後
佐藤さんとのデートに備え、鏡の前でメイクをしていた。「ダイヤモンド」で現実の自分の顔の上に完成形の流行のメイクを表示してもらい、次にそれを消してそうなるための手順を表示してからアイシャドウなどを重ねていく。やはり鏡というのは「ダイヤモンド」などの端末に鏡の機能があっても便利だ。こうして現実の自分とデータを重ねることができるし、タイムラグがある端末の情報より今の自分の姿であることを確信できる。
「ダイヤモンド」が不協和音を鳴らした。それが脳内で響くのでかなり驚いてしまった。
「アゴタ、乱歩、何があったの?」
思わず脳内で訊く。すぐに二人は現れた。固まったような不自然な表情だ。
「どうしたの?」
「鳩」
アゴタが言った。感情のこもらない不自然な声で。
「鳩」
乱歩が言った。尖ったカイゼル髭、本当の江戸川乱歩とは全く違う、わたしが適当にデザインした剽軽な髭を上下させて。
「鳩ハト鳩はと鳩鳩鳩はとハト鳩鳩鳩鳩鳩鳩鳩ハト鳩ハト鳩鳩はとはと鳩鳩鳩ハト」
「鳩鳩はとハト鳩鳩鳩はと鳩鳩鳩ハト鳩鳩鳩ハト鳩ハト鳩鳩はと鳩ハト鳩はと鳩鳩」
それしか言わなくなった。どうしたの? とか大丈夫? とか訊いても二人は直立不動で鳩鳩と唱えるばかりだ。怖くなって手を目の前で振って二人を消した。機能が修復されるまで見えなくしておこうと思って。
次の瞬間、鳩の画像が目の前に表示された。地味なドバト、華やかな愛玩用の白い鳩、伝書鳩レース中の空一面の鳩、手品のアイテムとして飛び立つ鳩。次に鳩のパーツ。くすんだ紫の羽、くちばしの上の丸い二つの塊、茶色くて意外に怖い目、ふわふわとした色の薄いお尻の羽毛、丸いお腹、広げた模様入りの羽、しっかりとした真っ直ぐな足。目の前が鳩で埋め尽くされていく。アゴタと乱歩の声は消えなかった。
「鳩鳩。お前は鳩ハトはとなんだよ。生まれたときから鳩でハト鳩で、声も姿も鳩ハトハトはとだったんだ」
「生まれたときから虫を与えられ、くるくる鳴き、ベランダの鳩ハトとして育ってきた。お前は人間じゃなくてはとだよ鳩ハト。鳩ハトはと」
二人の声で何度もそう言われるうちに、鏡の中のわたしも変化していった。最も知られている普通の公園の鳩、伝書鳩レースで使われるあの鳩に。丸いお腹に対して薄手の白いセーターは目いっぱい広げられているように見えた。ワイドパンツも鳩の下半身には不似合いのような気がした。わたしは鳩になっていた。太った鳩に。
ぎゃあ、と声を上げた。その声も鳩のように口を尖らせたような妙な声だった。大慌てで本当の両親が部屋の前に来た。どうしたの、と声をかけられ、すすり泣きながら二人に訴える。鳩に変身してしまった、と。
ドアがバン、と開き、本当の母が現れてわたしを見た。鳩鳩、の声と鳩の写真は消えたが、わたしは鳩の姿をしている、という認識は改まらず、鏡を覗いてもわたしは鳩だった。なのに母はきょとんしてこう言うのだ。
「何を言ってるの?」
と。父も、
「鳩なんていないけど」
と言った。ではこのわたしの鏡の中の姿は? このどうしようもなくこびりついた「わたしは鳩である」という認識は? 「ダイヤモンド」に問うても何も返ってこない。指を鳴らそうが心の声で呼びかけようが、「ダイヤモンド」のメイン画面どころかアゴタと乱歩も出てこない。
そこで父の折りたたみスマートフォンが元気よく鳴り出した。わたしの気分には合わない能天気な音だ。父はそれを胸ポケットから取り出して確認する。
「ああ、わかった。グローリー・ジェム社の大規模なシステム障害だってさ」
