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夕暮れの道

「結愛……無事であってくれ……」


 倒れた結愛を急遽、診てもらうためにシャルロットに診療所がある星へ案内してもらった。

 移動中も結愛は命に別状はないが、意識は戻らないままだ。

 ガブリエルも事態の深刻さを汲み取って、いつもより急いで向かってくれている。


「きっと大丈夫よ。この世界に来てからというもの、新しくて刺激的な日々を送ってきたから、その疲れが今になって体に表れただけよ」

「それだけならいいんだけど……。おれ約束したんだ。結愛を守るって。だから結愛の身に危険がないと分かるまでは、油断できないよ」


 そう言ってシャルロットのほうを見ると、彼女は横目で結愛の顔を覗いていた。

 言葉では楽観的だが、ちゃんと心配もしてくれているようだ。

 彼女は普段あかるく振る舞っているが、根は弟を心配するような真面目で優しい性格だったな。


「レオのこと置いてきちゃったの悪いよな。後でお礼を言わないと」


 そう、実はまだレオは前の星に残ったままだ。

 崩壊して残りわずかとなったケーキの大地に一人で、シャルロットが迎えに来るのを待っている。

 なぜそうなったのか、これには理由があった。


 ガブリエルには最大三人しか乗れない。

 それに加えて同じワームホールに二組はいると、事故の元となり危険だからやってはいけない。

 そうなると案内役のシャルロットは俺たちと一緒でなければならないから、結果的に役目のないレオを置いていくしかなかったのだ。

 ごめん、レオ。


「レオなら大丈夫よ。我慢強いし、幸一君のことを傷つけた罰が必要よ。少しは痛い目にあわなきゃね」


 ……彼女は優しい性格だ。



 ♢ ◇ ♢ ◇ ♢ ◇ ♢ ◇ ♢ ◇ ♢ ◇ ♢



「もうすぐよ」


 出口が奥のほうに見えてきた。

 再度、結愛の様子を確かめてみるが特に変わったところはない。

 俺は彼女がこのまま目を覚さないような気がして、とても怖かった。


 しかし、恐れていても仕方ない。

 俺は結愛を守る、ただそれだけだ。


「目的地の星のこと、シャルロットは詳しいの?」

「まあね。お姉さんが魔法少女になって初めて行った星なのよ。のどかで、人も親切で、虫の鳴き声が風流な場所なの」


 話を聞く限り、平和で敵もいないようだから安心した。

 一つ気になるのは虫の存在だ。

 結愛が目を開けた時に、カメムシが飛んでこなければいいが……。


「お姉さんその星が気に入っちゃって。だから地元の星でも都会じゃなくて、自然の多い外れた所で暮らすことにしたの」


 シャルロットが家族で住んでいたマンションではなく、おしゃれな一軒家で暮らしていたのにはそんな理由があったのか。

 彼女が元々くらしていた世界はテクノロジーが発達していたから、その反動で緑を感じられる田舎に身を置きたくなったのかもしれない。


 ……話している内に、次の星はもう間近に迫っていた。

 視界が光で覆われて一瞬、目が眩んだ。

 そして目蓋を開けると、そこには穏やかで優しい情景が広がっていた。


「ここが、シャルロットのお気に入りの場所……」

「ええ。いつ来ても癒やされるわ」


 縦に長い茅でできた屋根の民家に、苗が綺麗に並べられた田んぼ。

 奥では快晴の空の下に、なだらかで緑豊かな山が村を覆っていた。




 ♢ ♢ ♢ 雛星 ♢ ♢ ♢




 その居心地の良さに浸りたくなるが、今は結愛の命が最優先だ。

 ガブリエルに礼を言うと、俺は結愛を背中におぶって診療所へ走るシャルロットについて行った。

 すぐにその建物が見えてきて、俺たちは中へと入る。


 シャルロットが受付に事情を説明すると、特別にすぐ診察を受けさせてもらえることになった。

 診察室に入ると、椅子に座っていた成人男性の医者が立ち上がる。


 医者の指示を受けて結愛をベッドに寝かせると、彼は結愛の体の上に手をかざした。

 魔法を使っているのか手のひらからは光が差していて、それを体の全体に当てている。

 何回か往復させると、医者は深刻な顔をして言った。


「彼女の体内から、強大な魔法がかけられた粒子を確認できました。恐らくこれが原因でしょう。この粒子が何なのかさえ分かれば治療法を導き出せるのですが、心当たりはありますか?」


