第三話「嫉妬も愛のスパイスに」(3)
昨日のアレは、夢のような一時だった。引き締めていないと終始ニヤけてしまいそうなだらしない表情筋に力を入れながら、リーファは一人朝の通学路を歩いている。
アレというのは言わずもがな、昨日の温室での出来事で。愛おしい彼女との初めてのキスは、彼女の自慢の温室で、彼女の自信作達に囲まれてのキスだった。少しばかり咎めるような頭上の光は気になりはしたが、それでも記念すべき出来事に代わりはない。
昨日の帰り道の自分はおかしかったと、自分でも思う。まるで百年の恋から醒めたかのように、ギーラに対して素っ気ない態度を取ってしまった。あれではまるで『手を出そうとしたら拒否られて、それから一気にトーンダウンした男子学生』そのものではないか。
いや、もちろん下心はたんまりとあった。だがそれは、彼女の妖艶なる瞳を見て燃え上がっただけであって、決してあの白肌を見た自らの軽率な勘違いでは絶対にないと言える。そう、絶対だ。彼女は絶対に誘っていた。
だが、そう考えれば考える程、リーファは自分自身の心に滾った一時の欲望に嫌悪感を抱くのだった。今の言い分ではまるで彼女が色情に狂った淫乱女みたいではないか。しかしあの瞳の情欲はなんとも――
「――だーっ! やめだやめだ! 朝から何考えてんだあたしはっ!!」
周りの目線など気にもせず、そう叫んで自分自身の心に終止符を打った。考えても仕方ないし、そもそも考えれば考える程、彼女を汚しているような罪悪感が芽生える。淫乱な女はそりゃそそるものがあるが、リーファの理想はあくまでも清純そうな女の子だ。でも、そんな子が乱れるのも――
「――くっそっ!」
どう頑張っても昨日の甘い香りに脳が引き摺られているようで、リーファは思わず足元の石ころを蹴り飛ばす。コツンコツンと転がっていく石に溜め息をついてから、昨日の帰り道のことをどう謝ろうかと考えを巡らせる。
正直にどうかしていたと謝るべきだろうか。それとも何事もなかったかのように振舞うか。
「どうしたんだよ! 朝から難しい顔してよー」
いきなり後ろから肩に手を掛けられて、思わず殺気の籠った目で睨み付けようとして、すんでのところでリーファはその相手が知り合いだということを悟った。丸太のように太い腕が肩に乗っかって、なんだか擦れたような独特の匂いが背中から漂う。
「朝から絡んでくるなよグロウ。ついにあたしと同じ時間帯に登校かよ」
「うわぁ、朝の挨拶しただけなのにその目! 早起きは三銀の得って気持ちで声掛けたのに、早速それかよオイ」
声を掛けてきたのはグロウだった。二人で競う早起き合戦も、ついに相打ちとなってしまったらしい。まるで示し合わせたかのように並んで校門へと向かう二人の姿は、いったい教員達から見たらどう映るのだろうか。素行の悪い不良カップルなんて取られていたら最悪だ。
元は甘くて良い香りだったんです、とでも謝罪が聞こえてきそうなその香りにリーファは顔を顰める。いったいどこの香水使ってんだよ? 色気より食い気な体格だろうがと文句を口に出そうとして、そのオレンジの瞳が熱心に自分に向けられていることに気付く。
「……なんだよ?」
「……」
なんだか無性に生理的に無理な沈黙が降りる。肩に掛かった腕はそのままなものだから、この距離感もそのままなわけで。普段よりも少々鼻息の荒いグロウの顔が近すぎて、リーファの眉間には皺が刻々と刻まれていく。
「……用がないなら離――」
「――リーファ!!」
急な大声に拒否の言葉を阻まれて、リーファだけでなく周りを歩いていた生徒達も一斉にこちらを振り返る。しかしその目線達は、グロウの姿が視界に入った途端に蜘蛛の子を散らすように逃げていく。結局皆前を向いて、何事もなかったように決め込むのだ。薄情な奴等め。男だって何人もいるのに、女が絡まれているんだぞ?
その元凶は元凶で、もじもじしたまま一向に続く言葉を吐こうとしない。鼻息が荒いせいか顔が赤い。
「……こ、これ……やる」
グロウはそう言って、急に思い出したように服のポケットをゴソゴソしだした。もじもじしたりゴソゴソしたり忙しい奴だ。やがてその大きな手がポケットの中から差し出される。
その大きな手には何かが握られているのはわかる。だがその大きさ故に彼の手は『何か』を完全に包み隠してしまっている。指の隙間から見えるのは――小さな箱、だろうか?
