ケッチ船【メロウ】
古代ローマ帝国の繁栄を支えたローマン・コンクリートの有用性に気付いたトーマスがその製法の情報をサミエラからダブルーン金貨100枚で買い、実際に詳しい説明を受けていた頃、改装後の試験航海を終えたケッチ船【メロウ】は縮帆しながら海軍埠頭に近づいていた。
「上横帆を残して残りの帆はすべて畳め! 商会旗がはっきり相手にも見えるようにな。ゆっくりと堂々と入港するぜ」
「「「イエッサー!」」」
舵輪を握るロッコに甲板のアボット、マスト上のショーゴとゴンノスケが応じる。
すでにミズンマストのスパンカー、メインマストとバウスプリットの間に張られたステイセイルは畳まれており、メインマストのスパンカーとトプスルだけで航行していたが、桟橋に接舷するにはまだ船足が速い。
メインスパンカーが畳まれ、トプスルの推力だけでノロノロと海軍埠頭の小型艦艇用の桟橋に近づいていく【メロウ】に対し、桟橋側から警務の海兵がマスケット銃を振って合図をし、メガホンで慣例通りの誰何の声を掛けてくる。
「おぅい! そこの船! 所属と船名を述べよ!」
「ゴールディ商会所属のメロウ号!」
「よろしい! 連絡は来ている! そのまま直進して水兵たちが待機している位置で停船されよ! ヨーソロー!」
海兵が指し示した方向に数人の水兵たちが待ち構えているのが分かる。
「トプスルから風を抜け! このまま惰性で停船するぜ!」
「イエッサー!」
最後までマスト上に残っていたゴンノスケがトプスルのロープを弛めて風を抜き、推力を失った【メロウ】はゆっくりと惰性だけで残りの距離を進んでついに停船する。駆け寄ってきた水兵たちが声を張り上げる。
「もやい綱を投げろー!」
アボットとショーゴが船の前後から投げた係留用のもやい綱を水兵たちが受け取って杭に手早く固定し、その間に【メロウ】は錨を下ろして停泊状態になる。
最初に誰何の声を掛けてきた海兵が桟橋を歩いてそばに来たのでロッコが話しかける。
「おーい! 俺たちはこの船をここに入れるようにとしか言われてねぇんだが、この先のこと何か聞いてるか?」
「いや、我々もここにゴールディ商会の船を停泊させるようにとしか指示は受けていない。上の者に到着したことを報告して次の指示を仰ぐからそのまま待機していてくれ」
「了解だぜ。皆、聞いての通りだ。しばらく嬢ちゃん待ちだから、それまで一服休憩してていいぜ……と言いたいところだがそうもいかねぇようだな」
ロッコはやり取りをしている海兵の向こうからこちらに駆け寄ってくる小柄な人影に気付いて皆への指示を取り止める。ロッコの目線の先を追った他の者たちもその意味を悟って苦笑する。
飛びそうになる帽子を手で押さえながら、興奮を抑えられない様子で顔を紅潮させながら全力で走ってくる少年。帽子は黒いラウンドハットのままだが、上着が士官候補生の青い丈の短いジャケットから海尉の青いロングコートに変わっている。これから海軍にリースされてクレブラ島の常駐艦となる【メロウ】の指揮官になるにあたり准尉に昇格したジョン・キャンベルだ。そのずいぶん後ろをまだ漁船ピンネースだった頃の【メロウ】の回航にも加わっていた中年の水兵が汗だくになって足をもつれさせながら必死に走って追いかけてくる。
「ショーゴ、水を一杯用意しておいてやりな」
「イエッサ」
ついに【メロウ】のそばにたどり着いたジョン・キャンベルは何度か深呼吸して呼吸を調え、ハンカチーフで顔に浮いた汗を拭い、姿勢を正し、精一杯の凛々しい顔を取り繕おうとするが、あまりにも今更であるしそもそも口元がにやけてしまっているので取り繕えてすらいない。
「ゴールディ商会所属の【メロウ】ですねっ! 准尉のジョン・キャンベルであります!」
「おー来たな、キャンベル准尉。新しい制服よく似合ってるぜ」
