第二話 魔神王、人間の街へ向かう
「バアル様、少々よろしいでしょうか」
「なんだ、ルイン」
森を抜けるべく歩いていた頃、バアルは突然ルインに声を掛けられる。
「このままならもうまもなく人間の住まう街に出ると思われます」
「そうだな。この距離なら後一時間ほどだろう」
バアルは発動させていた『探知』の反応を見ながら肯定する。
『探知』とは基礎魔法と呼ばれる魔法の一種であり、範囲内の魔力反応を知ることができる。
魔力量に応じて範囲も広くなり、バアルの魔力量なら半径100キロメートル程度の範囲の詳細な情報を得ることができる。
今は範囲内の人間の魔力を感知して街の位置を特定しそこへ向かっている最中である。
「バアル様は正体を隠して行かれる予定なのですね?」
「その通りだ。正体を話したら観光どころではなくなるだろう」
「ならば人間らしい行動が必須です。ですがバアル様……人間世界の常識はご存じですか?」
常識。
それはバアルにはなかった言葉である。
魔界ではバアルが頂点であり、バアルこそが法であり絶対のルールだった。
しかしここは人間世界。
そんな理屈が通じるはずも無く、常識を知らねば排除されるのはバアルである。
「……考えてみたらまったくわからんな。ルインは?」
「私は一度来ていますので、ある程度は把握しております。そこでバアル様には守っていただきたいことが三つございます」
「ふむ」
ルインは返された一言を肯定だと捉え、指折り数えその三つを話し始める。
「人を殺さないこと、人から奪わないこと、魔力を解放しないこと。この三つでございます。何かご不明なことは?」
バアルはルインに言われた三つを吟味する。
数秒考えてルインに言葉を返す。
「殺さぬ奪わぬは理解できる。だが、魔力を解放しないというのは何故だ?」
「簡単なことです。人間やこの世界の魔獣、植物に至るまでの全てが、魔力への耐性が低く我々の魔力を浴びただけで死に至るからでございます」
「なるほど」
魔界では禍々しい魔力が常に渦巻いているため、大地や岩などは魔力を吸収し異常な硬度へと進化している。
故にバアルが魔法を放ってもクレーターが生まれる程度ですむが、人間世界ならばそれこそ国が消滅するだろう。
国家の転覆や崩壊などの意味ではなく、文字通りの消滅である。
(寿命や病、外傷でも死ぬというのに、さらに魔力にも弱いとは……人間とは脆い生き物だ)
悪魔であるバアルやルインは老いることは無く、病に侵されることも無い。
さらに受肉している肉体が朽ちようが魔力の肉体が消え失せようが、数日もすれば弱体化こそすれど肉体は再生されるのだ。
そんなバアルには人間が非常に脆い存在に写っても仕方の無いことであった。
そんな人間の世界が自分を満足させ得るのかという疑問がバアルの脳裏をよぎる。
バアルはそれを振り払い、目的地の人間の街を目指し再び歩き出した。
◇ ◇ ◇
「ここか」
バアルの目の前にあるのは堅固な外壁。
並大抵の攻撃ならば簡単に防げるであろう重厚な壁が視界全体に広がっていた。
さらにその中央には鉄の柵を加工したような門がそびえ立つ。
その前には門番と思われる武装した人間も立っており、力押しで破るのは不可能に近いだろう。
もっとも、それは人間ならばの話であり、バアルなら片手間で破壊できる代物だった。
その前まで移動すると、他にも複数組の人間が並んでいる。
「ルイン、この者達は何故並んでいるだ?」
「推測ではありますが、何かしらの審査のようなものがあるのではと愚考いたします」
「審査だと? 何故そんなものをする必要がある」
「恐らくは危険人物などを入れないようにするためかと」
バアルはそう言われて一応は納得したが、何かあったら力でねじ伏せればいいという悪魔には理解し難い考えだった。
今騒動を起こすのは避けたいと考えて、バアルはおとなしく並んでいることを選んだ。
