第三話「嫉妬も愛のスパイスに」(4)
不穏な空気を一気に掃う、鈴の音のような声が凛と響く。歩きながらやり取りをしていたために、リーファとグロウは校門の前まで到達していた。周囲に生徒が少ないのは、二人の登校時間が昨日より更に早まっているからに他ならない。
そんな『優等生』の時間帯に登校するのは、正しく優等生達で。校門の前で笑顔で二人を迎えたのは、今一番会いたくなかったギーラであった。慌てて隠すように手に持ったままであった小さな箱を、制服のブレザーの胸ポケットに突っ込んだ。不本意ながらもグロウからの贈り物を受け取る形になってしまったが、背に腹は代えられない。多分この箱をギーラに見咎められる方が、絶対に面倒なことになると確信している。
「……」
「……」
リーファも充分狼狽しているが、隣のグロウの方がそれは顕著だった。彼はギーラと面識があるのか、そのオレンジの瞳が不安気に揺れている。普段の彼の態度からは想像もつかない狼狽っぷりだ。問題児ばかりの赤組でリーダー格を務める男が、こんな可憐なお嬢さん一人に動揺を隠せないでいるのだ。
「リーファ、どうしたの?」
朝の挨拶が返ってこないことを心配してか、その愛らしい碧の瞳を揺らしながら、ギーラがリーファに問い掛けてくる。
「いや、なんでもないよ。おはよう、ギーラ」
なんとかこの場を誤魔化せないものかとどぎまぎするリーファに、ギーラは特に気にしてないように思える。まるでリーファの隣にいるグロウのことなど、目にも入らないかのようだ。
「リーファ、昨日素っ気なかったでしょ? 私、これを昨日渡したかったのに、渡しそびれちゃって……だから、はい。これは私からのプレゼント」
ギーラはそう言って、リーファの手に少し大きめの袋を渡して来た。先程手のひらの上に乗った箱より一回り大きい。肌触りの良い柔らかい布地のせいで、中身が判別出来ない。高級そうな手触りに、なんだか嫌な予感が過ぎった。
「昨日はごめん。ギーラ、これって?」
グロウの目を気にしてその場で開けられないリーファの問いに、ギーラは少しもったいぶってから「秘密。開けたらわかるわ」と小悪魔――いや、このタイミングだけは悪魔も悪魔。大悪魔だ――の返し。
手のひらの上からの圧力に、リーファは思わず生唾を呑んだ。どんな喧嘩の時にも感じたことのないような圧を、手のひらの上から、そして目の前の碧の瞳から感じ取ってしまう。これはリーファの罪悪感がさせるものなのだろうか。リーファの心の内とは裏腹に、校門の前には清々しい朝の風が吹き抜けている。
袋は指輪が入っているにしては大きい。これならば指輪が被るなんてことはないかもしれない。
「……っ」
「……クソがっ」
意を決してリーファが袋に手を掛けたその時、グロウが悪態をついて走り出した。彼の大きな背中はぐんぐん校舎の方へと駆けていく。
「っ? グロウ?」
反射的に追い掛けようとしたリーファの腕を、予想以上に強い力でギーラが掴んだ。彼女の意思のようにすら感じるその力強さに、リーファは困惑と僅かな恐怖心を覚えて、その手を振り払うことが出来ない。先程出会った時から妙に、彼女の瞳から圧を感じるのは気のせいか。
「リーファ。あんな小物はどうでも良いから、私からの贈り物を開けてちょうだい」
実に権力者の子どもらしい物言いで、ギーラはリーファにそう告げた。有無を言わさぬ口調だ。リーファもとりあえずはグロウのことは後回しにすることに決めて、彼女の願いを叶えることを優先する。手のひらの上からの圧の原因は、そう決意してしまえば案外簡単に開くことが出来た。
袋の中は――リーファの予想に反して、指輪であった。グロウからのプレゼントと丸被りである。しかしその指輪は彼から贈られたものとは違い、本物の宝石をあしらった高価なものだった。素人目にもよくわかる、本物の輝きだ。シルバーのリングの上に小ぶりながらも上品な碧の宝石――サファイアが煌めている。リーファの瞳の色とは真逆の色合いは、ギーラの瞳の色に他ならない。
「これって……」
「リーファのために用意したプレゼントなの。気に入ってくれた?」
言い淀むリーファの困惑などどこ吹く風で、ギーラは満面の笑みでそう言った。
それは例え愛しい恋人に贈るとしても、学生が贈るにしては高価過ぎる代物で。上流階級の家庭で育ったギーラがアルバイトなんてものをしているはずがない。彼女からのこのプレゼントは、彼女の両親のお金で用意したものだろう。そこには選ぶという手間こそあれど、愛する者への努力といったなんとも言えないものが乏しいように思えてしまった。
普段のリーファなら、愛しい恋人からの贈り物へ、こんな感情を抱くことはなかっただろう。しかし、今はあらゆる意味でタイミングが悪かった。ギーラにとっても、リーファにとっても。