「……? なんだよ、これ?」
その小さな箱をついつい受け取りながら、リーファの頭の中ではクエスチョンマークが飛び交っている。渡されたその箱は、上品そうな青色の色合いで、見た目だけならそう――指輪とかが入っていそうな代物だ。
――まさかな。相手はグロウだ。それに渡す相手があたしだろ? きっと質の悪いドッキリだ。ドッキリ。
一瞬自分らしくもなく、グロウ相手でもときめき掛けたこの胸には罪はない。はずだ。指輪を他人から渡されるなんて、女の子皆の夢だろう。そこにシチュエーションや相手の是非が絡んでくるのは、まずは渡されることが絶対条件なのである。
リーファは男勝りなボーイッシュな女の子だが、女の子であることに変わりはない。男になりたいわけではないし、恋愛対象だって幼い頃は男の子だった。だからこんなサプライズには、心が躍るものなのだ。いくら品性の欠片もないこの金髪クソリーゼントからの贈り物だったとしても、それは乙女の性なのだ。
「……さっさと開けろよ。校門着いちまうじゃねえか」
何故かわからないが凄まれるので、リーファはそそくさとその箱を開けた。箱の中身は案の定、ルビーの指輪が入っていた。リーファの瞳の色と同じ輝きだ。一目見ただけでわかる程に、ぶかぶかのリングに安っぽいデザイン。そしてどう考えてもガラスの模造品の品のない輝き。
「こ、これって……」
周りからのドッキリ大成功の乱入があることを意識しながら、しかしリーファの口は思いの他、自身の心の動揺を零してしまっている。
「お、お前と二人きりになれるのなんて、この時間くらいしかねーからさ……」
真っ赤な顔を背けてしまったグロウからは、からかいの気配は微塵もない。これはもしかして、もしかするのだろうか。周囲の人も前を向いて歩いているだけの知らない生徒達で、いつもの取り巻き達の姿もない。
――嘘、だろ。おい。グロウが、あ、あたしを?
肩に掛かったままの彼の腕から小さな震えが伝わってくる。これは緊張からの震えなのか。じんわりと汗ばむその丸太のような腕が、今はどこか心地良い。
――なんだよ。それ……けっこう、嬉しいもんなんだな。
指のサイズがわからなかったのだろう。ぶかぶかのリングが不器用な彼らしくてなんだか可愛い。安物のガラスの模造品だとしても、学生の自分達からしたら手痛い出費だったに違いない。確か彼も家では親から見放されているので、彼は食費どころかすぐ駄目になる制服代――何故かは聞くな――も自身で賄っていたはずだ。
リングのサイズが大き過ぎて男女の骨格の違いを理解しているのか些か不安ではあるが、それでもそこも彼らしいと言えば彼らしい。このサプライズプレゼントにはグロウからの気持ちがこもっている。それはもう、紛れもなく、本気の気持ちを感じ取れる。
だからこそ、リーファはこのリングを受け取ることが出来ない。リーファにはもう心に決めている人がおり、男女だとか性別がとかそんなものの以前に、彼女への愛以外に他者が入り込む余地なんてものはないからだ。
渡されたリングを手に持ったまま、しかしその手に触れようとしないリーファを見て、おそらくグロウもこちらの気持ちを読み取っているに違いない。彼は少し寂し気に笑い、「受け取ってくれ」とやや気持ちを抑えたような声で続けた。
「グロウ……悪い。あんたの気持ちは受け取れない……」
いくら辛そうに受け取れと言われても、こんなに気持ちのこもったものを中途半端に受け取ることは出来ない。彼にも、彼女にも失礼だ。
手のひらに乗せたその箱を突き返すリーファに、グロウは今にも泣き出しそうな表情になっている。「なんでだ? 俺のことが、嫌いか?」とその口から小さく漏れて、リーファはなんて残酷なことをしているのだろうと自分で自分を殴りたくなった。
「あんたは最高の男友達だと思ってた。それに、こんなこと言うのもおかしいけど、あんたからのこの指輪、凄く嬉しかったんだ」
「なら、せめて貰ってくれ! これはお前のために選んだんだ! 今更持って帰れるかよ」
「駄目だ。あたしには……」
ここまで言い掛けてリーファは迷った。グロウのことは信頼している。だが、その信頼はあくまで男友達としての信頼だ。今この場で自分の性的対象に女性も含まれると告げて、更に彼女の存在まで伝えるのは、それは果たしてこれからの学園生活においてプラスになるだろうか。いや、ならない。絶対に好奇の目で見られるだろう。グロウからは見られなくても、きっとその取り巻き達は嘲笑するに決まっている。
「あたしは……自分よりよっぽど強い男にしか興味ない、から……」
心にもない言葉だった。そんな酷く歪に苦しむようなその言葉が、自分の口から流れることが理解出来ない。だが、その言葉は確かに、グロウの心に突き刺さった。彼の引き締まった口元が強く結ばれ、そこからいやに低い声が響く。
「……そうかよ……俺なんて、これだけ鍛えても眼中にないってか……」
その怒りに満ちるオレンジの瞳に恐怖を感じた。こんな感情も、リーファは初めてだった。これまで接してきた彼とはまるで異なる威圧感。言葉通りに日々鍛錬を欠かさない彼の膨らんだ筋肉が、丸太のような太い腕が離される。
「グロウっ……」
「うるせ――」
「――リーファ! おはよう。待ってたの」