明智家の勝手方11:公方様御謀叛
秦創金造は明智家の財務を担当する勝手方だ。
生まれは越前の国。商人であった金造の父が明智家に出入りしていた関係で、将軍上洛後の明智十兵衛光秀に仕えることと相成った。
金造の得意は、帳簿付けである。金造にとって帳簿は仕事だが、趣味でもある。細かい文字で丁寧に書き記した帳簿を、金造は暇さえあれば、ぼんやり顔で眺めている。
金造の苦手は、荒事だ。武士にはなったが、戦に出たことは一度もない。そもそも他人を殴ることを、嬉しいと思ったことがない。
金造はそれで構わないと思っている。戦において勝手方は後方にいるものだ。銭米を集め、前線へと運ぶ手配をするのが金造の仕事だ。
元亀四年(1573年)二月。
光浄院住持暹慶こと山岡景友は、瀬田川を監視できる位置にある石山へ入り、砦の普請を開始して、京と美濃を結ぶ街道を抑えようとした。
これに呼応して、近江の国衆は次々と一揆を結ぶ。
国衆を試奏したのは、現公方である足利義昭だ。
義昭の狙いは京と近江から、織田勢を排除することだ。
「明智は『正体なし』、か」
夕刻。坂本城の御屋敷にて。
光秀は、懇意としている国衆から届いた文を読み、嘆息した。
義昭から朝倉左衛門督義景へ下された文の写しという形式で、国衆の間に出回っているらしい。
織田の覇権が危うくなった。だから、数千の兵を越前から送れば、たやすく京を制圧できる、という内容である。
光秀から文を渡された金造が、内容に目を通す。
「文には山本氏、渡辺氏、磯谷氏が織田から離反したとも書かれております」
「離反、というのとはちょっと違うな。国衆の多くは、織田と義昭の顔色をうかがって、両方にいい顔をしているだけだ。一揆にしても、互いの所領を守ることを誓い合うもので、織田と敵対する、という文言はどこも慎重に避けておるわ」
「ですが、御味方が減って、敵が増えたことは間違いありません」
「だよなぁ。京の屋敷、早々に兼和卿に預けておいてよかったわ」
「それが公方様の文に『正体なし』と書かれてしまった理由でもありますが」
明智家の京屋敷は、今は吉田神社に預けてある。
吉田神社の吉田兼和(兼見)は光秀と昵懇の仲で、卜部氏を継ぐ公家でもある。明智家の京屋敷で働く者の多くが吉田神社の下人を兼ねていることもあり、屋敷と残していく下人を預けることに問題はなかった。
「そういえば金造。京屋敷におった重太はどうした?」
「連れ帰りました。今は下坂本の親元に帰しております」
「そうか。それはよい。童は親と一緒にいるのが一番だ」
光秀が笑顔になる。
金造は、光秀の父親を知らない。十年前、金造が越前で最初に光秀と会ったときには、すでに他界していた。若くして死別したらしい。
それゆえにか、光秀は子煩悩な父親だ。娘にも、まだ幼い息子にも、優しく接する。
「重太は城に入りたがっておりましたが、それがしが止めました」
「父親のこと、まだ難しいか」
「重太はさほどには。ですが、母御はそうはいかぬようで」
「是非もなし」
比叡山が焼かれ日吉神社が織田に蹂躙された時に、そこの神人であった重太の父も死んだ。それから、まだ二年とたっていない。
焼いて殺した側にとっては、とうに記憶の片隅である。
焼かれて殺された側にとっては、いまも鮮明に記憶されている。
(己の立つ位置によって、見えるものは異なるということか)
金造は、ここにいない朋友の日之介を思う。
湖西国衆の出身である日之介は、光秀の使いとして故郷のある田中城に行っている。
出発前には「近くの寺で、父に会う約束を取り付けた。うまくいけば戦わずにすむようになるやもしれん」と言っていた。
うまくいかずとも、無事に戻ってきてほしい。金造は胸の内で願った。
