1匹目『狼は目を開く(後編)』
最初に真神サイを形成したのは、二人だった。
一人は、鏡越しにサイに見惚れながら微笑んでいる母親。
「サイ。あなたがその唯一無二の顔に生まれたのは、数多いた言い寄ってきた男らをすべて切り捨てて、山奥で引きこもっとった、顔と家柄しか取り柄のないお父さんを、お母さんが選んだからやで」
一人は、山中でサイに背を向けて歩きながら語りかける父親。
「サイ。お前の母親は、性悪や。俺はあの女に振り回されて、真神の血を絶やすとこやった。せやけど俺は、お前が生まれて赦された。お前は、俺のようにはならんと真神の男として正しく血を繋げ。それがお前のこれから進む道や」
それは、愛の形をした執着であり、願いの皮を被った呪いだ。
幼いサイは、ただ黙って――父と母の言葉に頷いた。
――春。
澄みきった青空の下、真神家の門扉の前に、家族が整列していた。
壮麗な洋風建築の邸宅を背にして立つ両親と祖父母の視線が、それぞれ異なる温度を持ってサイに注がれる。
父は鋭く、母は恍惚と目を細め、祖父は腕を組んで石像のように微動だにせず、その隣で祖母だけが、眉根を寄せて、視線を落ち着きなく左右に揺らしていた。
サイは新しい学生服に身を包み、傍らにはスーツケース、背中には二匹の猫が入った、リュックサック型の、大きな猫用キャリーバッグを背負っている。
その姿は、もはや高校生というより、任務に赴く立派な隊員のような風格すら漂わせていた。
家族の視線が静かに重なる中、沈黙を断ち切ったのは父の声だった。
「……まぁ、なんや。いよいよ親元を離れる日が来たな。サイ」
声の調子に特別な熱はなかったが、不思議と耳に残る響きだ。
父は、そのまま続ける。
「お前、分かっとるやろうな。俺と一緒に何度も山へ入った日のこと……お前が命を落としかけた時も、俺がお前を庇った。お前が俺の背中を見て学んだんは、ただの戦術やない。生き方そのものや」
言葉を置いて、父はサイの顔をまっすぐに見据える。
父から向けられるのは、容赦のない眼差し。
「せやけど、今日からは俺はもう傍におらん。その覚悟が、お前にホンマに備わってんのか……それが不安でならんのや」
語気を荒げることはない。
しかし、言葉の端々には、切りつけるような冷たさがあった。
「まだ、お前の狼の目の扱いには粗がある。ブラッドハウンドで多少訓練を積んだところで、それが補えるとは思えへん。お前は俺が傍におったからこそ強くなれた。それを忘れたらアカン」
父がここまで語った時、隣に立っていた母が、不意に一歩前へと出た。
「もうええわ。くどいねん」
母の声は静かだ。
だが、凍てつくような怒気が、それに宿っていた。
「こんな日にまで、アンタのしつこい説教で、この子との貴重な時間を削らんといてくれる?」
そう言って父の言葉を遮った母の目は、サイにしか向いておらず、頭から足元までをゆっくりと辿り、僅かな乱れも見逃すまいと注意を注いでいた。
彼女はそっと彼の制服の襟を整え、上着についた些細な埃を指先で払い落とし、それから、ネクタイの結び目に触れ、歪みや緩みがないかを確かめるように、軽く結び直し、形を整える。
その一連の所作には、一片の迷いもなかった。
母にとってサイの外見は作品であり、その完成度を保つことは、儀式のような習慣になっている。
「顔にだけは、絶対に傷を残したらアカンよ。学業や任務で忙しいのは分かるけど、自分のメンテナンスは怠らんといて。夜更かしも、暴飲暴食も、すべて劣化の元やねんから……あなたは選ばれた子なんよ」
最後に前髪の流れを整えるように優しく撫でつけてから、彼の頬にそっと手を添えて、母は甘やかすように囁いた。
