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翌日から、千秋と宗助の100m走練習が始まった。
千秋の部活、宗助の課外授業が始まるまでの午前中の時間と、放課後。二人は厳しいトレーニングを課した。
「よおおおし!!もう1周ぅぅ!!」
「何で俺だけ走ってるの!?」
右手にストップウォッチ、左手にメガホンを掲げて声援を送る千秋。校庭のトラックを走り込む宗助。既にストレッチを終えて、丁度300mジョグを2本流し終わったところだ。走るサモトラケのニケ像は100m走勝負を希望のため、短距離メニューをこなしている。といっても、文化部の千秋には陸上部の、それも短距離のメニューなど分からないので、宗助がクラスメイトに聞いたものを自身でアレンジしたメニューを採用している。
「私は文化部の“生涯現役”を掲げているので走りません」
「俺も帰宅部のエースなんだけど!」
「エースならつべこべ言わず走る!!」
メガホン越しに声を張り上げる千秋。彼女は木陰に持参したシートを敷いて座っている。顔にはサングラス(UVカット仕様)。腕には日焼け止め用アームカバー。つば広の女優帽を優雅にかぶり、気分はさながらオードリー・ヘップバーンである。
「納得いかないっ…!」
「そこ!無駄口叩かない!」
宗助は特に部活動に所属しておらず、自身で発言していたように「帰宅部」である。
が、しかし。
「100m、11秒42………」
(速くね?)
軽いメニューをクリアしてから、一度全力で100mを走ろうということになって、タイムを図ったところこの数字である。一瞬、自分の指が霊か何かのせいでやたら1,2秒早くストップウォッチを押してしまったのではないかと疑ったが、自分は確かに彼が白線を越えた瞬間にボタンを押した。格闘ゲームで鍛え上げた反射神経は伊達ではない。
「ち、千種君?君、帰宅部なんだよね?」
「ああ、帰宅部だよ」
「中学は?」
「帰宅部」
おかしい。100m走11秒後半はかなり速い方に分類されるのではないか。自分と同じ文化系だと侮っていたが、彼はどうも運動もできるらしい。勉強も運動もできて顔も良いとは何事か。眉がピクピク上下する。
「へえー運動できるんだね」
「たまにバスケ部の助っ人とかしてるから。助っ人って言っても、人数合わせとかだけど」
男子にしては少し長めの髪をかきあげて、ペットボトルのお茶を飲む宗助。全力で走ったわりには息も整っていて、滴る汗と体操服からたまにのぞく腹筋が色っぽい。男兄弟のいない千秋には刺激が強すぎた。いけないものを見てしまった気持ちになって目を逸らす。
普段は優しく弧を描く眉も、運動時には険しくなり、凛々しさが増す。これが美男子の力か。
「バスケやってたの?」
気まずくなって尋ねると、宗助は曖昧な笑顔で答えた。
「うーん、まあ。小学校の時は少年団とか入ってたよ」
「でも中学は帰宅部なんだ」
「一応、幽霊だけどバスケ部には所属してた」
「帰宅部じゃないじゃん」
「兼部だから」
帰宅部って兼部できるのか…?と疑問が湧いたが、歯切れの悪い宗助の様子を見て質問をやめた。
宗助は「もう少し走る」とだけ言い置いて、走りに行ってしまった。木陰に取り残された千秋は、その後ろ姿に視線をやる。昨日ニケに追われて引っ張ってもらった時は(大変不本意ながら)胸を高鳴らせながら見つめた背中を、今日は心に蟠りを抱きながら見送る。強い風が一陣吹いて、千秋の肩まで伸びた髪をさらっていった。
「別に…気になるわけじゃないし」
口を尖らせて呟く彼女を表情を見たら、きっと赤縁眼鏡の友人は声を大にして言うだろう。気になるくせに、と。
「無理無理しびれるほんと無理」
「ずっと座ってるからだろ…」
宗助のトレーニングが一段落したところで、あまり遅くなってはいけないからと二人は練習を切り上げることにした。久しぶりに立ち上がった千秋の足は、バンビを通り越して携帯のマナーモード時のように小刻みに震えている。
「違いますぅー、昨日の筋肉痛の痛みもありますぅー」
「それもっとヤバいやつだよ」
普段運動しない痛手を昨日感じたばかりであったが、その苦しみは今日にも持ち越された。朝目を覚ますと太腿とふくらはぎがの筋肉が悲鳴をあげた。千秋も朝方から悲鳴をあげた。母親に朝からご近所迷惑だと叱られた。痛みと闘いながら登校し、部活動をこなし、放課後の特訓に参加していた。
宗助は呆れた表情を浮かべながら、上半身を奇妙に捩らせている千秋を見る。
「はいはい、早く立つ」
「うぉぉ鬼!悪魔!外道!」
「座ったままだと足に負担がかかるし、神経の麻痺も改善しないよ」
「……そうですね」
釈然としない気持ちになりながら、木の幹に寄りかかりながら体を支える千秋。足の痺れはまだ治らず、唸り声をあげることしかできない。その間に宗助は身支度を整え、千秋の使用していたシートやメガホン等を片付けてトートバッグにしまってくれている。少し申し訳なくなる。
「千種君てさ、この前の備品室の時も思ったんだけど。几帳面だよね」
「んー、そうかな?」
「そうだよ」
宗助は言葉を返しながらもテキパキと手を動かす。千秋が適当に片付けたライン引きやトンボを元の場所に寸分違わず戻し、ついでに近くのスコアボードの消し残しを綺麗にし始めた。彼の程よく日に焼けた手によってチョークの跡が消えていく。
「まあ、掃除とかは好きかな。備品室とかは物が散乱してて、掃除のし甲斐があるって燃えたし」
「変わったご趣味ですね」
備品室の掃除を始めてから口数が少なくなったのは、集中していたからなのか、と今更納得する。千秋は片付けができないタイプというわけではないが、掃除をするのは必要に迫られるからだ。他クラブの備品を片付けようとは今世紀では考えもしないだろう。
千秋の足が復活してから、二人は正門の辺りで別れた。
お互いに逆方向へ向かう。赤信号を待ちながら、しみじみと不思議な気持ちになる。
「つい3日前まで話したこともなかった同級生と、こうやって友達みたいに帰るの、不思議だなあ」
クラスも、出身中学も、部活動も違う。委員会が一緒と言っても、副委員長に面倒な仕事を押し付けられなければ、きっと卒業まで話をすることのなかった存在だ。そんな相手と、友人同士のように話をして、行動を共にしている。
人見知りではないけれど、積極的に人と関われない。それが千秋による自分自身への評価だ。初めて出会った人間に対して、当たり障りなくコミュニケーションを取ることはできるが、かと言って積極的に人に関わることは億劫だ。知人はつくれても、友人をつくることには苦労してきた。出会って3日の相手と、気安く話をすることができる人間ではなかったはずだ。
ところが、宗助に対しては数年来の友人のように接することができる。勿論、お互いに気を遣っているし、彼の気さくさに拠るところも大きい。”七不思議を封印する”という未知の体験を共にしているということもあるだろう。それでも彼に感じる親近感のような気持ちと、蟠りは何だろうか。
信号が青に変わったところで、考えることを中断して、ただ家への道のりを歩き続けた。