托卵女子
「三輪さんってほんと美人だよなー」
「社内のお嫁さんにしたい女ナンバー1。もう殿堂入りだよ」
「各課のエース級社員がみんな口説いたらしいぜ」
昼休み、会社の食堂で陽キャ連中がそんな話をするのを、僕は隣のテーブルで一人で食事をしながらぼんやり耳にしていた。
「あんな美人と付き合えたら、それだけで勝ち組だよな」
総務部の三輪理彩は社内一の美人社員として知られ、会社のパンフレットやホームページにもよく登場していた。
「ウチの社員じゃ物足りないんだろ。芸能人とかプロ野球選手と結婚して寿退社するんじゃねえの」
男たちはそうボヤき、他社の女子社員たちとの飲み会の話題に移った。僕も興味を失い、スマホを取り出してソシャゲを始めた。
恋愛は資格のある人間しか参加できないゲーム。自分のような陰キャには無縁の世界――のはずだった。
◇
「そうそう、新人研修で私と井上君と一緒のグループになったんだよね」
バーのカウンターで三輪理彩が笑った。カクテルの酔いで頬がほんのり色づいている。
それは突然の誘いだった。
夕方、社内のグループチャットで理彩から「今夜、一緒に食事に行きませんか?」とダイレクトメッセージが届いたのだ。
理彩と僕は同い年の28歳、実は同期だった。新人研修も一緒に受けていた。
隣に座る美女の横顔をちらっと僕は見た。
(なんで急に僕なんかを誘ったんだろう……)
研修は6年も前の話だ。別の部署に配属されてからはほとんど話したこともなかった。とうに彼女は陰キャ社員の名前など忘れてしまったと思っていた。
理彩が昔を思い出すように額に手を当てた。
「たしか研修で一緒にゲームをしたよね? Aチーム、Bチームとかってグループを分けて。何のゲームだったっけ?」
「人狼ゲームだよ。各チームから一人ずつ出して、人狼、狂人、村人、占い師に役割を振って対抗戦をやったんだ」
「ああ、そうそう。思い出した」
理彩がくくく、と含み笑いを洩らす。
「井上君、人狼で負けてばっかり。人が良すぎるんだもの。嘘がつけなくてすぐ顔に出るし……」
「三輪さんはめちゃくちゃ強かったよね。人狼になっても絶対にバレなかった」
「嘘が上手いってこと?」
「いや、褒め言葉だよ」
あわてて僕がフォローすると、理彩がふふ、と笑って「ありがとう」と言った。
最初は社内一の美人だと思って緊張していたが、昔話をするうちにリラックスできるようになっていた。
勧められるままお酒を飲み、僕はかなり酔った。店を出たとたん、外でうずくまってしまった。
「ごめん……なんか気分が悪くて……飲み過ぎたかも……」
肩を貸してもらい、よろよろと立ち上がる。駅までの道を歩いていると、不意に理彩が言った。
「ちょっと休憩していこっか」
理彩に手を引かれ、白い壁の建物に入っていく。
ロビーには部屋を選ぶパネルがあり、理彩が手慣れた様子で選んでいる。フロントでカードキーを受け取り、「行こ」とエレベーターに連れて行かれる。
(ここってラブホ……だよね?)