 粒子……難しいことは俺には分からない。

 しかし哲学者でもあったシャルロットは、前の星でそれらしい物があったことを見逃さなかった。


「それって、砂時計に入っていた砂じゃないかしら! 容器が割れた後、落ちてきたからそれを飲み込んでしまったんだと思う」


 それを聞いて、医者の表情の深刻さが増した。

 とても嫌な予感がする。


「砂時計に入っていたということは、その砂は星を消し去る程の強大な魔法がかかった、非常に危険な物質です。早急に彼女から摘出する必要があります」

「マジかよ……。お願いだ、結愛からそれを取り出してくれ」


 今度は医者の顔つきが難しいものになった。

 なぜそんな顔をする……?

 嫌な予感は俺の体中を蝕んだ。


「まさか、結愛はもう助からないのか……?」

「いえ、そんなことはありません。ただ、私の手には負えないんです。なぜなら彼女を治すには、ここにはないある物が必要だからです」

「必要な物? それは何だ?」

「勾玉です。それを飲み込むと、体内にある魔法を全て吸い取ってくれるんです。ただ、勾玉がどこにあるのかは分かりません」


 それじゃあ、結愛はそれが見つかるまで治療することができないってことか?

 ありかが分からないってことは、いつ見つかるかも分からないってことか?

 飲ませるまでのあいだ結愛は、無事を保てるのか……?


