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澄み渡る青い空。
真っ直ぐ伸びる花壇の向日葵。
蝉の合唱を届ける風は温かい。
「夏だなあ」
校庭でシートノックをする野球部を見下ろしながら、千秋は呟いた。
夏休みといえども、高校生には補修や部活動が待っている。なかなか学校は彼らを離してはくれない。千秋も例に漏れず、管弦楽部の練習に参加していた。夏休み明けにある学園祭での催しや、その後の定期演奏会に向けての練習があるのである。普段は集まりの悪い管弦楽部も、この期間ばかりは部長からの鬼電攻撃により参加率が急上昇する。今日も夏休み初日でありながら、ほぼ全員参加で臨んでいる。今は午後の合奏のため、隣の第2音楽室にほとんどの生徒が集まっている。
基礎練しなきゃな、と思いながら、手元のお札をぼんやりと見つめた。
時間は遡り、今朝。つまり終業式の翌日。
千秋は校長室に向かっていた。一晩寝て、頭の中が非常にクリアになっている。
(やっぱりどう考えてもおかしい話だわ。変なことに付き合わされる前に、きっぱりと断ろう)
校長の顔がアライグマになっていたことはさておき、昨日の支離滅裂な話になど付き合っていられない。それが千秋の出した答えだった。大体、昨日下校した時も、花子さんだとか人体模型だとかの怪奇現象には遭遇しなかった。ちょっと期待していた自分に恥ずかしくなった。
校長室の扉をノックして入室すると、そこには宗助もいた。今日も今日とて素晴らしいご尊顔である。
「千種君、はやいね」
「やっぱり気になってね。小牧さん、おはよう」
「おはよう」
「二人ともお早いことですね」
軽く挨拶を交わして、校長に視線を向ける。そこには、昨日と同じく大きな黒目をパチパチとさせるアライグマ校長がいた。相変わらず、小憎たらしい程に愛らしい。
高校の校長室に初めて入ったため、物珍しくて数秒周りを見渡した。床はフカフカのカーペットで、棚も職員室に置いてあるような機能重視のものではなく、重厚感あるマホガニー製のものだ。壁には歴代の校長の写真が飾ってある。壁に飾りきれなかったのか、1代前の写真が棚の上に置かれているが、何故かその前に梨が置かれている。遺影みたいだからやめた方がいい。
「校長先生、昨日のお話ですけれど--」
「皆まで言わずとも分かっています」
千秋が口火を切ると、校長は軽く手を挙げて最後まで言わせてくれなかった。手は人間のままであるため、なんとなくアンバランスだ。
「お札を取りに来たのですね」
「何も分かってなくて驚きを隠せないです」
アライグマの答えにゲンナリだ。千秋は肩を落としながら話を続けた。
「封印だとか何だとか、意味の分からないことをするつもりはありません、という話です」
「おや、それは残念ですね」
「申し訳ありませんが、お話はそれだけです。失礼します」
「まあ待ちなさい」
手短に用件を告げると、もうこんな場所には用がないとばかりに扉へと向かう。しかし、校長に呼び止められて足を止めた。一瞬無視しようと思ったのは内緒だ。
「17時にまたここへ来なさい」
「17時に、ですか?」
「それってもう下校時間じゃないですか?」
校長に指定された時間に異議を唱えたのは、これまで沈黙を守っていた宗助だ。
夏季休業中は学校の開放時間は16時までとなっている。厳密に言うと、16時に学校を閉鎖するので、15時50分までには生徒は校外にいなければいけない。例外として大会前の部活は19時まで練習を続けることもできるが、文化部の千秋には関係のない話だ。
「ええ、17時に。それと念のため、このお札を渡しておきます」
校長はそれ以上詳しくは語らず、お札を渡してから二人を追い出した。
追い出された千秋と宗助は、手元の札を凝視する。
「何だろうね、これ」