その様子を見て、父は小さく肩を竦め、鼻で笑った。
「選ばれた子?自分の息子を着飾る人形みたいに言うなや。サイが戦場で血ィ流すことの意味を、少しは考えたらどうなんや」
「……なんやねん?アンタは血を流す意味を分かっとるつもりなん?子供を盾にして、自分の父親としての面子を守ろうとしてるだけちゃうん?いつもこの子に、俺のようになるなって言うくせに、結局アンタ、自分と同じ道に引きずり込んどるだけやんか」
「なんやその言い草は。誰が面子の話をしてんねや。俺はサイに無茶な要求をするないう話を――」
「サイを傷物にして、無茶な要求をしてんのはアンタやんか。名を背負えだの、獣と戦えだの。アンタが押しつけてきた義務で、どれだけこの子が縛られてきたか分かっとる?」
「お前が言うか。サイを自分の都合のええように扱って、真神の名を勝手に使って、外でええ顔しとるんはどこの誰や」
「私の都合のええようにやない。全部この子のためや。アンタと違って、私はこの子のことを道具として見たことなんか一度も――」
「笑わせんなや。その目はいつも、この子は私の傑作ですって言うとるやろ。育てた、磨いた、着飾らした……お前は自分の子供を飾り物にして、自分の欲で縛っとるだけや。それが母親のすることか?」
「欲?えぇそうや。私は欲深い。この子が誰よりも美しく、気高い、完璧な人間になるように、毎日、細胞ひとつひとつを育ててきた……アンタみたいに、名家の跡取りやからなんて言い訳せんでも、私の子はそれだけの価値がある。それに、そっちこそどうやねん?サイを血筋の証明としてしか見てこうへんかった、アンタにだけは言われたないわ」
「お前は家を守る重みを知らんから、そんなことが平気で言えんねや。
美しさや気高さで守れるもんなんか、ほんの表層だけや。
真神の名を名乗る限り、血筋はただの飾りやない。
どれだけの目と責任が、サイ一人にのしかかってくるか、お前には一生、分からんやろうな」
互いの言葉は声を荒げることはなく、しかし確実に、鋭利さを増していった。
まるで長年、澱のように溜め込んできた毒を、息子が親の手を離れるこの日に、今こそ吐き出すかのように。
そして、二人が同時に口を閉ざした瞬間――場の空気は、一段と重く、冷たく沈み込んだ。
祖母が僅かに唇を動かしかけたが、言葉にはならなかった。
指先を所在なげに握っては解き、腰を引くように体を揺らしながらも、この場を離れることはしない。
視線は一度泳ぎ、やがて静かにサイへと注がれる。
何かを言いたげな思いが、その目の奥に微かに滲んでいた。
けれどその声は、何も発せられることはない。
一方、祖父は相変わらず微動だにしない。
腕を組んだまま、まるでその場全体を値踏みするかのように立ち尽くしている。
瞼一つ揺らさず、ただここにいるだけだ。
何を思っているのか、何を見ているのか、その顔には一切の感情を映していなかった。
「お前は、子を愛してるつもりで、ただの所有物にしとるだけや」
「ならサイに聞いてみたら?この子はどっちの手を取ると思う?私?アンタ?」
「サイは、真神家の長男や。血が示すもんは、言葉やない。現実で決まるんや」
「ほな、その現実ってヤツが、いつかアンタを叩き潰す日が来るわ」
言葉は、再び途絶えた。
父と母は口を閉ざし、互いの視線が火花のようにぶつかる。
言葉が止んでも、感情の棘はこの場に残り続け、刺すような緊張だけが居座り続けていた。
その空気の中、誰もが息を潜めている。
ただ静かに、ただ冷たく、時だけが過ぎていく。
誰も動かず、誰も言葉を発さない。
そんな、張り詰めた静寂の底で――
不意に、音が鳴った。
コツ、と。
場を縫うように鋭く響いた、一つの靴音。