「勾玉のことを知っている人はいないの? 何でもいいから手がかりが欲しいわ」


 シャルロットは苛立ち気味で聞いた。

 俺も答えに耳を傾ける。


「神社にいる巫女さんなら、何か知っているかもしれません。祭祀に用いられていた物らしいですから」

「分かったわ、ありがとう。行くわよ、幸一君!!」


 シャルロットは俺の手を掴んで、急いで外に出る。

 そして彼女がワームホールを作って通り抜けると、そこには神社があった。


 しめ縄がぶら下がった鳥居の奥に階段があり、そこを上ると拝殿があるようだ。

 俺たちは木々に囲まれた拝殿へ向かう。


 するとその前に、ほうきで掃いている巫女の女の子がいた。

 早速、話しかけることにする。


「ごめん。ちょっと聞きたいことがあるんだけど、いいかな?」

「何ですか?」


 警戒される様子もなく、笑顔で接してもらえた。

 単刀直入に必要なことだけを聞くことにする。


「勾玉っていう物を探してるんだけど、どこにあるか知らないか?」

「勾玉って曲がっていて穴が空いてる玉のことですか? それなら近所のお姉さんが持ってましたよ」

「本当か!? その人はどこにいるんだ?」


 女の子によると、この村の中でも格別に大きい民家にその女性が住んでいるらしい。

 その場所はシャルロットも知っているらしく、ワームホールで移動できるようだ。

 俺たちは女の子にお礼を伝えると、その民家へ駆けつけた。


 インターホンがないから、戸を叩いて誰かが出迎えるのを待つ。

 すると引き戸を開いたのは、さっきの女の子より少し年上の少女だった。


「どなたでしょうか? うちに何の用でしょう?」

「どなた? えっと……」

「観光に来た者よ。勾玉を探してるんだけど、持ってないかしら?」


 言葉に詰まる俺を制して、シャルロットが話を進めてくれた。

 少女はその問いを聞いて「何で知ってるの!?」とでも言いたげな顔をする。

 そりゃあ、会ったこともない観光客が所持品のことを知っていたら驚くだろう。


「ごめんなさいね。神社の子に聞いたら、あなたが持ってるって言ってたの」

「そ、そうなんですか。内緒って言っておいたのに……」


 少女は何やらブツブツと小言を言っている。

 付き合う暇はないので、答えを急かす。


「それで、持っているのか?」

「いや、実はあれお供物でさ。それを盗んだことが婆っちゃにバレちゃったんですよ。だから今は墓石に置いてあるはずですよ」

「墓の供物をよく盗めたな」


 少女は高笑いを上げて悪事をごまかす。

 それはさておき、彼女に墓地の大まかな方角と勾玉の供えられた墓石を教えてもらうことができた。

 日も暮れてきたから急ごうとすると、シャルロットが話しかけてくる。


「ごめんなさいね。お姉さんは墓地の場所を知らないし、ワームホールはちゃんとした位置が分からないと作ることができないの。この先は足を使って移動するしかないわ」

「そうなのか。それならシャルロットはレオを迎えに行きなよ」

「えっ。でも結愛ちゃんが心配だし、お姉さんも力になりたいわ」

「勾玉の場所は分かったから、俺一人でも大丈夫だよ。それに心配なのはレオも一緒じゃないか。そして彼を迎えに行くのは君の役目だ」


 シャルロットは少しの間、悩む素振りを見せてから口を開いた。


「分かったわ。結愛ちゃんのことは任せたわよ」

「ああ。結愛と約束したからな。絶対に守るよ」


 シャルロットは互いの望みが叶うことを神に願うように、天にお祈りを捧げる。

 終えると俺に微笑みかけてから振り向き、ワームホールを作ってレオの元へと向かった。


 ……結愛、持ち堪えてくれ。

 すぐに俺が助けに行くからな。


「んっ?」


 何だろう?

 背後から視線を感じて振り返るが、特に誰もいない。

 気のせいだろうか?



 ♢ ◇ ♢ ◇ ♢ ◇ ♢ ◇ ♢ ◇ ♢ ◇ ♢



 墓地へ辿り着いた。


 いつしかこの村にはひぐらしの鳴き声が響き渡っている。

 夕焼けに照らされた墓石たちは不気味だが、どこかおもむきがあった。

 そう思えるのは、俺がこの場所とは無縁の人生を送ってきたからだろう。


 当然、墓石に仲間や家族の名前が彫られることはあって欲しくない。

 とりわけ結愛の名前は絶対に見たくない。

 だから俺は必死で目当ての墓を探した。


 その墓に刻まれた姓は雛らしい。

 等間隔に並んでいる石を、駆けながら目配りをして確かめる。

 雛はどこだ……雛はどこだ……。


 すると複雑な漢字が一文字だけ彫られている墓石があった。

 立ち止まって読んでみると、そこには「雛」と刻まれている。


「これだ!」


 墓の前に来て供物台を見てみると、純白の勾玉が供えられていた。

 それを指で挟み取って、瞳の近くに持っていく。

 これを飲み込めば、結愛は助かるのか。


 俺は勾玉を手のひらに乗せた。

 そしてなぜか今更なことを考えてしまう。


 これで本当に結愛は目を覚ますのか?

 持ち去ることで泥棒になってしまうのではないか?

 まだ結愛は持ち堪えているのか?


 ……そんなことを気にしてもしょうがない。

 これで助かると信じるしかないし、結愛の命を守るためなら窃盗も止むを得ない。


 何より結愛の安否を疑ってどうする?

 盗んで、結愛の元へ持っていくしかないんだ。


 決意を固めた、その時だった。


 勾玉を乗せた俺の手のひらに、黒くて大きい手が覆い被さる。

 そしてその手は勾玉を握り締めると、俺の手の上から離れた。

 何が起きたのか分からず、その手が伸びてきたほうへ視線をゆっくりと向ける。


 するとそこには見上げなければ顔が視界に入らない程に背が高く、剣の刃が刺さるか疑問を持つくらいの筋肉質な体をしているミノタウロスが立っていた。

 凶悪な目つきと前方に尖った角を持った雄牛の顔は、自分には到底かなわない化け物だと思い知らせてくれる。


 俺が何をしたっていうんだ?

 もしかして、勾玉を盗んだ罰か?

 俺はこのモンスターに襲われて、絶命するのか?


 神よ。

 此処が俺の短い人生の結末なのか?


