携帯電話
電話のベルが鳴っている。
暗闇の中、男は寝返りをうつとサイドテーブルに手を伸ばした。
「もしもし?」
「もしもし、あたし。ごめんね、こんな時間に」
若い女の声が受話器の向こうから響いた。
「今日も残業で、おまけに加奈子と駄弁ってたらすっかり遅くなっちゃって。あやうく終電を逃すところだったわ。なんとか間に合ったけど、混んでるうえに、まわりは酒臭いオヤジばかりでほんと厭になっちゃう。早く転職したいわ。次はもっと近い職場がいいな。どうせなら、あなたの家の近く。ウフ、あなたの家でもいいのよ、あなたのおうちに永久就職、なんてね。ちょっと、聞いてる?」
女は一方的にまくしたてた。少し酔っているようだった。
「そういえばもうすぐあたしの誕生日だけどちゃんと覚えてる? 去年みたいに忘れてたりしたら厭よ。まったくあなたったら、仕事一筋なのも結構ですけどね。あんまりほったらかしにしてると、いくら優しい彼女でも愛想尽かして逃げ出しちゃうわよ。これでも、言い寄ってくる男の一人や二人はいるんですからね。そうそう、営業の田中がしつこいのよ。あたし、ちゃんと断ったのに、あいかわらず色目を使ってくるの。どうもこっちが照れてるだけって思ってるみたい。ほんと救えないわよねえ、ああいう勘違い男は……」
男は何度か口を挟もうと息を飲んだが、女の口調はそれを許さない。
「ああ、やっと公園だわ。この公園、人気が無くてちょっと怖いけど。ほら、あなたも知ってるでしょ、こっちの方が近道なのよ。ああ、早くシャワーを浴びてベッドに横になりたいわ」
女はそう言って小さく欠伸をした。男はここぞとばかりにぐっと息を吸い込んだ。しかし……
「また、今年もここでお花見しましょうね。楽しかったわ、去年のお花見。あなたがボートから落ちそうになった時は慌てたけど。あなたが桜の枝を折ろうとして、いきなり立ち上がったりするからいけないのよ。そりゃ、あたしにくれようとしたのはうれしいけど、むやみに公園の花を折ったりしちゃいけないんですからね」
男はやれやれと肩をすくめた。女の話に割って入るのは、とうてい無理だと覚ったようだった。
「やだ、あの人もこっちなのかしら?」
女がいきなり声を顰めた。
「あのね、駅からずっとついてくる人がいるのよ。多分偶然だと思うけど……。帽子をかぶって、マスクをしているの。ちょっと怪しいでしょう、気持ち悪いわ。あっ、なんだか早足になったみたい……。あっ、駆けてくる! 怖い! キャァァー、何するのよ、離して! 大声出すわよぉ! 助けてぇー、痴漢、痴漢よぉー! 助けてぇ! あなたー! あなたぁー!!」
電話の向こうから、もみ合うような音と悲鳴が聞こえた。そして激しい息遣いが続いくやいなや、いきなりそれは切れた。
男は怪訝な顔をしてしばらく受話器をみつめていたが、やがてぽつりとつぶやいた。
「どちらにおかけですか?」