廊下を歩くと、ドア越しに女のあえぎ声らしきものが聞こえ、いきなり酔いが醒めた。だが、今さら逃げるわけにはいかない。
部屋に入ると、僕と三輪さんはベッドの端に並んで腰を下ろした。
「強引でごめんね。私、井上くんのことが前から好きだったの……」
「えっ?……」
「私のこと嫌い?」
理彩が僕の膝に手を置き、顔を寄せてくる。香水の甘い香りがした。
「いや、嫌いじゃ……ないけど……」
「ありがとう」
理彩が身体を寄せ、僕はベッドの上をじりじりと後退した。彼女も追いかけてきて、ついに端まで追い詰められる。
「ま、待った――いや、待って」
両腕を胸の前に突き出して制止する。
「その……たしかに僕と君は同期だけど、僕は君のことをよく知らないんだ。もし……その〝する〟なら……君のことをもっとよく知りたい……それって変かな?」
実を言えば、僕は28歳にして女性経験がほとんどなかった(以前、少し付き合った女性がいたけれど、すぐに別れた)。ほとんど童貞のような男に社内一の美人は荷が重すぎる。
僕が抱かないことを告げると、理彩は急に醒めた顔になり、ベッドから立ち上がった。「私、帰るね」とだけ告げて、部屋を出て行った。
ベッドに座ったまま、僕はそれを呆然と見送った。
◇
(あー、なんで断っちゃったんだろう……)
会社の食堂の隅で僕はため息をついた。
あの夜以来、理彩から連絡はない。一度オフィスの廊下ですれ違ったが、まるで他人のような冷たい顔をされた。
(ま、しかたないよな……)
女性が勇気を出して告白してくれたのに拒絶したのだ。愛想を尽かされて当然だ。
食後、いつものようにソシャゲをやってると隣のテーブルから会話が聞こえてきた。
「聞いたか? 三輪さん、会社辞めるんだって」
「マジ?」
スマホをタップする手が止まる。まさか僕に告白を断られたから? 失恋のショックで退職?
「それがさ……総務の知ってる社員に聞いたんだけど、三輪さん、妊娠してたんだって」
「妊娠? 相手は?」
「噂だけどな……本間部長」
本間部長は営業部のトップだ。パワハラ体質なところはあるが、かなりのヤリ手で、将来の社長候補と目されている。
「……いや、でも部長、結婚してるだろ」
「だから不倫だよ。奥さんが会社に乗り込んできてバレたんだって。修羅場だったらしいぜ」
「うわー、お嫁さんにしたいナンバー1がオッサンと不倫かよ。がっかりだわ」
僕は動揺していた。三輪さんが部長と不倫をしていた? しかも妊娠? ではあの夜はなんだったのだ?
「いやー、三輪さんにコクったりしないで良かったわ。下手にヤッてたりしたら、危うく部長のガキの父親にされてるとこだった」
「いや、おまえヤレたのかよ」
僕は頭からスッと血が引いた。
三輪理彩は上司と不倫して妊娠していた。そんなときに僕と一夜をともにしようとした。つまり――
(〝托卵〟されかけた?……)
あのとき、彼女と寝ていたら数ヶ月後「あのときデキちゃったみたい。井上君の赤ちゃんよ」などと言われ、僕は責任をとらされていたかもしれない。
翌週――その日が三輪さんの最終出社日と知った僕は、夕方、総務部のあるフロアに行った。理彩の机はすでに私物が片付けられ、本人の姿もなかった。
戻ろうとすると、廊下の向こうから理彩がやって来た。僕の姿を認め、一瞬、驚いた顔をしたが、そのまま素通りしようとする。
「なんで僕だったの?」
すれ違い際、僕は訊ねた。なぜ自分を托卵の相手に選んだのか? 理彩が苦笑いに似た笑みを唇の端に浮かべる。
「……あんたがお人好しだったからに決まってるでしょ。研修のとき、人狼で何度も騙されてたから、一度寝れば、自分の子供だと思って育てると思った、それだけよ」
言外にあなたに好意があったからじゃない、と匂わせていた。僕をその場に残し、理彩は総務部の部屋に入っていった。
◇
(このあたりかな?……)
僕はスマホの地図を頼りに町中を歩いていた。取引先の会社への訪問を終え、帰社の途中に寄り道をしていた。
七階建てぐらいの細長いマンションの前で足を止める。エントランスに入り、オートロックで部屋番号を押したが、返答はなかった。
(いないのかな……)
いったん外に出て、しばらくスマホでソシャゲをして時間を潰していると、向こうからマタニティドレス姿の女性が歩いてきた。手に白いレジ袋を持っている。
家の前に立つスーツ姿の僕に気づき、理彩が目を見開く。
「あ、いや……保守を担当している会社が近くにあったから……」