 思い浮かぶ問いをひたすら何者かへぶつける。

 当然、答えは返ってこない。


 ……それなら、受け入れよう。

 この絶望的な現実を。


 俺は目の前にある光景を、背けることなく見つめた。

 するとどうだろう。

 そこには予想外の場面があった。


 ミノタウロスは俺に危害を加えることもなく、墓地の外にある森林の中へと逃げていったのだ。

 俺は一瞬だけ安堵したが、すぐに勾玉がないと結愛が守れないことを思い出した。

 取り返すために俺は森林の中へと入り、ミノタウロスを全力で追いかける。


 奴と俺の走る速さは互角だった。

 森林の中には一本道があり、その先へ奴は逃げている。


 逃す訳にはいかない。

 結愛の命がかかっているんだ。

 絶対に取り返す。


 俺はひぐらしの声が交わる夕暮れの道を、走り続けた。

 その途中で、なぜか死に際でもないのに走馬灯のように過去の記憶がよぎる。

 それは高校時代の思い出だ。



 ♢ ◇ ♢ ◇ ♢ ◇ ♢ ◇ ♢ ◇ ♢ ◇ ♢



 その頃の俺は最高に充実していた訳ではないが、少なからず友達がいて、学業も順調だった。

 不満も特になく、幸せな日々を送っていた。

 ごく普通の人生だったんだ。


 しかし、大学生活を始めてから事態は一変した。

 今までの友達とは通う学校が分かれ、会う機会もなくなり、次第に疎遠になった。

 勉強も高校とは違い自由になったから、進んで取り組むこともなくなり、単位も落としていった。

 俺は一気に落ちこぼれたんだ。


 笑顔も自信も失い、生きていく道が退屈な下り坂に成り果てた。

 そうなってからこう思うようになる。

 もう失敗して不幸になるのは嫌だと。


 しかし努力をするやる気すらなくなっていた俺は、楽に成功体験ができるものを求めた。

 それがゲームだ。


 ゲームの世界なら試行錯誤を繰り返せば、必ずハッピーエンドを迎えることができた。

 インターネットに繋げるゲームなら、顔を合わせずに共通の趣味を持った者同士として、仲間をつくることができた。

 欲しいものが手に入るゲームの世界には不足がないように見えた。


 しかし、その世界に入り浸っていると問題が発生してしまった。

 ゲームを続けている内にひきこもりになり、大学へ行かなくなってしまったのだ。

 当然、単位は取れず留年が決定した。


 親は事情を理解してくれていたから怒らなかったが、俺は内心かなり動揺していた。

 あの平凡だが明るかった高校時代はどこへいってしまったんだ。

 今や伸びきった髭面で、昼夜逆転の生活を続けている。


 その絶望から目を背けるために、俺はよりゲームをする時間を増やした。

 そしていつしか、より所のはずだったゲームをしている時すら笑わなくなっていた。

 留年をして劣等感を抱えた俺は、ゲーム内の仲間とすら距離を置いた。

 もう俺の幸せは、どこにもなくなっていた。


 その結果、俺は現実から逃げる癖がついた。

 親に勧められて精神科へ行くと、ゲーム依存症と診断されたが、俺はそれを治そうとしなかった。

 本当は友達と一緒にゲームをしたかったが、そんな本心も心の奥底にしまった。


 全ては現実から自分を守るためだ。

 実際は守るどころか、直視すらできていないのに。


 そんな生活を続けていると、俺の心は傷つくことを通り越して何も感じなくなっていた。

 笑顔という名の仮面を被って、無感情にゲームをする日々を送った。


 クリアしてはソフトを買いに行き、買ってきたゲームに集中する。

 それを何度も繰り返した。


 ある日、いつも通りソフトを買って家へ帰っていると、途中で通り魔に襲われた。

 抵抗できずに他界した俺は、この世界へと転生した。

 そしてドラゴンに捕まった結愛を見てこう思った。




『彼女を守りたい』って。




 それは久しく俺に湧き上がった感情だった。

 長いこと忘れていた、生きている証だ。


 俺は今までなぜこんなにも結愛を守りたいのか、理由が分からなかった。

 でも、今その理由の一つに気づくことができた。

 彼女には、とても大きな恩があるのだ。


 感情を失った俺に守りたいと、思わせてくれた。

 結愛を守ることが俺の喜びなのだと、教えてくれた。

 生きる意味を、与えてくれた。

 それがとてつもなく嬉しかったんだ。


 ありがとう、結愛。

 俺を絶望の淵から救ってくれて。


 この恩は必ず返す。

 君の命を守ることで。



 ♢ ◇ ♢ ◇ ♢ ◇ ♢ ◇ ♢ ◇ ♢ ◇ ♢



 過去の記憶から我に返った俺は、意識を逃げるミノタウロスに戻した。

 どれだけの時間、思い出に浸っていたのかは分からないが、結愛を助けるためにも急ごう。

 そのためには勾玉を取り返す必要があるが、奴と俺の走る速度が同等な以上は足を止めるしかない。


 俺は創造の魔法を使い、手のひらから数本のナイフをミノタウロスの足に目がけて放った。

 するとその何本かが刺さり、奴の走る速さが落ちる。

 しかし足が止まることはなく、刺し傷から流血させながら呼吸を荒くして走り続けた。


 再び創造の魔法を使い今度はロープを生み出すと、先に輪を作り端を持ちながらミノタウロスの角の付近へ投げる。

 輪は角に引っかかり締めつけられた。


 俺はそれを確認すると、握っているロープの端を全力で引っ張る。

 それに伴いミノタウロスの頭は仰け反り、そのまま勢いよく後方へ転倒した。


 その拍子に輪がかかっていたほうの角が折れて、血が流れ出す。

 さらに脳しんとうが起きたのか、奴は倒れたまま頭を片手で覆っている。


 勾玉はもう片方の手に握られているようだが、未だに握力が強く開くことができない。

 返すつもりがないなら……やるしかない。


 俺は仰向けに倒れたミノタウロスの腹を挟むように立ち、剣を鞘から抜き取った。

 そして剣の先を奴の胸に向けて、狙いを定める。


 定まると俺は、少しのあいだ鳴り響くひぐらしの声を静聴する。

 そして覚悟を決めると、俺は剣を奴の胸の中心へ下ろした。


 刃の先が胸に刺さる瞬間、誰かの乞う声が懇願する。

 誰だ?

 確かに聞こえた気がするが……気のせいだろうか?


 想像していたより柔らかいミノタウロスの胸は、容易に剣の刃を受け入れていた。

 心臓を外したのか息はまだ続いているが、そう長くはないだろう。

 俺は剣を奴から引き抜いた。


 刺し傷から鮮血が溢れている。

 付いた血を払って、剣を鞘に納めた。


 ミノタウロスの握り締めた手に近づく。

 握力の弱った指を開くと、中には勾玉があった。

 それを拾い上げて、俺が結愛のいる診療所へ戻ろうとした時。

 誰かの叫び声が森林に轟いた。


「優!!」


 振り返ると、道の向こうから女性が走ってきていることに気づく。

 優……人の名前か?