特に何をするでも無く、ただ待っていたバアルとルインの耳に一つの声が響いた。
「おい、そこの兄ちゃんよお」
「む? なんだ貴様らは」
振り返るとそこには二人の男が立っていた。
ニヤニヤと腹が立つ笑みを浮かべて、バアルに近付いてくる。
「いやなぁ、俺達急いでんだわ。ちょっと譲ってくれねえか?」
「断る」
「ああ、ありがとよ……って、なんだと? 俺達に逆らおうってのか?」
バアルはすぐさま断るも、その男達は青筋を浮かべている。明らかに苛立っている様子だった。
その自分勝手な態度にバアルは今すぐ跡形も無く消し飛ばしたい衝動に駆られるが、ルインの注意を思い出しグッと我慢する。
だがそれ以上にブチギレていたのがルインだ。
自分がバアルに注意をした身であるからか堪えてはいるものの、そうでなければ目の前の男達の命は等に消えているだろう。
数々の奇跡が重なった結果生きながらえている幸運にも気付くことなく、男達は更に言葉を続ける。
「おいおい、俺達を知らねえのか? あの『岩人組』のメンバーだぜ? 身の程知らずな奴だ」
男達の一人が意気揚々とそう語るが、バアルには理解できない単語も含まれているし、身の程知らずと言われてもなんのことかわからない。
最早途中から怒りより困惑が強くなり、ルインに相談することにした。
『ルインよ、この男達は何を言ってるんだ? 単語はわかるのに会話が成立しない。もしや俺の言語野に異常が?』
『ご安心くださいバアル様。貴方様の言語野は正常です』
今二人が使用しているのは『魔法通信』という魔法技術の応用である。
思念を魔力に変えて通信を行うことで声を出すことなく会話を可能とする高等技術だ。一人が使えるだけでは一方的に発信することしかできないが、汎用性からとても重宝される。
繊細な魔力コントロールが求められるため、使えるだけで一国が確保に動くほどである。
「おいテメェ! 何黙ってんだよ!」
しかし、目の前の男達がそんなことを知るはずも無く、ずっと黙っていることに苛立ったのか、男達の内の一人がバアルの胸倉を掴む。
その時、その男の幸運は尽きた。
ルインが放った神速の裏拳が胸倉を掴んだ男の顎を捉え、男はそれに気付くことなく意識を手放し膝から崩れ落ちた。
もう一人の男は何が起きたかも理解できず、呆然と立っている。
「……え? お、おいなにしやが━━ひぃ!?」
ようやく理解できた男が見たのは鋭く光るルインの眼。
本能に宿る根源的な恐怖を引きずり出すような眼光に、思わず男はたじろいだ。
「失せろ。死にたくなければな」
ルインが冷たく吐き捨てると、男は倒れている男を担ぎながら大慌てで逃げ出した。
ルインは前に並んでいる者達の視線に気付き、小さく咳払いをしてから並び直した。
「見事な手際だ。流石だな」
並び直した際にバアルが微笑みながらそう告げる。しかし、当のルインは少しバツの悪そうな顔をしていた。
「申し訳ございません。バアル様に進言しておきながら私が破ってしまいました」
「なに、構わん。俺のためにとしたのだろう?」
「……はい」
ルインはどう言おうと見透かされることを知っている。
自分の意思を素直に伝えるルインにバアルは優しく笑った。
「ならば許すのが主というものだ」
その姿にルインは少々安堵する。だが、それは今のバアルの表情によって消え去ることとなった。
「それにルインが手を出したのだから、俺も少しくらいならば許されるだろう」
とても楽しそうな顔でバアルはそう呟いた。
ルインは思わず額に手を当て、小さく溜め息をつく。
『殺さないならば。しかし、するならば私に聞いてからにして頂けると』
『できるだけ善処すると約束しよう』
早くも少々疲れの色を見せるルインと実に楽しそうな表情のバアル。
二柱の悪魔の旅行はまだ始まったばかりである。