「ありがとうございますっ! 【メロウ】が入港してくるのが見えたのでつい来てしまいました。乗船していいですか?」
「……おい、キャンベル准尉、この船はまだ海軍に引き渡し前のゴールディ商会の船だ。君が指揮することが内定しているとはいえ、それは少し気が早いのではないか?」
警務の海兵がキャンベルをたしなめるのをロッコが笑いながら止める。
「まあそう固いことを言ってやるな。確かに本当はよくねえんだが、キャンベル准尉なら問題ないだろ。准尉にとっては初めての指揮艦だ。一刻も早く見たい気持ちは分かる。俺がそばに付いて見ておくからよ、あんたは上役に報告に行ってくれ」
「……む。了解した」
敬礼して去っていく海兵と入れ替わりで中年の水兵が駆け寄ってきて、両手を両膝についてゼェゼェと荒い呼吸を繰り返している。
「大丈夫か? ……水だ」
「す、すまねぇ……んぐ、んぐ……っぷっはぁ! はぁー! 生き返ったぜ」
中年の水兵はショーゴが手渡した水を一気に飲んでから姿勢を正す。
「見苦しいところをお見せしやした。あっしは【チェルシー】所属の熟練水兵のサイモンでさ。坊っちゃん……いやさキャンベル准尉の副官として今後とも世話になりまっさ! それよか坊っちゃ……准尉! いくら停泊中たぁ言え、艦長の許可も取らずに艦を離れるのはマズいですぜ!」
「……一応、非番ではあったんだけどマズかったかな?」
「ったりめえでしょう! 半舷休暇中ならともかく、今はあくまで乗艦勤務中の当直の非番ってだけじゃねえすか。艦を離れる時は艦長から一時下船許可を貰わねえと脱走扱いになって罰則食らっても知りやせんぜ!?」
とたんにキャンベルは顔面蒼白にして狼狽えだす。
「しまった! それはマズいな。サイモン、どうしよう」
「……おいおい。勤務中に黙って艦を抜けてきたのか。そいつはよくねえな」
さすがに呆れた様子のロッコと胸を張るサイモン。
「そんな准尉に艦長から伝言でさ! 「キャンベル、サイモン両名の一時下船を許可する。だが、今後は上に立つ者として物事の順序をよく考えて責任ある行動をするように!」だそうですぜ」
「……ぐう。まったくもってその通りだ。不甲斐ない上官でサイモンにはいつも迷惑をかけてすまなく思っている」
「はは。准尉はまだ若ぇからこれから失敗を糧にして立派な士官になればいいんでさ。あっしらみてえな頭は悪ぃが経験豊富な古参兵がしっかり支えますんで」
気まずそうにしているキャンベルにサイモンがひげ面をくしゃっとして笑い、太い腕で軽く背中を叩いて励ます。そんな二人に船からロッコが声を掛ける。
「准尉、いい副官に恵まれたじゃねえか。とにかく二人とも下船許可が下りてるってんなら問題ねえな。船を案内するから乗ってくんな」
「はいっ! じゃあさっそくお邪魔しますっ!」
そして乗り込んできた二人をロッコが案内し始めるのだった。
ほどなくしてトーマスとの打ち合わせを終えたサミエラたちが合流し、海軍側を代表してスループ艦【チェルシー】艦長ロバート・メイナード海尉の立ち会いのもと、ゴールディ商会所属のケッチ船【メロウ】は海軍にリースされ、ジョン・キャンベル准尉以下、【チェルシー】乗組員から選抜されたキャンベル分隊20名が正式に【メロウ】に所属を移した。今後1週間ほどかけて【メロウ】の武装と艤装の調整、操船の慣熟訓練を行ってから正式に任務に就くことになっている。実際に任務に就く際には白兵戦要員として要塞の警務隊から海兵が10名ずつ交代で乗り組むので合計30名がメロウ部隊としてクレブラ島および周辺のヴァージン諸島の哨戒任務に当たることになる。
諸々の手続きを終えて、サミエラたちゴールディ商会一行が、サミエラたちが来る時に乗ってきた馬車を使って要塞を後にしたのはすっかり日が西に傾いた夕方の4点鐘(18時)の頃だった。
