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FlyUp!  作者: 紅月赤哉
FirstGame
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第001話

 足が、腕が、身体が重かった。

 動き続けること、立っていることさえも困難になる。

 熱さに流れる汗が細めた目の横を過ぎてかすかに瞳に入っても、相沢武はシャトルを追うことを止めなかった。試合を捨てるなどとは考えない。考えられない。体力が底を尽きかけているために、身体を動かす事にしか使えない。思考力はゼロに近かった。

 歪む視界の中、水の中のような空気をかきわけて武は必至に前へと進み出た。ラケットをコートに落ちようとしているシャトルへと思い切り伸ばす。

 しかしラケットは届くことなく、その前をシャトルは通り過ぎていた。


「フィフティーンシックス(15対6)! マッチウォンバイ、南原」


 審判がカウントと勝者を告げて、試合は終了した。武は右足を曲げ、低くした体勢からゆっくりと身体を元に戻す。霞む目を一度ぬぐい、相手と握手をしてからコートの外に出る。足取りは気分のせいだけではなく重い。試合の緊張が切れたことで疲労が一気に噴出したのだ。


「お疲れ様」


 少し上を見ると近くにある客席。そこから、一人の女の子が武へと声をかける。ショートカットのふんわりとした髪。健闘を喜びながらも、武を見つめる瞳にはいつもの柔らかいものとは違って悲しげな色があった。どこまで元気付けていいのか分からない気持ちが現れている。

 揺れを読み取って、武は少しだけ気分が軽くなった。残念な結果になっても、自分を褒めてくれる人がいるというのは嬉しかったから。


「ありがと、由奈」


 タオルで汗まみれの顔を拭いてから、武はバドミントンを始めてから六年間続けてきたやりとりを幼馴染と交わした。汗に濡れたユニフォームの上にジャージを着て、ラケットを入れたバッグを上にいる由奈へと渡してから自分は敗者審判をするために体育館に設営されている運営本部へと向かう。


(お疲れ様、俺)


 六年間の集大成は一回戦で終わった。とうとう、公式戦で一勝も出来ないままに。

 審判をするためのスコアボードをもらい、自分が負けたコートで次に行われる試合の審判をする。試合に出るようになったのは小学校四年の頃だったが、それからずっと同じ事を繰り返してきた。

 幼馴染とのやり取りとは、違った思いが生まれていた。


(悔しい……悔しすぎるな)


 これまでも何度も負けてきた。しかし、今ほど悔しさという感情を強く感じたことはない。どこかで自分の練習量が少なかったと思っていたのかもしれない。今までは一ゲームも取れないまま終わっていたから簡単に諦められたのかもしれない。

 だが、今回は一ゲームを取ったのだ。負けたとしても一矢は報いた。

 それは、武が成長している証だった。


(今度こそ、強くなりたい)


 はっきりとした強い思いが、生まれた瞬間だった。



 * * * * *



 武は目を開けたところで、ようやく自分が少しだけ泣いていることに気づいた。涙の量はそれほど多くはない。寝ていたことで耳のほうへと涙が流れていたがすでに乾いていた。軽く左手で両目を拭き、布団をまくって起き上がる。

 昨夜閉め忘れたことで、窓から春の陽光が差し込んできていた。光は布団を被っている胴体を照らしていて、あと十分ほど経てば顔にかかっていただろう。


「あの時の夢をみるなんてなぁ……」


 武は軽く頭を振って、残っているぼんやりとした感覚を取り払った。水色のシンプルなパジャマを脱いでシャツを着る。着替えるのがめんどくさいので、制服の下とシャツだけ着るとワイシャツと制服の上は手に持って階下へ降りた。居間のソファにそれらを置き、食卓につく。


「おはよ」

「おはようー。そして行って来ます」


 武の挨拶に片手を上げて答えてから、双子の妹である相沢若葉は食卓を立った。黒髪でナチュラルボブの下にある顔は双子だけに似ているのだが、中学生になり女性らしさが出てくるとやはり違って見える。小六の時に何人かに告白されていたのを武は知っていたが、妹に惹かれる男の気持ちが少しだけ分かる気がした。