──同時刻。
近江高島の勝安寺にて。
「久しいな、日之介」
「はっ」
日之介が頭を下げる。
内畑信之進は、息子に見えぬところで目尻を緩めた。「久しい」とは言ったが、昼に田中城で会っている。あの時には明智家からの文を受け取る、国衆の一人としてであった。永禄十一年(1568年)、義昭と信長の上洛戦によって主家であった六角が打ち倒された際に、信之進は三男の日之介を人質として明智家に預けた。それから五年。立派な武士となった息子を前に、誇らしく、嬉しい思いが胸中に湧き上がる。
日之介が頭を上げた。
信之進の表情が険しくなる。
「父上。どうか織田に合力を」
「駄目だ」
信之進は首を振った。
「内畑家は、公方様に御味方する」
「父上。公方様に勝ちの目はありません!」
「かもしれぬ。だが、そんなことは問題ではないのだ」
「どうかお家のためを思って──」
「考え違いをするな、日之介!」
信之進は息子を一喝した。日之介が雷に打たれたかのように頭を下げる。
「家のためを思えばこそ、公方様にお味方するのだ」
「なぜです、父上」
泣きそうな顔になった日之介に、信之進はどう説明したものかと悩む。
信之進の長男の一之進は三十才。嫁ももらい、男子にも恵まれた。
内畑家の家督は信之進から長男、それから孫へ渡ることが、すでに決まっている。
(ここで織田についたら。内畑家の家督で揉めような)
一之進は篤実だが、それゆえに内畑家の田畑を守り、継いでいくことにしか興味がない。信之進が織田についたところで、一之進が重用されることはあるまい。
日之介は違う。今回、明智家の使いとして日之介は湖西地域を周り、国衆に光秀の文を届けて回った。側近として日之介が光秀に重用されている証拠だ。
日之介と兄の関係は悪くない。しかし、家の相続というものは、本人同士の思惑の外で動くものだ。我が子が骨肉の争いをするのを、信之進は見たくなかった。
(ここまで世の流れが早くなるとわかっていれば、あらかじめ一之進に家督を譲っておいたのだがな)
すでに兄が家督を継いでおれば、弟の日之介が相続争いに巻き込まれる危険は減る。
信之進は、厳しい顔のまま、日之介を睨む。
「公方様の勝ちの目が低いのは、承知の上よ。だがな、織田を勝たせたところで、戦は終わらぬ。それほどに織田は嫌われておる」
結局、家督のことを説明するのはやめにした。
言葉にすることで、却って争いを引き寄せることを恐れたのだ。
「嫌われているからこそ、御味方すれば評価されましょう」
「いくら弾正忠に評価されようが、今度は内が割れるわ」
「外に所領をいただき、そちらに遷れば、内の問題など解決できましょう」
「ふん。伝来の土地を持たぬ明智家らしい物言いだな。ここは左近衛将監殿以来の、父祖の土地ぞ。ここを捨ててどこへ行こうというのだ」
「父上! 父上とて、おわかりのはずです! 家の名にすがれど、この乱世では──」
「黙れ!」
父祖伝来。
言葉はよいが、今の内畑家は応仁の乱で途絶えた家に、外から入り込んだ新参者だ。継承されているのは、家の名のみ。
家の名にそれだけの価値があるのが、中世社会というものだ。
財産の継承を、土地の支配を、家の名が保証する。
家の名だけが、領民に頭を垂れさせる力を持つ。
財力。武力。信仰。どれもこれもぱっとしない国衆が、唯一拠って立つのが家の名だ。
家の名を捨てて成り立てる国衆など、数えるほどもいない。だからこそ、名にしがみつく。名を保証する伝来の土地にしがみつく。
(日之介は、家の名にすがらずとも自分の足で立てよう。わしは無理じゃ。一之進も無理じゃ)
織田が強いのも道理よ、と信之進は思う。
己の力で家を立てる力ある国衆だけが、織田家中で生き残るのだから。