全員の視線が、揃ってその方向――サイへと向けられる。
「……なんや、サイったら……そないにニコニコして」
母が思わず微笑む。
その音は、サイが石畳を一度踏んだ音だった。
偶然のように足で地面を叩く、それなのに、場の空気すべてがその音に吸い寄せられる。
青空を背に、サイは目をふわりと閉じ、唇をきゅっと結んでいる。
けれど、口角は確かに上がっていた。
その笑顔は、無邪気で、屈託がなく、まっすぐだった。
重苦しかった空気が、一瞬で晴れ渡っていくような――そんな笑顔だ。
サイはそのまま、静かに目を開く。
瞬時に光が差し込んだ。
その双眸は、春空を映したように淡く、澄みきっていた。
視線に迷いはない。
一直線に、目の前の家族を見据えている。
「父さん、母さん。僕をここまで育ててくれて、ありがとう」
音のなかった空間に、優しい音が満ちていく。
サイの声は柔らかく、暖かく、けれど不思議と場の空気を整えるような、確かな芯を持っていた。
誰も、すぐには言葉を返せなかった。
ただ、その突然の言葉に目を見開き、静かに彼の声を受け止めるしかなかった。
サイはまず、父へと視線を向ける。
「分かっとるよ。父さん」
サイは目を伏せるように一瞬だけ視線を落とし、すぐにまた、父へと向け直す。
その表情には曇り一つなく、穏やかな光が宿っている。
「山で過ごした全部が、今の僕を作ってくれた。背中で教えてくれたことも、言葉よりも強く、ちゃんと届いとる」
言葉に、一切の揺らぎはない。
感謝と敬意だけを丁寧に編み上げた、細やかな声。
「狼の目も、まだ未熟なんは分かっとる。せやけど、それを扱う力も、心構えも、山で教わったこと全部、これからもずっと活かしていくつもりや」
ひとつひとつの言葉を選ぶように語りながら、サイは僅かに口角を上げる。
穏やかで、どこまでも誠実なその微笑みには、偽りの色はどこにも見えない。
「父さんが傍におってくれたから、僕はここまで来れた……ホンマに、ありがとう」
サイが話し終えると父は、何も返さなかった。
ただその場に立ったまま、視線を下げ、サイの言葉を深く、静かに、受け止めている。
頬の筋は動かず、瞳も細められたまま、だが、その表情には確かに、揺らぎがあった。
次にサイは、母へと視線を向ける。
「母さん。僕の容姿をここまで綺麗に保ってくれたんは、母さんのお陰やと思うとる」
淡く微笑んだまま、彼女の目を正面から見据える。
その眼差しには、少しの照れもあったが、言葉は丁寧だった。
「ちゃんと睡眠も取るし、暴飲暴食もせえへん。肌荒れもせえへんように気ィつけるよ」
ほんの少し、口元を緩めながら言葉を継ぐ。
笑いながらでも、その声にこもる感謝は確かだった。
「気にかけてくれてありがとう。どれも、きちんと守るようにする」
母は、サイから視線を逸らさず、口元にそっと指先を添えた。
表情には一片の陰りもなく、誇りと満足が浮かんでおり、完成品を前にした、創作者の喜びのような感情を持ち合わせているようだった。
サイは最後に歩を進め、祖父母の前に立つ。
言葉よりも先に、二人への敬意を心に込めながら口を開く。
「じいちゃん、ばあちゃんも。僕をここまで育ててくれてありがとう。これからは自分のことは自分でできるから、せやから、父さんと母さんのこと、頼むな」
祖父は返事をしなかった。
その顔は厳しく、揺れることもない。
ただ、その沈黙そのものが、彼の答えのようだ。
祖父の隣にいる祖母は、涙を堪えながら、震える手を胸元で握り締めている。
「さっちゃん……」と、微かに漏れた声は、風に溶けるようで、彼女はそのまま、サイの言葉に応えるように頷いた。
サイは足を数歩、後ろへと引く。
その場にいた家族から、物理的に距離を取る。
