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千秋は東棟4階から、恐らく最後に下校している生徒を見送る。夏のため空はまだ明るいが、少し紫がかって群青色になっている。生徒がいなくなっただけで、シンと静まりかえる校内は、知らない場所のようだ。うるさかった蝉の合唱も聞こえない。まだ約束の時間まで余裕があったので、校舎を一周でもしようか、と歩き始めた。
飛燕高校を構成する建物は3棟に分かれている。便宜上、生徒や教師たちに「本館」「西棟」「東棟」と呼称されている。なぜ本館のみ”館”なのかは不明だ。「本館」は生徒たちの教室や、職員室、保健室等がある。「西棟」は「実験棟」とも呼ばれ、物理・化学・生物・地学の実験室が各階にある。「東棟」は芸術選択系の授業で主に使用される。美術室、書道室、第1,2音楽室と、音楽科専用の個室が幾つか所在する。千秋や夏実の所属する管弦楽部は第2音楽室を部室としており、特別に音楽科の専用個室も2,3室借りて練習している。
ここ飛燕高校は普通科と音楽科が設置されている。普通科は更に入学時上位を集めた特進クラスがある。1組がそれで、2〜6組は普通科普通クラス、7組が音楽科のクラスだ。元々県内トップの偏差値と伝統を誇る飛燕高校の、更に上位を集めた特進クラス。
「つまりトップ中のトップ、選ばれしエリート、のはず…なんだけど」
断言できずに、中庭の様子を見つめる。東棟から本館へ向かう1階渡り廊下の途中、人の叫び声と何か重いものを引きずる音に気付いて中庭へ向かうと、選ばれしエリートこと宗助が「無理無理無理ー!」と叫びながら走っている光景を目にしてしまった。何か白くて大きい物体に追いかけられているようだ。ゴゴゴゴゴという某人間讃歌漫画の如し効果音は、この白い物体が動く音らしい。半泣きで走る宗助には悪いが、選ばれしエリートの一員だとは思えない。面白かったのでスマホで撮影することにした。
笑いながら動画を撮影していると、宗助と目が合った。
「あ、これは怒ってますわ」
常は色気を放つ彼の垂れ目は殺気を放っている。口元は弧を描いているが、ニコリというよりニヤリだ。嫌な予感がした。
「ぎゃああああこっち来ないで!!!来るなああああああ!!!」
宗助が方向転換をして千秋に向かって走ってきた。当然謎の白い物体は彼を追って千秋に接近してくる。千秋も方向転換して走った。追われている人間を見ている分には何とも思わなかったが、実際謎の物体に追いかけられると物凄い恐怖だ。千秋はホラー漫画さながらの表情で走った。しかし悲しい哉、彼女の足は平均的な速さである。すぐに宗助に追いつかれた。
「ちょっと千種君!何でこっち来るの!?」
「そこに人がいたから!」
お前は山登りの理由を質問された登山家か、とツッコミたかったが息が持たなかった。
「それより後で写真消せよな!」
「だが断る」
写真じゃなくて動画だし、という言葉も息継ぎの関係上呑み込んだ。生涯文化部を掲げている千秋はそろそろ体力の限界を感じた。足が生まれたての子鹿よりも激しく、相棒の某刑事よりかは穏やかに震えている。後ろからは謎の白い物体Xが近づいてくる。後ろを振り返って確認する間はないが、音で近づいてくるのが分かる。むしろ音だけの方がよっぽど怖い。
「もっ、むり……!」
胸を大きく上下させて全身で息する。心臓が張り裂けそうな程脈打ち、痛い。千秋は音を上げた。
終わりだ--そう思った時、強い力に引っ張られた。宗助が千秋の右腕を掴んで走っている。千秋は足が縺れそうになりながらも、牽引する力に身を任せて足を前に出す。宗助の様子を知りたかったが、前を走る彼の背中しか窺えない。
中学校の学園祭のフォークダンス以降、男子と手を繋いだ経験のない千秋は、危機的な状況にも拘わらず頰が熱を持つのを感じた。厳密に言えば手は繋いでいないが。腕を引っ張られているだけだが。悔しいことに真っ赤になって黙り込んだ。
宗助に導かれるまま走り、本館に戻ってきた二人。いつの間にか物体Xの姿は見えなくなっており、上手く撒いたようだった。数分息を整えるために無言の状態が続いたが、先に宗助が復活した。
「スマホ」
「第一声がそれか!」
泣く泣く宗助にスマホを渡し、動画を削除された。良い出来だったので残念である。
千秋は未だときめく、ではなく高鳴る心臓を落ち着かせながら話し掛ける。
「さっきのあれってさ」
「七不思議、だろうね」
「普通だったら、”歩く二宮金次郎像”とかだよね?」
「走ってたけどな」
物体Xが何かを見極める前に追いかけられてしまたため、謎は謎のままであるが、二人の共通見解としては何かの像ということになった。間違いなく人間ではない。そして像が走るはずはない。信じ難いが、校長の言っていた話しか浮かんでこなかった。
「けど、うちに二宮金次郎の像ってあったっけ?」
「いや、なかったと思う」
「他にある像は……」
「サモトラケのニケですね」
唐突に現れた声の方向を見遣ると、アライグマ校長が立っていた。黒と白の縞模様の入った尻尾を振っている。可愛らしいことに腹が立った。
「君達が遅かったのでこちらから来てしまいましたよ」
いつも登校しているのに見てないのですか、と問われる。千秋は興味がなさすぎて思い出せなかった。
「サモトラケのニケが、走っているんですか?」
「正面玄関に行って確認してもらってもいいんですよ」
宗助の質問に柔和な表情で答える校長。現在地点から正面玄関は近い。二人と一匹は場所を移して正面玄関の様子を見た。あるべき場所に、あるべきものがないことを把握する。
「あれってどうすれば良いんですか?」
「お札を渡したでしょう」
「サモトラケのニケに、お札を貼れば元に戻るんですか?」
「まあ、恐らく」
渡されていたお札を鞄から取り出して見つめる。やはり何が書かれているのか、効力はあるのか分からないお札と、校長の曖昧な答えに心配になった。
「大丈夫ですよ、それは知り合いの神主に書いてもらいましたから」
「昨日言ってた、同級生の方ですか?」
「ええ。昨夜3分で書いてくれました」
「不安しかなんですけどおおお」
何も安心できなかった。おろおろする二人を尻目に、校長は玄関を進んで行く。何か妙案でもあるのかと校長について行くと、校長は手に持っていた革靴を置いて履き始めた。
「それでは僕は帰ります」
「助けてくれないんですか!?」
「今夜はワイフとディナーの約束があるので」
気取った言い方してんじゃねーぞ。
二人の信じられない、という表情もどこ吹く風で、校長は笑顔で答える。
「20時までは学校を解放していますので、それ以降は帰りなさい。1ヶ月、頑張って」
それだけ言い置いてスタスタと帰宅する校長。赤い夕日が背中を照らす。BGMには謎の物体X--サモトラケのニケ像が走る異様な音が響いていた。