「優!! どこなの!?」


 優という人を捜しているようだ。

 協力したいところだが、今はこの勾玉を結愛の元へ急いで持っていかなければならない。

 心の中で謝罪して戻ろうとすると、異変が起きていることに気づいた。


 ミノタウロスの頭部から、黒い砂塵のようなものが漂って風に吹かれていたのだ。

 事態を把握できずに眺めていると、角から順に砂塵と化して輪郭が消え去っていった。

 そしてなくなった輪郭の内側にいたのは、人間だ。


「優!!」


 その男性を見た女性は、名前を叫んでから彼の元まで駆け寄った。

 屈んで膝を地面に突くと、彼の顔を覗いて呼びかける。


「優、この傷どうしたの!? 手当てしないと……」

「純、すまない……。勾玉を、手に入れることが、できなかった……」


 彼は今にも息絶えそうなか弱い声で、そう言った。


「そんなのどうでもいいよ!! 早く止血しないと……」

「純、僕はもう長くない……。だから……最後に一つだけ、お願いがしたいんだ……」


 彼女は涙を堪えながら頷いて、彼の願いを聞いた。


「僕の命が、事切れるまで、一緒にいて欲しいんだ……。側から、離れないで欲しい……」

「……そんな、やって当たり前のお願い……しないで……」


 その言葉を聞いた彼は、彼女へ優しく微笑んだ。

 手を彼女の頭に伸ばして、ゆっくりと撫でる。

 そして最後の言葉を、彼女へ告げた。


「純……君のことを、守れなくて、ごめん……」


 彼の手は、地面に落ちた。

 それを見て彼女は、彼が永眠したことを知る。


 堪えていた涙は、たがが外れるように溢れ出した。

 彼の名前を泣き叫びながら、彼女は動かない体を抱き締める。


 そこで俺は抱き締めている彼女の右腕が、暗紫色に変色し始めていることに気づいた。

 確証はないが、なぜそうなって、この後どうなるのかの予想はついてしまう。

 それを確かめずにはいられず、彼女の経過を見届けた。


 すると突如、紫の右腕から邪悪な影が広がり始める。

 次第にそれは人間の形に近づいていき、さらにある人物の外見へと変化していった。

 その姿はまさに、純と呼ばれていた彼女そのものだ。


 彼女の影は右手を鋭利な形に変形すると、それを彼女の胸に狙った。

 そして目にも留まらぬ速さで心臓を貫き、彼女の体が脱力するのを見て、即死したことが分かる。


 影は仕事を終えると、塵と化して地面に降り注いだ。

 最後に残ったのは、俺と屍とひぐらしの声だけだった。



 ♢ ◇ ♢ ◇ ♢ ◇ ♢ ◇ ♢ ◇ ♢ ◇ ♢



 目の前に二つの遺体があるのが信じられない。

 もっと信じられないのは二人は親しい仲で、彼は彼女を助けようとしていたのに、俺がそれを邪魔して命まで奪ってしまったことだ。

 犯してしまった罪の大きさに怯えて、手が震えている。


 俺はもう、立派な悪人だ。

 今ここで斬首されても文句は言えない。


 いっそのこと、ここで誰かから罰を受けたかった。

 それが今の俺を救える唯一の薬だったからだ。


 誰もやってくれないなら、血で染まった自分の手で……。

 俺は剣を抜き出し、刃を目前に立てて、呆然と眺めた。

 そして……。


「幸一君!!」


 不意に名前を呼ばれて、我に返る。

 振り向くとそこには、レオとシャルロットの姿があった。


「勾玉はどこ? 手に入れたの?」

「あ、ああ……。手に入れたよ。ほら」


 俺は握った指を広げて、奪い取った物を見せる。

 それを見て二人は喜んでいるようだった。


「よし、幸一。今すぐそれを彼女に飲ませるんだ」


 レオはシャルロットのほうを指差す。