全員の顔が一度に視界に収まる位置まで下がり、そこで足を止め、静かに体を回して向き直った。
両親の応酬で濁っていた空気は、サイの冷静な振る舞いによって、ようやく静けさを取り戻しつつあった。
「僕、真神の名に恥じひん、立派な男になってくるわ」
サイは、再び満面の笑みを浮かべた。
柔らかな陽光の中に、その笑顔はあまりにも明るく、眩かった。
本来、こうした門出の日の別れには、寂しさや名残惜しさを感じるものだ。
だがこの場には、その余韻すらも霞のように抜け落ちている。
だからこそ、この瞬間を穏やかに、気持ちよく見送ってもらいたいと、人は誰しもがそう願うはず。
(――なぁーんて)
ただ、真神サイは違った。
「いってきます!」
(こんな家、二度と帰ってくるかボケ)
サイにはそもそも、そんな感情はなかった。
別れを惜しむ心も、帰りたくなる場所も、初めから自分の中には存在していない。
この瞬間、彼の心は、長い間求めていた自由にようやく触れられたのだ。
胸の奥からじんわりと広がる、解放された感覚。
重しを外したように体は軽くなり、呼吸すらもどこか新鮮に感じられる。
名を継げと言われた家も、父が求めた責務も、磨かれた虚飾も、母が望んだ理想も、縛られた常識も、すべてをここに置いていく。
背中に残すそれらに、一切の未練はなかった。
ただ自分は、自分だけの道を進むだけだ。
――その時。
「ふんっ。何が真神の名に恥じひんや」
静けさを裂くように、祖父の声が響いた。
「お前は、生まれた時から真神家の恥や。そこにおるバカ息子が、人間の女と番ってできた出来損ないがお前や。稀に人間の姿を保ちきれんと、耳や尾が出てまうのも、狼の血が中途半端にしか入っとらん証拠やろ。"片耳が折れとる"んが何よりの証や。終末一家すら軽んじとるお前にできるんは、国のためにせいぜい死ぬことで――」
「ごめーん!じいちゃん!ナナオを待たせとるから、僕行くわな」
今まで黙り込んでいた祖父が突然、口を開いたのも束の間、サイはその言葉をあっさりと切り捨てるように、笑顔のままくるりと向きを変えた。
家族に背を向け、スーツケースを引いて歩き出す。
舗装された道を軽やかに靴音を響かせる。
春の空気に包まれて、サイの背が、静かに遠ざかっていく。
その背後で――「おいコラ待たんかい!バカ孫!」と怒鳴る祖父の声や「お義父さん。黙っていただけます?」と、今にも噛みつきそうな母の声「サイ!自分を恥じんでええ!せやけど、都会の女にだけは気ィつけろ!」という、すべてを掻き消す程の父の大声が聞こえてくるが、サイは一度も振り返らなかった。
それらに振り返る価値はないと分かっていたからだ。
サイがこの世に生まれる以前、父と母は、長く子に恵まれなかった。
それに加え、真神家は厳格な血統主義を守っており、家督は"真神の姓を持つ男系の者"が継がねばならない。
父には姉と妹が二人いるが、彼自身が長男である以上、跡継ぎを儲けることは家の義務であり、宿命だった。
そのような閉塞の中で、ようやく授かった子――それが、サイである。
彼は真神家にとって、あまりにも"異端"で、あまりにも"危うい"存在なのだ。
靴音が、道に一定のリズムを刻んでいく。
頬に暖かな朝日を浴びながら、春の風を前に受けて歩いていく。
けれど、その歩みの後ろには、まだ家族はいる。
声が、気配が、微かに残っているのだ。
数十歩。
やがて、角が見えてくる。
ただ曲がる、それだけの動作なのに、何故か体が少しだけ重く感じた。
そして――角を曲がる。
その瞬間、背中に残っていたすべての重圧が、一気に切り離されたような感覚になる。
声も、気配も、ようやく消えていった。
