9. ライラの帰宅
「そろそろ時間です。馬車を用意します」
ウォッチと一緒に音楽室を出ます。ジュリアンのことが気になり、ライラは振り返りました。一匹のネズミがこちらを見ていたので、うなずいてから扉をしめます。
用意された馬車に乗り館へと向かうあいだ、ライラの脳裏には四人の顔が浮かんできました。
カジは捕まっていないだろうか。乱闘、流血みたいな展開も勘弁してほしい。
ジュリアンは王宮から抜け出せただろうか。変身に失敗して音楽室から出られない可能性もある。
そういえばブレッドにはノヴァスの従兄弟だと言うのを忘れていた。今ごろ驚いているだろうな。
ロアはみんなと上手くやれているだろうか。ブレッドと喧嘩してないといいけど。
そして、わたしに四人の婚約者がいると聞いたら、四人はどんな反応をするだろうか。わたしの選択と決断に納得してくれるだろうか。
計画には四人全員の協力が必要です。誰一人かけても、この計画は成功しないでしょう。誰かがノーと言ったら?
それでもやるしかない。
そんなことを考えているうちに、馬車は館へと到着しました。ライラが下車するとすぐに、柔らかな髪を跳ねさせながらジュリアンが駆け寄ります。
「ライラ!」
「ジュリアン! よかった。ちゃんと変身できて」
「ありがとう、ライラ。愛してる」
恥ずかしそうに囁くと、ライラの手をとりました。
ライラは自分の心が温かなもので満たされるように感じましたが、意を決してジュリアンの手を離しました。
「ジュリアン、わたしも愛してる。でも今日は大事な話があるの。たぶん、あなたを傷つけることになると思う。わたしのことが嫌いになるかもしれない。でも、覚えておいて。わたしはあなたを愛してる。この言葉に嘘はないから」
「え? なんの話?」
「まだ話せない。四人揃ってからね」
玄関ポーチに待機していた執事がライラを出迎えます。
「お客様は娯楽室へお通ししました」
「ありがとう。それから人払いをお願いします。わたしが良いというまで、誰も娯楽室へ近づけないでください」
「かしこまりました」
玄関を開けます。
「よう」
ブレッドでした。待ちきれずに出て来てしまったようです。顔の前で手をひろげています。そこに思いきりパンと手を合わせました。ブレッドの手の硬い感触。ライラはこの挨拶が好きでした。
「手が、どうかしたか?」
「ううん。大きいなって思っただけ」
ブレッドは腕まくりしていた袖を慌てて直します。作業中に袖をまくるのも、ライラの前では直すのも、いつもの癖でした。腕の傷を見せたくないようです。
ライラはジュリアンに先に娯楽室へ行っているように言うと、あらためてブレッドに挨拶しました。
「ありがとう。来てくれて、本当に嬉しい」
「ああ、いいんだ。うん。にしてもすごい館だな。ライラがノヴァスの従兄弟だなんて、知らなかったよ」
ブレッドの感じている居心地の悪さが、ライラにはよくわかりました。それはライラ自身も感じていたものだったのです。
荘厳な王宮も、豪華な館も自分の居場所とは思えない。そんなライラを温かく迎えてくれるエイブリーのパン屋は、彼女にとってかけがえのない場所でした。
「ごめんなさい。知らせるのが遅れちゃって」
「いや、その、責めてるわけじゃないんだ。うん。ライラはライラだ。それで、話っていうのは?」
ライラの覚悟はもう決まっています。
「そのことなんだけど、四人全員が集まってから話したい。できれば感情的にならずに聞いて欲しいと思ってる」
「そいつは、難しい注文だな」
ブレッドはポリポリと頭をかきました。感情的になるのは得意でしたが、逆は苦手なのです。
「ブレッドは裏切られたと思うかもしれない。でも、わたしが戦う決断をしたのは、あなたが勇気をくれたから。感謝してる。それは忘れないでほしい」
「よくわからんが、わかったよ」
ライラはブレッドからの信頼を嬉しく思いました。
「娯楽室で話しましょう」
ブレッドと一緒に娯楽室へ向かい、扉を開けます。
中にいたのは、ロアだけでした。
「おかえり、ライラ」
「ごめんなさい、その前にもうひとりは?」
「もうひとり?」
ロアが不思議そうな顔をします。
カジが来ていない。ライラは焦りました。
「3人はここで待っていて、少し探してくる」
ライラが来た道を引き返そうとすると、その進路をメイドが塞ぎました。そしてライラの鼻先に、紅茶のカップを突きつけます。
「ライラ様、ひとまずこれを飲んで落ちついてください」
そう言ったメイドの顔は、どこかで見覚えのある顔でした。大きな切れ長の目。小さくとがった顎と鼻。艶のある黒い髪。べラムール国では珍しい外見です。
「オレだ」
メイドが囁きます。
ライラは驚愕に目を見開きました。なんと、メイドの正体は女装したカジだったのです。ライラが「カジ!」と叫びそうになるのを、カジが手で制止します。
「騒がれると面倒だ。ここではキャシーで通ってる」
「キャシー?」
「カジと名乗ったつもりだったが、そう聞こえるらしい」
東洋人だからでしょうか、カジはどこから見ても女性そのものでした。女性にしては長身で筋肉質ですが、それでもなお女性にしか見えません。
「ともかく無事で良かった。言いたいことはたくさんあるけど、また後で話しましょう」
女性のキャシーのまま婚約者だと紹介するか、盗賊カジーだと正体を明かしてから婚約者だと紹介するか、どちらも大差ないような気がして、ライラは考えるのをやめました
そして最後に、ロアのもとに向かいます。
「ロア。来てくれてありがとう。私服も素敵ね。そうやってわたしのために努力してくれて、いつも感謝してる」
「ボクの方こそ、いつも元気をもらってる。ライラのような素敵な人と一緒になれて、本当に幸せだよ」
ロアはいつものロアでした。こんなセリフを真顔で言えて、変な下心を感じさせないのはロアだけです。
ライラはロアの言葉に喜びを感じていましたが、それを受け入れられないというふうに首を横にふりました。
「いつも自分勝手でごめんなさい。あなたはずっと優しかった。あなたに不満があるわけじゃないの。わたしは最初から、ずっと幸せだった。でもこれ以上、あなたに迷惑はかけられない」
「ライラ? どうしたんだ?」
ライラはロアの問いには答えず、四人に向かってこう言いました。
「今から大事な話をするから、よく聞いて。四人全員に話したいことなの」
四人の視線がライラに集まります。