2. 一人目の婚約者ロア
ここはベラムール王宮の近くにある大邸宅。国母アンネリーゼが私邸として建てたものですが、彼女は王宮で暮らしています。この広大な邸宅には姪のライラがひとりで暮らしていました。
館の前に豪華な馬車が止まります。長い手足の青年が降り立ちました。青年は正門をくぐると、館の玄関に向かって長い道のりを歩きだします。ライラと結婚すれば、絶対的な権力者であるアンネリーゼに近づくことができるのです。
館の玄関へと続く道は、優雅なアーチが連なる回廊に沿っています。回廊からは噴水のある庭園を眺めることができますが、青年が注目したのは池の周りに植えられた草木でした。人工物と自然の調和。そして回廊に響く水音まで計算されています。この庭をデザインしたのはアンネリーゼでした。この洗練された優雅な景色こそ、アンネリーゼ様が理想とするベラムール国の姿なのではないか。そんなことを考えます。
この青年は頭の回転が早すぎるようで、何事も不必要に深読みする癖がありました。
青年が玄関ポーチに到着します。扉と比較すると、彼がかなりの長身なのがわかりました。
玄関をノックする前に、衣服を最終確認します。ダークブラウンの革靴。すっきりとしたシルエットのウールのスラックス。淡いブルーのドレスシャツ。襟も綺麗に整えてあります。ダークグレーのブレザー。生地はツイードです。もちろん花束を用意するのも忘れてはいません。
カジュアルなテイストの衣服に見えますが、まったくそうではありません。すべてこの日のために仕立てたもので、仕立て屋は「カジュアル」という単語でノイローゼになるほど厳密な正解を要求されていました。
いつもは固めているミディアムレングスのややウェービーな髪は、今日はナチュラルなセットにしています。もちろんナチュラルに見えるだけの芸術的な造形物です。オンとオフの切り替えを強調することで、意外性を演出しているのです。
髪型が変わると顔のイメージも少し違って見えます。ポジティブな印象を与える堀の深いはっきりとした顔立ち。伏目がちな優しい瞳。独特の存在感がある大きな瞼は「ハードカバーの表紙みたい」と言われたことがあります。いつもより頼りなく見えますが、外交的で優しく感じられるはずです。
青年は瞼をパタンと閉じると、深呼吸してリラックスします。問題は無さそうです。青年は今日の訪問について多くの書物を読み込みリサーチを行っていました。ライラとの婚約は絶対に失敗できません。そのために、あらゆる準備を行ってきたのです。
パラリと瞼を開けると、ドアノッカーのリングを掴んでコンコンと叩きました。
「はい、ただいま」
扉を開けた執事は、青年の顔を見て驚愕しました。
青年の訪問は完璧なはずでしたが、いきなり雲行きが怪しくなってきました。執事を驚かせてしまった、その理由はいたってシンプルでした。彼が家の門を叩いたのは、約束より3時間も前だったのです。
「なんと、なんとロア様でしたか。いや困りました。どういたしましょう…… まだ3時間も前でして、お茶をお出しする準備もできておりません……」
執事がそのことを指摘すると、青年はこう答えました。
「お気づかいなく。紳士たるものご婦人をお待たせするようなことはあってはならない。この情報は複数の書物に存在しており、信頼性の高いものだと思います。加えて男性を長時間待たせることで女性の格が上がるという説もあります。ライラに恥をかかせるわけにはいかないので、暇つぶしの本も持参しました」
この過剰に知性的な青年が、ライラのひとり目の婚約者。名前はローリン・アシュトン。
国一番の秀才で、王宮の図書室に保管されている書物のほとんどを暗記しています。その圧倒的な知識量で、この若さでベラムール国の宰相という地位に上りつめました。
親しい者は彼のことを「ロア」と呼んでいます。ロアというのは「知識」「伝承」「学問」などの意味で、彼の愛称にぴったりの言葉でした。
ロアはライラに複数の婚約者がいることをまだ知りません。本に書いてあることならなんでも知っていましたが、ライラの秘密を記した書物はどこにも存在しませんでした。