父に画面を見せてもらうと、グローリー・ジェム社が世界的なシステム障害となり、機能が使えなくなっているという。
「人騒がせね。あなたも頭に端末を埋め込んだりするからシステム障害程度で大袈裟に感じるのよ」
母は呆れたように言った。
「原因は不明だそうだが、しばらく待てばまた復旧するさ」
父はわたしを慰めた。わたしは無言でうなずいた。
PCを使い、佐藤さんに端末が動かないことを説明し、色々と不便があるから今日のデートは延期にしてほしいと頼んだ。佐藤さんは快諾してくれた。今日は夜のデートを予定していたのに。
わたしはまだ自分が大きな鳩に見えていた。自分が鳩であるという認識も消えなかった。キーボードを打っているこの指も、どう見ても鳩の羽だし、キーを打てていること自体が不思議でならないくらいだった。
ため息をついた。「くるっく」という声が漏れ、どう考えてもわたしは鳩だった。
*
システム障害は二日続き、ようやく復旧した。グローリー・ジェム社は謝罪文を出し、人や会社によっては訴訟を受けていた。鳩のことは何も言っていなかった。わたしのように自分が鳩に見える人は一人もいないようだった。そう、わたしはシステム障害が復旧したあとも自分が丸々とした鳩に見えていた。
乱歩とアゴタはまた出てくるようになった。
「ごめんなさいね、この間はバグったりして」
とアゴタ。わたしはいいよ、と力なく許す。
「何だか変な感じにバグっちゃったな」
照れ笑いをする乱歩にわたしはうなずく。
わたしはすっかり二人が怖くなっていた。いっそイマジナリー・ペアレンツの表示モードをオフにしてしまおうかと思う。大体の成人は大人になったときに鬱陶しくなって、よほどのピンチのとき以外は出てこないようにしているのだ。わたしもそうしたっていい。
なのに、二人こそがわたしの真の親だという気が消えない。本当の親よりもずっとわたしの親である二人は、消えてしまうと孤独感が今よりもずっと増す。おそらく親としての愛着をAIである二人にこそ完全に感じているのだ。もうどうしようもない。生物としての自分を恨むしかない。だからそのままにしていた。
それからしばらくして、会社を辞めた。何もかもが全くうまく行かなくなっていたのだ。仕事はうまくこなせるはずだが、「ダイヤモンド」を使いたくなさに仕事の効率が落ちた。何より自分が鳩であると思っているために服もメイクもいい加減になっていた。周りの人が見える自分の姿が全くわからない。わたしは鳩なのに、どうして人間に見えているのだろう? それくらい不思議に思っていた。
佐藤さんはわたしのことを心配してくれた。気が狂ってしまった可哀想な恋人として、愛してくれた。家に引きこもってタブレットで漫画を読むわたしを訪ねてきて、おすすめの映画だとかゲームだとかを教えてくれた。この人は素晴らしい人だと思ったけれど、気が狂っていると思われるのは心外だった。
「君のことが大好きだよ。最初は才能に溢れているから近づいたけれど、君のちょっとミーハーなところ、明るいところ、笑顔がかわいいところ、とてもいいと思うんだ。だから元に戻ってくれよ」
わたしは微笑んだ。それからありがとう、と言おうとした。声は「くるっくー」と響き、次に鳩らしい声で「ありがとう」とやっと言えた。わたしはぽろっと泣いた。鳩が泣いたって何もかわいくなんかないのに、佐藤さんはわたしの涙を指でぬぐい、微笑んだ。
*
「大変だ、これを見てくれ」