 出て行こうとする妹を心から感心する。今年の春から同じく中学一年であるのに登校時間が全く違うのだった。


「相変わらず早いな」

「武がのんびりなんだよ」


 時刻は七時四十分を過ぎていた。武の家から中学までは三十分ほどかかる。始業式から二週間経ったところで、すでに武は朝のホームルームぎりぎりに着き、若葉は常に五分前には席に着いていた。そのこともあってか、若葉はクラス長まで務めるほどになり、武は一介の生徒に過ぎない。


「そう言えば、今日から部活届提出始まるんでしょ? やっぱりバドミントン?」

「もちろんだろ。若葉も」

「私はどうしようかなーって思ってるんだ。小学校の時も芽が出なかったし」


 ははっ、と軽く笑って若葉は居間を出て行った。玄関のドアが開かれる音を聞きつつ、武もパンを頬張る。教師である両親はすでに自分の学校――父親は武と若葉の中学の英語教師だが――へと向かっていた。話す相手もいないために黙々と食べている。頭の中は今朝の夢を追っていた。


(小学校での最後の試合のこと……やっぱり引きずってるのかな)


 中学ではバドミントン部に入ると、その試合の後には決めていた。小学校最後の時間を過ごす中で、苦い思い出は消えていったはずだった。

 それでも、かすかな胸の痛みを伴って入部できる日に甦る。


「芽が出ないからって、やっちゃいけないことはない」


 パンを飲み込んでから自分の言い聞かせて、武は食事を片付ける。そこに、チャイムの音が飛び込んできた。


「武ー。早くしないと遅れるよ」


 武は口元に軽く笑みを浮かべてから、皿をささっと洗って玄関へと顔を出した。そこにはショートカットの瑞々しい黒髪を持つ少女が真新しい制服に身を包んで立っている。ずっと昔から共にいる幼馴染。ついこの間まで小学生だったにも関わらず制服に身を包むとずっと大人びて見え、武は思わずどきりとした。


「まだ、顔、洗ってないから上がって待ってる?」

「ん? ここでいいよ」


 いつものことなのか、少女はにこりと笑うと背中を向けて玄関へと座った。スカートを広がらないように抱えるような形になる。


「由奈。もう少し待って」

「分かったー」


 少女――川崎由奈の返答を聞いてから早足で洗面所に向かう。内心の動揺を気づかれなかったかどうかと武は不安だった。


(まさか、俺だけしかいないから入るの止めたとか……は考えすぎか)


 小さい時からずっと一緒に遊んできた仲なのに、中学生になったとたんに男女を意識するとは思えなかった。ドラマや漫画の見過ぎかもしれないと自分を小突きつつ、洗面を終えて鏡を見る。

 スポーツ刈りのさっぱりした頭に少し切れ長の目。一月前の自分と同じであり、少しだけ違う顔がそこにある。

 勢いをつけるために両手で頬を叩くと、武は玄関へと急いだ。


「今日から部活届出せるみたいだけど、やっぱバド?」


 平走する自転車から尋ねてくる由奈。妹と同じ事を聞く、と武は思いながらもそれについては言わない。尋ねられるのを半ば予想していたし、答えるものは決まっていたから。


「ん。バドにする……」


 しかし、用意していた答えは歯切れが悪く後方に流れていく。自分でもその理由が分からない。そのまま答えずにいると由奈は少しだけ話題を変えた。


「私は入ろうと思うけど。あと早さんと橋本も入るって言ってたな」

「早坂はあれだけ強いから入るのは当たり前だよな……橋本も、好きだしな」


 武は同じ町内会でバドミントンをしていた二人の名前を呟きながら思う。

 自分が何故悩んでいるのか。

 それは今朝の若葉の言葉に起因しているのだと気づく。


「無駄じゃないんだろうけど、やっぱり勝てないのはつまらないし、辛い」

「……そうだね」


 由奈はそこから言葉を紡がなかった。六年間の努力が実らなかった二人は無言で自転車をこいでいく。

 武の脳裏に浮かぶのは、早坂由紀子のことだった。同じ町内会でバドミントンで汗を流した仲間の一人であり、自分達の代の女子では最も強い女。同じ練習をしているはずなのに、小学校の初めから終わりまでとうとう勝つことは出来なかった。

