ墨。


 そして、手に握られた、針先剥き出しの注射器が、あまりにも異様だった。


 だが、通行人達は、誰一人として彼に目を向けない。

 スマホを見ながら通り過ぎる者。

 足早に信号を渡っていく者。


 都市という場所は時に、あまりにも異常に鈍感だった。




 やがて、男が不意に足を止める。


 そして、虚ろな目で、天を仰ぐと――


「……お父さんが、目の裏で見てる」




 ぽつり、呟いたかと思えば、次の瞬間には躊躇いなく注射器を、自らの首筋へと突き立てた。


「え……」と、どこかで、誰かの小さな声が漏れる。

 その一言を皮切りに、場の空気がざわつきだした。


 真神がその乱れに気づいて顔を上げ、柴尾も声が重なり始めた辺りを振り返った。



 間もなくして、男の体が激しく痙攣を開始。


 ゆっくりと、だが確実に、異形な姿へと変貌していく。


 皮膚が内側から押し上げられるように波打ち、ぼこぼこと不自然な膨らみを繰り返す。

 まるで、体の奥から何か、別のものが這い出ようとしているみたいに――


 次に、筋肉が膨張し、骨の位置がズレる度に、関節が悲鳴のような音を立てる。

 服のあちこちが張り裂け、縫い目が一つずつ弾けていく。

 特に、肩から胸元にかけては異様な厚みが生まれ、着ていた上着が肉の膨張に耐えきれず、裂けて飛び散った。


 入れ墨が刻まれた腕はどんどん膨れ上がり、二の腕の筋が浮き出す程に盛り上がる。

 手の指は一本ずつ捻じれながら鋭利に伸び、先端が赤黒く尖っていった。

 やがてそれは、指そのものが刃物のような鋭い爪となり、鈍く光を反射させながら震えだす。


 口を裂ける寸前まで吊り上がらせ、喉の奥から何かを押し出すように、ゆっくりと口を開いた瞬間――


 背中が大きく仰け反り、獣のような咆哮が、喉の奥から漏れ出て、駅前の大通り一面に響かせた。


 それはもはや、人ではない。



「……なんや」


 柴尾が小さく呟いた時には、真神は既に、狼の目を開いていた。


 だが――


「っ……」


 視界が一瞬、大きく揺れた。


 敵意や殺気といった異質な気配を捉えるはずだった。

 けれど今、視界に映るのはただの街の喧騒のみ。

 周囲にいるはずの"獣"が、何故だか輪郭を持たない。

 気配はあるのに、異物として感知ができていないのだ。

 まるで、感覚の網の目をすり抜けるように――その存在は、ただ街の雑踏に紛れ込んでていた。


(獣……ちゃう。せやけど、半獣でも……)


 混濁する感覚のせいで焼けつくような頭痛を起こす。

 本能と理性の境界が、濁流のように混ざり合って定まらない。


「……人間?」


 真神は静かに目を閉じ、狼の目の一つを封じた。

 息を吸い、吐いて、直感と反射神経だけを頼りに切り替える。


「ナナオ」


 柴尾の名を呼ぶ。

 彼が反応するよりも早く、柴尾の胸にキャリーバッグを押しつけた。


「大事に持っといてや」

「え」


 困惑の声が漏れた、その刹那。

 真神の足が一歩、後ろへと引かれ――そして、アスファルトがミシッと音を立てた。


 真神の耳元で空気を裂くように、風が一度唸りを上げ、周囲の音をすべて遠ざける。


 重力が反転したような浮遊感と共に、真神の姿が群衆の中へ――ひと跳ねで消えた。


「はえー……」


 呆気に取られたような声が空気に紛れるよりも早く、柴尾は状況を理解すると、キャリーバッグの中で眠る、小さな命を揺らして起こさぬよう、そっと背負い、肩紐をぎゅっと握る。


 その瞬間――柴尾の背後で、幻影のような、くるんと巻かれた尻尾が、一本、また一本と浮かび上がってくる。


 全部を合わせると七本。


 そのどれもが、淡い光を帯びて揺らめき、ふわりと空中に立ち昇っていた。


 同時に、彼の頭部から、実体を持たない獣の耳がふっと浮かび上がる。

 ぴんと立ったその輪郭は、どこか、"犬"を思わせる形をしていた。


 柴尾の全身が、異能の気配に包まれ始める。

 柴尾ナナオの特異な能力――"犬の目"だ。


 彼が尻尾を地面から天へと一閃いっせんさせると、その動きに呼応するかのように、もふもふとした質感の小さな犬の幻影が一匹、ふわりと浮かぶように現れた。


 そして、柴尾が尻尾を上下に振る度、同じ姿をした小さな犬達が、わらわらと次々に湧き出すように現れていく。


 やがて、それらが群れとなって群衆の前に並び立つと、四肢を低く構えて今にも走り出しそうな姿勢を取ったのだ。



 何も言わずとも、二人は既に戦いに備えていた。

 真神が何故動いて、柴尾が何を察したのか――問いかけるまでもなく、そこにある危機と、それぞれの役割を理解していた。


 どちらが先でも、どちらが後でもない。

 ただ並び立つ者同士、それぞれ狩るべき獣に向けて、同時に牙を剥いたのだった。

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