御者台に座るアボットにサミエラが後ろから声を掛ける。
「あ、アボット、帰りに交易所と木材ギルドと大工組合に寄ってもらえる? メイナード提督から追加の融資を引き出せたから、これからは一気にクレブラ島開発を進められるわ。交易所のバール副所長と木材ギルド長、大工組合長と急いで打ち合わせしなきゃ」
「イエスマム。……しかし、追加の融資とは……いったい如何程?」
「ダブルーン金貨100枚ね」
「「「「……………………」」」」
サミエラに同行して事の経緯をすでに知っているアネッタとサザナミ以外の全員が絶句する。
「ちょ、ちょっと待て嬢ちゃん! ダブルーン金貨100枚だとっ!?」
さすがに聞き捨てならなかったロッコが慌てて割り込んでくる。
現在商会の財務を担当しているアボットも苦い顔をする。一般的な労働者の日雇い賃金は1ペソ銀貨1枚が相場であるが、ダブルーン金貨はそれ1枚で200ペソの価値があり、それが100枚となれば20000ペソもの大金となるので、貸してくれるからと気楽に借りてよいものではない。
「島の開拓に費用が必要なのは理解していますが、一度にこれほどの借り入れは多すぎませんか? 運用できない分の資金に発生する利息はただの無駄ですよ」
アボットの苦言に言葉が足りなかったことに気づいたサミエラが手を打つ。
「ああ、そういうこと。安心して? これは借り入れたのではなくて、ローマンコンクリートの製法を提督に開示してその情報料としていただいた報酬よ」
それを聞いてトーマスの人となりを知るロッコは色々と察して納得する。
「……あー、そういうことかい。確かに貝殻と火山灰と火山岩さえあれば要塞をいくらでも造れるとなりゃあ閣下なら喜んで金を出すだろうな。……ただ、それを加味しても20000ペソは多すぎるから、嬢ちゃんのクレブラ島開発を応援したいってご祝儀も多分に含まれてるだろうがな。とはいえ嬢ちゃん、閣下にあまり借りを作りすぎるのはよくねえぜ? あの方は……なかなか強かだぜ」
「分かってるわ。もちろん一方的に借りを作るんじゃなくてちゃんと提督にも相応以上のリターンはするつもりよ」
「おう。それはいい心掛けだと思うぜ」
「…………しかし、それにしてもダブルーン金貨100枚を少将閣下にポンと出させるとは、さすがですな、商会長。これで資金にだいぶ余裕ができましたので計画をかなり前倒しできると思います」
「そうね。近々、奴隷商人のパーシグさんが来られると思うから良さげな人材がいれば積極的に雇い入れるわよ。クレブラ島の島民たちだけでは全然人手が足りないし、そもそも島民たちは栄養失調がひどいからまず食事を改善して体力をつけさせなきゃだけど。……やることが山積みね! これから忙しくなるわよ! みんな、しっかりついてきてね!」
サミエラが馬車内に振り向いてそう宣言すれば、ショーゴが待ってましたとばかりに姿勢を正して胸に手を当てて朗々と口上を述べる。
「例えこの身が朽ち果てるとも!」
残りの若者たちも一糸乱れぬ動きで唱和する。
「「「「姫のためなら惜しくなしっ!」」」」
「…………まだやるの、それ」
ややゲンナリしたサミエラのつぶやきが虚しくこぼれ落ちていった。
~~~~
【その時、歴史を動かしたCh 考証解説Vol.35 パーソナリティー:Mulan&Nobuna】
Nobuna 「……お? なんじゃ視点が変わったの。……これは、試験航海が終わった【メロウ】が入港してくるところじゃの」
Mulan 「であるね。細かい商談を映し続けるより撮れ高と姉上が判断したのでござろう」
Nobuna 「全体を俯瞰して的確な所を映すセンスはやはりハイジの姉御がずば抜けておるの」
──おおー! メロウ号が動いてるー!