 首の後ろでしばった由紀子の髪の毛が動きにあわせて馬の尻尾のように揺れる。その流れは武から見れば優雅であり、格好良かった。

 あそこまで強いのならば、おそらく部活に入ることを迷いはしまい。


「おー。おはよう!」

「おはよー、橋本」


 思考の外から飛び込んできた声。そして、由奈との間に割り込んでくる自転車。スポーツ刈りの武とは違って長髪に眼鏡の男が二人へと笑いかけた。


「今日から部活届出せるよなー。やっぱり二人もバド部だろ!」

(本当、同じことばかり聞いてくるな)


 苛立ちを隠せずに、武は自転車のペダルを強く踏み込んだ。二人に先行する形になり、そのまま速度を上げていく。由奈も橋本と呼ばれた男も意外そうに武の背中を見ていたが、追いかけはしなかった。

 追いかけてこない二人に武はほっとしつつも、少しだけ寂しかった。


(やっぱり、結果が出ないのが怖い。それに、ついていける自信がない)


 素直な気持ちが、噴出した。



 * * * * *



 中学校の授業というものに少しずつ慣れ始めていたのだとしても、武にとって今日の授業の進度は速かった。それは集中していたというよりも、あまりに思考が別の方向へと向いていたからで、何度となく教師に注意されていた。


「散々だったね」

「んー」


 由奈は口元に手を当てて笑いを抑えようとしていたが、逆効果だった。同じクラスに加えて一つ後ろの席にいる由奈は注意される様を最も近い位置で見続けてきたのだから、慰めようにもくすくすと笑っていた由奈には説得力もない。

 武は視線を一度向けてから前に戻す。由奈はさすがに不安になって武の顔を覗き込もうとしたが、共に歩いているためによく見えない。しかし彼は由奈に対して怒っているわけではなかった。頭はこれから先のことで一杯だったのだ。


「由奈、これから部活届けだすのか?」

「うん。もう出すけど、武は?」

「俺は……見学してくるよ」


 武の言葉に何かを感じ取ったのか、由奈は頷くと離れていった。届け自体は部活の顧問である教師に渡すことになっているから目的地は一緒である。だが、武は共にいてほしくないという気配を出していた。由奈はそれを感じ取り、一度寄り道をして向かうことにしたのだ。


(ありがと、由奈)


 その由奈の心配りに感謝しつつ、武は体育館に小走りで向かう。自分の中にある、部活でやっていけるのかという不安。どちらの結果が出ようとも、はっきりと自分の中で形にしたかった。その思いが、彼の足を速める。

 玄関を抜けたところにある体育館の引き戸にたどり着き、深呼吸をしてからゆっくりとスライドさせる。

 目に飛びこんできたのは、シャトルを追いかける男の後姿だった。


(う、わ……)


 左奥へと深く飛ばされたシャトルの真下に流れるように移動し、お返しと言わんばかりに相手コートの右奥へと返す。対角線に打ち返すことは真っ直ぐに返すことよりも飛距離を要し、そのためにはパワーが必要だ。移動終了とショットを打つまでの間にタイムラグはなく、それでも力を十分に伝達できている証拠だった。


(上手い……)


 相手も武に背中を向けた選手と同じように、軽快なフットワークで真下につけると、今度はスマッシュでシャトルをコートへ突き刺してくる。だが、中心に戻っていた選手は簡単に打ち込まれたシャトルをネット際へと運んだ。


「あれはお前と同じ一年だぞ」

「えっ!?」


 隣から聞こえてきた言葉に、武は思わず大きく声を出していた。


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