世界が、自分だけのものになった気がした。
後ろを振り向いてもあの家はもう、視界には入らなかった。
サイは足を止め、ふと足元に視線を落とす。
少しだけ、肩が下がる――力を抜いたのは、今日になってから初めてだった。
気づけば、呼吸が浅くなっていた。
一度落ち着いて、ゆっくりと息を吸う。
喉の奥に新しい、それでいて、少しだけ冷たい空気が流れ込んできた。
「っ……」
口の中で舌打ちを噛み殺し、手が拳を作ろうと握りかけては、すぐに開く。
(クソジジイ。死ぬんは僕やなくて、老い先短いアンタの方や)
そう、吐き捨てるように考えながら、シャツの第一ボタンに指を掛け、そっと外す。
続けて二つ目も外すと、襟元から入ってきた風が、じんわりと首筋を撫でていった。
母に整えられたネクタイに手を伸ばし、結び目を乱暴に引く。
きちんと巻かれていたそれは、今となってはただ鬱陶しいだけだ。
ネクタイが緩んだ瞬間、胸の奥に絡みついていた窮屈さが、音もなく剥がれ落ちたように思う。
サイの一連の動作はどこか雑で、しかし、慣れた手つきだ。
最後に、前髪を煩わしげに掻き上げれば、額に風が当たり、心地良い。
「これからは、僕の人生ってことやんな」
小さく呟いた声は、誰にも聞かれなかった。
誰にも届かず、誰にも返されない。
それが、何よりも嬉しかった。
ふと、父の言葉が頭の中に蘇る。
『……まぁ、なんや。いよいよ親元を離れる日が来たな。サイ』
思わず、吹き出しそうになった。
実際、口元は緩んでいる。
(悪いねんけど父さん。めちゃくちゃ最高の日やで)
心の奥で膨らんでいた感情が、泡のように音もなく弾けて、溜まっていた言葉がどんどん浮かんでくる。
(立派な家に母さんが生んでくれたことも、山で父さんが教えてくれた生き方も、感謝はしてんで。せやけど、それはもう今日から、過去の出来事に変わる……この先の人生だけは、間違いなく僕のもんや)
恨みはないが、怒りはある。
恩はあるが、義理はない。
ゆっくりと歩き出す。
見上げた空には、雲が一つもなかった。
どこまでも青く、どこまでも明るく、まるで、自由が目の前に広がっているようだった。
歩きながらサイはふと、自分がこれから向かう道――ブラッドハウンドについて思いを巡らせた。
(せやけどまぁ、父さんが望む、真神の名に相応しい活躍はして、家系の看板にもう少し箔はつけたるよ。じいちゃんに関しては、要は、名誉を汚すなってことを言いたいんやろ?せやったら、それ以上のものに仕立てて返したるわ)
別に――やりたくてやるわけじゃない。
ただ、それなりに名前と立場はある。
最低限、家の名を貶しめない程度にはやってみせるつもりだった。
その程度で十分だとサイは思っていた。
(そのうえで、僕は僕の好きにやる。家の名を守るだけやなくて利用する。そっちの都合も立てる分、口出しはなしや)
祖父が甘く見るなと言っていた終末一家も、サイにとっては、ブラッドハウンドに入る流れでの一つの任務という感覚に過ぎない。
世界的に名が知れた、犯罪一家。
確かに危険な存在だとはされている。
だが、その脅威を政府が真剣に受け止めているようには、とても思えない。
実際、日本はその対応をブラッドハウンドに丸投げしている。
警戒こそしているが、まさか、国家の存亡がかかるなんて空気は全くない。
最近になって活動圏が広がっているとも聞くが、その輪郭は曖昧で、世間では、都市伝説のように語られる程度だった。
(確かに危険な組織やとは言われとるし、実際に死人も出とるって話も聞く。せやけど、僕がそいつらを命懸けで止めたいなんて思うような連中でもないしな)
そんな相手に恐怖を抱けという方が、そもそも無理な話だった。