 彼女の後ろを見てみると、背負われた結愛がいた。


 ここまで連れてきてくれたのか。

 一刻を争うこの状況下で、この行いはとてもありがたかった。


 シャルロットは道の真ん中に結愛を寝かせる。

 俺は結愛の口を開いて、持っている勾玉を入れて飲み込ませた。


 これで結愛は助かる。

 守ることができたんだ。


 俺は安心して緊張していた口元が緩み、自然と笑みがこぼれた。

 しかしレオの言葉で、俺の笑みは消え去る。


「おい、彼女の右腕……変だぞ」


 恐れていた最悪の事態が起きた。

 結愛の右腕も、刺された彼女と同じように変化したのだ。

 そして広がった影は結愛の姿へと変形し、右腕を尖らせた。


 俺は剣を抜いて影に目がけて駆け出し、全力でその黒い悪意を斬り裂く。

 しかし切れ目はすぐに塞がり、傷一つ与えられない。

 レオも攻撃してくれているが、同様に無駄な切れ目をつくっているだけだった。


「コイツ、斬っても斬っても意味がない。どうすればいいんだ!?」

「まずいわよ!! それ結愛のことを刺そうとしているわ!!」


 影は結愛の胸に、その鋭い右腕を向けていた。

 それだけは、止めてくれ……!!

 結愛を守れなかったら、俺は……。


「皆様、影から離れて下さい!!」


 その声の主はガブリエルだった。


「ガブリエル!!」


 彼は手を広げて影に狙いを定めると、強烈な閃光を放った。

 闇夜が近づいて周りは暗くなっているのに、ここだけ太陽が光を射しているようだ。


 眩しくて閉じた目を開いてみると、そこに影の姿はなかった。

 ガブリエルが魔法で奴を倒してくれたんだ。


 俺は結愛の元へ行き、容体が変わっていないかを確かめる。

 どうやら変化はなく、命に別条はない。


「無事で良かった……。ガブリエル。本当にありがとう」

「礼には及びません。ですが、予定より早く来て正解でした。まさか死の影が暴走していたとは……」

「死の影って、今の奴のことか?」

「はい。死の影は魔力のない方が、強大な魔法を取り込んでしまうことで現れます。そして影は右腕を尖らせたのち、宿主の命を奪おうとするのです」


 なぜそんなことをするのだろう?

 そもそも魔力や強大な魔法のことについてすら知らないから、分かる訳はないのだが。


 ひとまず、結愛が助かって本当に良かった。

 ガブリエルには感謝をしてもしきれない。


「ガブリエル。さっき結愛に勾玉を飲ませたんだけど、強大な魔法は体内から取り除かれたのか?」


 ガブリエルは医者のように、結愛の体の上に手をかざした。


「魔法の反応はありません。もう心配は必要ないと思われますが念のため、専門の方にも診てもらったほうがいいかもしれません」

「そうか……」


 俺がホッとした表情をすると、みんなも笑顔で喜んでくれる。

 一時はどうなることかと思っていたが、ちゃんとハッピーエンドにすることができた。

 これでもう、不安になることは何もない。


「ねえ。さっきから気になっていたんだけど、あそこに倒れてるのって人かしら?」


 心臓がドキンと跳ねる。

 そうだ、俺はまだあのことをみんなに話していなかった。

 二つの希望を奪い去った、あの悲劇を。

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― 新着の感想 ―
[一言] 現代人にはショッキングな事実ですね。 だけど、前にも言ったけど人間ってのは誰かの願いを踏みつけて今まで生きてきたんだ。 もう、止められはしないぜ。
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