訊かれもしないのに僕は言い訳をした。
「どうして家がわかったの?」
「本間部長に訊いた……」
部長には正直にすべてを伝えた。三輪さんにホテルに誘われたが、未遂だったこと。彼女に会いたいので住所を教えてほしいと。
僕たちは近くの公園に移動し、ベンチに並んで座った。
「いま何ヶ月?」
理彩のお腹を見ながら僕が訊ねた。
「もうすぐ六ヶ月」
「一人暮らしだよね。実家には戻らないの?」
理彩が疲れたように笑った。
「お父さんが、不倫をするような娘に家の敷居はまたがせないって……でも大丈夫。お母さんが通って来てくれているから」
彼女の父親は教師らしい。厳格な性格で、未婚の母となる娘をいまだに許していないという。
「井上君、私のこと恨んでるでしょ?」
「別に……」
托卵されかけたが、未遂だったので恨む理由はない。
逆に訊ね返した。
「部長はなんだって?」
「今は話もできない。奥さんに携帯も変えられちゃったみたい。弁護士から連絡があって、何かあればこっちに連絡してくれって……」
理彩が疲れたように息をついた。
「馬鹿よねえ。奥さんは資産家の娘で、部長は離婚する気なんてないのに、変な夢見ちゃって……っていうか、奥さんから聞いたんだけど、部長、私以外にも社内で三人のコに手を出してたんだってさ」
「三人?」
「まあ、子供ができたのは私だけみたいだけどね」
ということは、理彩以外にもさらに三人の女性社員が、上司と不倫しながら澄ました顔で同じ社内で働いているのか。僕には雲の上の世界の話だった。
「で、なんで来たの? お腹の大きな不倫女を見て笑うため? まあ、あなたにはその資格はあるけどね」
「そんなんじゃないよ」
僕はぶすっと口を尖らせた。
「ただ……どうしてるのかなって。同期として心配だから様子を見に来ただけよ」
「……ありがとう」
憎まれ口を叩いたことを反省するように理彩はつぶやいた。しばらく沈黙が落ちた後、僕は口を開いた。
「新人研修でやった人狼ゲームだけど、あれ、思い出したよ」
理彩が首を傾げる。
「チーム分けのやり方。血液型だよ。Aチーム、Bチーム、Oチーム、ABチームで分けたんだ。僕と君はO型だから同じチームになったんだ」
「それが?」
「部長に血液型を教えてもらったよ。部長はAB型。君はO型だから、部長との間に生まれる子供はAかB。でも、僕と君はO型だから子供はO型しか生まれない」
つまり托卵をしたところで、いずれはバレたということだ。賢い理彩がそれを知らなかったはずがない。
「君は僕がお人好しだから選んだと言っていたけど、生まれた子供の血液型でいずれは絶対に嘘がバレる。なんでそれがわかってるのに僕を選んだの?」
社内に〝お人好しのAB型〟の独身社員はいる。特に総務部の理彩は、社員の血液型を調べやすい立ち場にあった。
ベンチに再び沈黙が落ち、やがて絞り出すように理彩が言った。
「……あなたなら、他の人の子供だとわかっても愛してくれるかもしれないって思ったから……」
僕は黙って先を促す。
「……わかってたの……部長が奥さんと別れて私と一緒になる気なんてないって……でも、私はどうしても赤ちゃんを産みたかった……」
鼻声で理彩は続けた。
「……父親には子供を愛してくれる人になってほしかった……だから、あなたを選んだの……ほんとにごめんなさい……謝って許してもらえることじゃないけど……」
これも演技かもしれない。彼女は人狼の達人だ。僕はまた騙されているのかもしれない。
でも、それでもいいと思った。騙すか、騙されるかだったら、僕は騙された方がいい。
「また来てもいいかな?……」
僕がそう言うと、理彩の顔に困惑の色が浮かぶ。
「悪いけどもう来ないで……同情はまっぴら。あなただって、私の話を会社に持ち帰ってネタにするんでしょ?」
「しないよ。君が見てきたのはそういう人ばかりかもしれないけど、そうじゃない人間もいるよ」
「……ごめんなさい」
「僕が来たいだけだよ。迷惑なら来ないけど……」
そう言うと、理彩は目を地面に落としてつぶやいた。
「……たまになら……」
自分がなぜ彼女のもとを訪ねたのかはわからない。この先、何がしたいのかも、今は正直よくわからない。
ただ理彩、君のことをもっと知りたい。
どんな本や音楽が好きなのか。好きな食べ物は何なのか。どんな少女時代を送ったのか。君の話を聞かせてほしい。
僕たちは今、出会ったばかりなのだから。
(完)