そしてサイにとって、むしろ都合がよかった。
終末一家が好き勝手に騒ぎ立ててくれれば、自分がそこに対抗する側として派遣された時、結果さえ出せば評価は自ずとついてくる。
真神家の看板を守るという意味でも、任務を成功させれば周囲は文句を言わない。
逆にいえば、それさえ果たせば、誰もサイの内面になど関心を向けなくなる。
サイにとって、ブラッドハウンドも終末一家も、家族の手を振り払うために必要な、"通過点"に過ぎなかった。
やるべきことを淡々とこなし、それなりに周囲に顔を売り、評価を積み重ね、誰にも文句を言わせない状態で消える。
(僕が国から称賛されたら、真神家の権威も傷つかんし、むしろ威光は増すやろ。父さんとじいちゃんの顔に泥を塗ることもあれへん。母さんの思惑も、それなりには果たせるはず)
頭の中に、うっすらと未来の情景が浮かぶ。
ブラッドハウンドの隊服をスマートに着こなし、強さを隠さず、必要な場面ではきっちりと見せつける。
その実力に、誰もが納得する形で結果を積み重ね、自然と尊敬を集める。
それでいて、必要以上には誰も自分には近寄らせない――そんな、絶妙な距離感を保った自身の姿。
要するに、すべては帳尻だった。
名家に生まれた責務も、血に宿った宿命も、サイにとっては、感謝こそすれ、背負う気は更々ない。
ただ、都合よく使えばいい。
それで誰も傷つかず、自分も縛られずに済むなら、それが最善だった。
名前も力も、他人を遠ざけるための壁。
誰も近づかなければ、誰も巻き込まずに済む。
自分がすべて終わらせるのだ。
この血も、この家も――自分の代で、きっぱりと。
小さな笑いが、喉の奥で静かに弾けた。
その拍子に、背中の猫用キャリーバッグが僅かに揺れる。
猫のうちのどちらかが、眠りの中で寝返りでも打ったのだろう。
サイは足を止めず、手を後ろに伸ばしてバッグをポンポンと優しく叩いた。
声にはしなかったが、大丈夫、と伝えるように。
バッグの中で眠る小さな命だけは、自分の唯一の味方であってほしい。
それが、今のサイにとって信じられる、"家族"だった。
(僕は僕で、穏やかに生きる。それだけでええねん)
強くなりたいわけじゃない。
誰かを救いたいわけでもない。
ただ、毎日を穏やかに、誰の命令も受けず、何にも縛られずに過ごしてみたい。
誰かの期待でも理想でもない、"真神サイ"として歩いていく。
そんな、ごく普通の、ありふれた人生を――
『終末一家すら軽んじとるお前にできるんは、国のためにせいぜい死ぬことで――』
祖父の声が、呪詛のように胸の奥へと染み込んでいた。
遅効性の毒のように、今になってじわじわと効いてくる。
眉間に皺が寄り、唇の端が歪む。
それは怒りではない、鈍く湿った、不快感だった。
(終末一家?そんな奴らと命を懸けて戦って何になんねん。僕は、僕の好きに生きる……何が終末や……真神の家の方が、よっぽど終わっとる)
――この時のサイの目には、まだ映っていなかった。
どちらの手も振り払って進んだその先に、終末という名の現実が、すぐそこまで迫っていることなど。
『お前、バカか?』
そう言った男は、他の"隊員"達とは違って、どこか――異様だった。
『なぁ、自分が俺達"家族"に喰われる側だって、いつ気づくんだ?』
穏やかな春風が頬を掠め、その一瞬の感触に、張り詰めていた表情がふと緩む。
サイは気持ちを切り替えるように前髪を掻き上げ、まっすぐに前を見据えた。
バッグの中の猫達は、今は静かに丸まっているようだ。
背中越しに伝わる温もりが、どんなものよりも自分の心を解いてくれるようで、サイはその感触を背に受けながら、ゆっくりと歩を進めていく。
もう彼に、立ち止まる理由はない。