織田の戦が終わらぬのも道理よ、と信之進は思う。
己の力を自他に示し続けて初めて成り立つのが、織田家中なのだから。
戦がなくなれば、織田家中は自壊するしかあるまい。
そんな修羅の巷に足を踏み入れる気概は、信之進にはなかった。
「我ら親子の道は分かたれた。日之介よ。そなたは明智で己の道を探せ。わしはこの地で、わしの道を進む」
「父上……」
板敷きに、ポツポツと黒い染みが落ちる。
一之進に家督を譲っておかなくてよかったと、信之進は先程と逆のことを思う。
情に厚い長兄なら、可愛い弟の涙に、なんとか弟を取り込めぬか考えてしまったはずだ。
自分が明智家に行くのではなく。弟を所領に縛り付けようと。
それでは駄目なのだと、最後まで気づくことなく。
信之進は、では自分には何ができるかと考える。
「日之介。こいつを持っていけ」
ごとり、と。
脇差を日之介の前に置く。無銘の業物なれど、父祖伝来、という意味では百年前に手に入れた田畑より、よほど古い。重く、頑丈で、手に馴染む。信之進も、その父も、祖父も、好んでこの脇差を持ち続けた。
「少し早いが形見分けじゃ。ひとたび道は分かれても、我らは親子。いつの日か道がつながることもあろう」
「ありがとうございます、父上」
日之介が脇差を押し頂く。涙腺がまた決壊し、ボタボタと涙を床にこぼす。
信之進は、苦笑する。
「立派な体をしておりながら、心は童の頃と変わらんのう」
「これは、父上の、前、だからで、ふぐっ、ふぐぐぐっ」
べそべそと泣く日之介の肩に、信之進は手をのせる。
五年前にも分厚かった体が、さらに一回り大きくなっている。
「明智家では、よくしてもらっているようだな。重畳だ」
「はい。世間では悪し様に言われることも多いですが、好きです」
「そうか。わしが言うのもなんだが、励めよ」
「はい」
日之介は、泣きながら笑顔になった。
義昭の思惑とは裏腹に、各地で一揆を結んだ国衆の動きは遅かった。
国衆一揆は所領を守るもので、織田と積極的に戦う気はないのだから、当然である。
対して、織田の動きは速く、苛烈だった。
湖西を巡って戻ってきた日之介の報告から「一揆衆の戦意は低い」と判断した光秀は、坂本城の手勢を率いて出陣。柴田修理亮、丹羽五郎左衛門尉、蜂屋兵庫頭と連携し、光浄院がこもる石山を包囲する。武家の面目がたつ数日を稼いだ後、光浄院は降伏し、手勢を率いて退散した。普請途中であった石山城を破却した後、織田勢は北に転進する。
柴田勢を坂本に入れて守りとし、光秀は坂本城から囲い船で出撃した。
翌朝、光秀は一揆を結んだ堅田を淡海側から攻める。
丹羽・蜂屋の側面支援を受け、昼前には堅田の守りを突破し、制圧する。
堅田の戦いは短いが激戦で、双方に死傷者が多かった。それだけに武力で堅田を制圧した光秀の威令は大きく、反織田であった者たちは財産没収の上、堅田から追放の処分を受ける。
これまで堅田に対して穏和に出ていた光秀だったが、光秀の穏和さは「強く出ても通じない時には下手に出る」「侮る者がいれば、態度に出さずに記憶しておく」であった。それを見抜けなかった者が報いを受けたのである。
義昭が望みをかけた、近江の国衆一揆による中立化は無残な失敗に終わった。
山城と京を後背地とし、信長が容易に手出しできなくする予定が、かえって織田の支配を強固にしてしまったのである。
「かそいろも やしなひ立し 甲斐もなく いたくも花を 雨のうつ音」
(香りよ色よと 大事に育てた 甲斐もなく 激しく花に 雨がうつ音がする)
義昭を嘲る、京童の落首である。
義昭は、これまで味方として身近に織田を見すぎていた。
敵となった時の信長と家臣団の力量は、義昭の想定をはるかに越えていたのだ。