──ハイジ姐さん相変わらずいい仕事っぷり乙
──メロウ号なかなかカッコよくなったなー!
──ひいふうみい……え? たった4人で動かしてる?
──こんな少人数で性能テストになるんかね? 展帆にも縮帆にも時間かかるだろうし、タッキングとかできるんか?
──不慣れでも農園の奴隷を何人か手伝いに乗せればよかったのに
──まあ、商会で運用するわけじゃないし、重心とか舵の利きとか最低限のチェックでええんちゃう?
──実際に運用するのは海軍だからこの後で使いやすいように適当にカスタムするやろ
──帰りのことを考えてのこの人数もあるな。サミエラたちが要塞に来る時に乗ってきた荷馬車にこの人数ならギリ全員乗れるし
──それな! 歩きだと港湾を迂回して郊外のアレムケル農園まで10km以上はあるもんな
──……
Nobuna 「妾が解説するまでもなかったの。概ねその通りじゃ。加えて重い大砲を積んで武装したらまた重心バランスが変わるから、非武装の現時点での細かい性能テストにはあまり意味がないんじゃ。そのへんは海軍が適当に調整するじゃろ。実質的にドックからここまで回航してきただけじゃから4人でもなんとかなるというわけじゃな」
Mulan 「む。そう言っている間にまた別の桟橋に視点が……これは少し離れた場所にある沿岸警備艦用の桟橋でござるな。ズームされたこの停泊中の艦は……メイナード艦長の【チェルシー】でありますね」
Nobuna 「……どんどん拡大して、もう乗組員たちの顔まで判別できるが、姉御はいったいどこまで拡大するつもりじゃ……お、このフォーカスされた甲板におる少年は【メロウ】の指揮官になる予定のジョン・キャンベルじゃな。どうやら入港してきた【メロウ】に気づいたようじゃ。急にソワソワしだしたぞ」
Mulan 「ふふ。この初めて一部隊を任される高揚感は身に覚えがござるね」
Nobuna 「 なるほどの。姉御はこの表情を見せたかったんじゃな」
──はあぅっ! キャンベルきゅん可愛いわ!
──エモい! この表情が堪らないわっ!
──ヤバいおねーさんたちが涌いてるぅ……
──キャンベル君逃げてー! 超逃げてー!
──……おろ?
──おいおい。これはダメだろ
──おまいらがそういうこと言ってるからキャンベル君ホンマに逃げたで
──逃げたというか、持ち場を離れてメロウを見に行ったというか
──あまりの早業に誰も止める間もなかった。
──あ、キャンベルのお守り役のオッサンがメイナード艦長にペコペコ頭下げてから追いかけてったわ
──キャンベル君のこの後先考えずに突っ走る感じがゾクゾクするわぁ
──若さゆえの走りだなぁ……(  ̄- ̄)遠い目
──認めたくないものだな。若さゆえの過ちというものは
──……
更新が久しぶりすぎてとてもとてもごめんなさい。大丈夫。この通りまだエタっていませんし、楽しんで書いています。書きたいネタもまだまだたくさんありますが、如何せん忙しすぎてメインの連載作品だけでいっぱいいっぱいになっております。
次はここまでお待たせしないよう頑張ります。いいねボタンや感想コメント、★評価で応援いただけると嬉しいです。