不良友達の男友達から、本当に心のこもった贈り物を貰ったのだ。それは本当に安物で、子供のままごとのような模造品だ。それでも彼は、リーファのために汗水垂らして働いたに違いない。
そして何より、サファイアの色合いは、ギーラの瞳の色合いだった。リーファはその碧の中に、どことなく不穏な色を感じ取っていた。歪んだ自己愛のような倒錯した心の闇の部分が、その深い碧に落とし込まれているように感じていた。
そこには本当に、『リーファのため』という感情が込められていたのか。それとも――
「……」
「……リーファ?」
「あ、ありがとう。ギーラ」
不安気に揺れた碧の瞳に引き摺られるようにお礼を言って、リーファはその指輪も胸のポケットに入れようとする。さすがに学校内でアクセサリーをつけているわけにはいかないので、そのことに関してはギーラも何も言わなかった。彼女の手をちらりと見ても、お揃いのものをつけているような気配はない。
とりあえずは袋にそのまま戻そうとして、その中に折りたたまれた紙が入っていることに気付く。
「うん? これって?」
目の前のギーラに問い掛けても、彼女はにこっと微笑むのみ。仕方なく袋の中からその折りたたまれた紙を取り出すと、どうやらそれは手紙のようだった。端まで文字が書かれているのが、ペンの色合いがほのかに裏側にも透けていてわかった。几帳面らしい側面が見れる。
「手紙?」
「そうなの。付き合った記念に、ね。でも恥ずかしいから、その手紙は今夜帰ってから読んでね。絶対よ」
「わかった……ありがとう」
どこか釈然としない心で、心にもないお礼を口に出し、リーファは校門をようやく越えた。一昨日からの彼女との約束の通り、校門を越えてからは彼女とは完全に別行動だ。会話も別れの挨拶もせずに、リーファは真っ直ぐ教室に向かった。
早い時間帯なので、赤組の教室にはまだ誰もいなかった。先に行っていたはずのグロウの姿もない。少しばかり気がかりではあるが、今のリーファも彼にどう声を掛けて良いかわからないので、助かったとプラスに考えることにした。
リーファ一人の時間が過ぎて、続々と教室にクラスメート達が登校してくる。しかし、その中にグロウの姿は見えなかった。そればかりではなく、彼といつもつるんでいる取り巻き連中の姿も見えない。
結局そのまま午前中の授業がスタートし、リーファは普段は寝てばかりいるそのつまらない内容を、動揺した頭で聞く羽目になった。おちおち寝ている場合ではないと、リーファの中の本能が告げていた。
グロウ達は昼休みにも、午後の授業が終わってからも姿を見せなかった。校舎に走っていったところを見るに、おそらく校舎内にはいるのだろうが、どういうわけか姿を見ることがなかった。
普段から出席自体が疎らな取り巻き連中はともかく、この数か月は目立った欠席のなかったグロウのことを心配してか、リティストがホームルームの後にリーファに声を掛けてきた。
「リーファくん。今日はグロウくんはどうしたのかな? 知らないかい?」
相変わらず漆黒のジャケット姿のリティストは、教壇に立つ姿だけは素敵だとクラスメートの女子共が言っていた。確かに線は細い、というか細すぎるが、その端正な顔には女生徒がくらりといってしまうこともなくはなさそうな魅力がある。しかしいくら優男な皮を被っていたとしても、その本質を見抜いてしまっているリーファからすれば、要注意人物の一人でしかない。
高い位置にある腰に手をあて、溜め息をつく姿も様になっている彼からすれば、『グロウのことはリーファがだいたい知っているだろう』という安直な考えが透けて見える。不良は不良に、蛇の道は蛇と同じ原理だ。それなら男子生徒に聞けと、リーファも思わず溜め息を返してしまう。
「知らねえよ。だいたいアイツとはこの教室内での付き合いしかしてねえから」
「それもそうだったね。すまない。つい君になら、グロウくんも何か話しているかと思って」
ふふっと笑う彼の瞳に、少しばかりきな臭い色が混ざった気がした。リーファの表情が変わったのを見て取り、リティストが静かに「“学内の美化”について話したいことがある。中庭まで一緒に来てくれないか?」と教員の声で言った。
その瞳にも言葉にも、何か別の意図をひた隠しているのが伝わる、厳かな声だった。他にクラスメートがまだ残っているこの教室にて、その言葉はカモフラージュとしては充分に機能している。話を漏れ聞いたクラスメートの数人が、「ドンマイ」「しっかりやれよー」と見当違いな野次を飛ばしている。
「わかったよ……」
自分にしてはえらく素直過ぎただろうか。言ってからそう後悔しながら、リーファは大人しく先に歩き出したリティストの背中を追って教室を出た。背の高い彼の後ろ姿からは、何故か足音がしなかった。