佐藤さんがうちに駆け込んできた。わたしは相変わらずタブレットで昔の漫画を読んでいたが、彼の表情でただ事ではないことがわかり、彼の示す彼のウェアラブル端末を見せてもらった。ニュース記事だ。この間のグローリー・ジェム社のシステム障害の原因が、ハッキングによるものだとわかったのだ。
「犯人の男は醜形恐怖症で、自分を猿のような顔だと思っていたらしい。だから他の人間を豚だとかラクダだとかに見えるように、『ダイヤモンド』を使っている人間を狙って……」
男は自分に同意する大勢の仲間を使ってグローリー・ジェム社に大量のデータを送りつけさせ、サーバーが過負荷で停止したところでファイアウォールを突破した。そしてそれぞれの利用者のイマジナリー・ペアレンツを狙ってウイルスを放ったらしい。イマジナリー・ペアレンツのペアごとに一つの動物のイメージを利用者に大量に送りつけるように設定した。催眠の手法に倣って利用者に「お前は動物だ」という言葉をしつこく送った。わたしは鳩だが、他にもカエルだとか象だとかナマケモノだとかの写真を送っていたのだという。
「でもどうしてかな? ウェブを見てもわたし以外にこんな人はいなかったよ」
わたしが少し弾んだ声を出すと、佐藤さんは嬉しそうに笑ってうなずいた。
「君ほどイマジナリー・ペアレンツに依存してた人間は少ないんだよ。君はいわゆるIPチルドレンというやつだし、常にイマジナリー・ペアレンツを表示してただろう? 皆が表示をオフにしてる成人期にさ」
「そっか」
ほっとして、わたしは笑った。取り戻せる、と思った。人生を、わたしの本当の姿を!
アゴタと乱歩の表示をオフにした。これでわたしが危険な男について行っているときや、後ろに犯罪者がいるときくらいしか出てこなくなる。それから心療内科に通い、カウンセリングで自分の姿を取り戻す治療を始めた。わたしは、きっと自分の姿を取り戻し、思い出せる。そう思った。
*
あれから十年が経った。わたしは佐藤と結婚し、子供が二人いた。上の女の子はお転婆で、うんていを登るのが大好きだ。下の男の子は大人しくて、電車ばかり見たがるのでしょっちゅう一緒に出かけている。
「ママー! 見て見て!」
娘が小学校でできるようになったというバック転を披露する。
「上手!」
わたしは微笑んで褒める。息子はそれをちらりと見て電車のおもちゃを「ガタンガタン」とつぶやきながら地面を進ませている。
「ただいま。ここにいたのか」
夫がわたしたちを見つけ、にっこりと笑いながら公園の敷地内に入ってきた。太陽がさんさんと照っている。もうすぐ夏だ。夫は汗を垂らしている。
あのデザイン会社を退職した夫は、自分の会社を立ち上げ、今は忙しく働いている。わたしも働きたいけれど、どうしてもそれが不可能になってしまったので、これからはずっと専業主婦だ。
だってわたしはまだ自分が鳩に見えるのだ。
醜い鳩が、巨大な鳩が、服を着て街を歩いている。料理をしている。鶏料理を食べている。それが自分だ。何もかもが奇妙で、わたしはそれに全く対応できないのだ。夫は気づいていない。わたしは治療を開始してから一年で人間に戻ったふりをしたから。
正直に言おう。わたしには子供たちすら鳩に見える。うんていをする鳩、バック転をする鳩。駅のホームにいる鳩に交じって「電車が来たよ!」と叫ぶ鳩、電車のおもちゃで遊ぶ鳩。何とも奇妙ではないか?
わたしは人間のふりをして生きている。鳩なのに人間のふりを。このことを誰にも言えない。娘にも、息子にも、あなたたちが鳩のように醜く見えるなんて言えない。
でも、仕方がない。わたしが醜い鳩であっても、他の家族にとってはもう封じられた過去、悲しく滑稽な思い出でしかないのだから。
《了》