「梵字ではさなそうだね」
縦20,30cm程の和紙に、文字というよりも記号のようなものが書かれている。宗助の指摘通り、梵字ではなさそうだった。
「そういえば、千種君は部活?」
「ううん、課外授業」
「あー、あれ取ってるんだ」
「うちのクラスは強制参加だから」
なんとはなしに質問すると、学生らしい答えが返ってきて相手が眩しくなった。夏休み中には課外授業が設けられている。普通クラスは希望制であるため、怠惰な生徒である千秋は申し込みをしなかったが、特別クラス様は全員参加らしい。夏休みにもほとんど毎日勉強とは恐れ入る。
「小牧さんも?」
「いえ、部活です…すみません…」
「えっ、何で謝るの?」
「なんとなく…」
模範的な優等生と話をしているのが忍びなくなり、卑屈になる。暫く会話をしてから、また17時にと約束して、別れた。
校長に無理矢理渡されたお札は、何度見ても解読不可能であった。上下左右、裏返してみてもさっぱり分からない。細長く波打つ形をした判子を、黒いインクで滅多押しにしたような図形だ。幼稚園児の落書きにも見え、これなら自分でも描けるなと思う小牧千秋。美術の評定はテストに助けられても万年2である。
「何してんの?」
どうしたものか、と思案していると、急に声を掛けられた。振り返ると、同じ部活の友人-本郷夏実が立っていた。彼女は手にクラリネットを持っている。眼鏡の向こうからアーモンド型の瞳に見つめられる。
「野球部見てた」
「うっそだー、その手に持ってるやつ見てたじゃん」
「いや見てたし、東山がファーストへの送球ミスって怒られてたし」
「東山ってソフトテニス部だと思ってたわ」
「哀れ東山…」
野球部を見ていたのは本当である。視界の端に留める程度ではあったが、東山のプレイは残念ながらバッチリと捉えてしまった。夏実は「まあ球技に変わりはないよね」と笑いながら、千秋の横の席に腰掛けた。夏実の明るい赤茶色の髪が風になびいて、ふわりふわりとしている。どちらかといえば白い彼女の肌に、赤いセルフレームの眼鏡と髪色はよく似合う。
本郷夏実とは高校の部活で知り合った。彼女は明るく、初対面でも人に臆することなく話しかける子だ。夏実のそうした積極性と、大らかさが気にいった千秋だが、たまに”大らか”というよりもただ”大雑把”なのではないかと思わされる時もある。勿論、そうしたところも好きで付き合っている。1年の時は違うクラスだったが、2年生では同じクラスにもなり、毎日仲良く過ごしている。ただし、終業式後に千秋を置いてカラオケに行ったことは忘れてはいない。今度ファストフードを奢ってもらう約束を取り付けている。
「てか千秋、ちゃんと練習しなよ。そろそろ練習時間終わるよ」
「うーーん」
練習の話になると途端に目を逸らす千秋に、夏実は今日何度目かの喝を入れる。千秋のセーラー服の襟を掴み、思い切り揺らす。ボタンが外れそうだからやめてくれと毎度思う。
「確かにオーケストラとアンサンブル形式だから、ピアノの出番は少ないけどさ!ちゃんと練習して私のソロの伴奏やってよ!」
「それが本音だよね!?」
「私もGod Bless The Child吹きたいーー!」
「バスクラだからなっちゃん吹けないじゃん!」
夏実に揺さぶられながら抗議する千秋。昨日宗助を揺さぶり回したことを反省した。人に揺さぶられるのって、こんなにも目が回って気持ち悪いんだな。
夏実は3年の先輩が定期演奏会で発表する曲を聴いてから、その話ばかりする。彼女自身はバスクラが壊滅的に苦手なのだが、どうしてもあの曲が吹きたいとバスクラの練習を始めたらしい。苦手を克服するのは立派なことだが、彼女が奏でる音色に苦しむクラリネットパートには同情を禁じ得ない。
「バスクラと言えば、千秋のお姉さん新聞載ってたね」
「うちの姉はヴァイオリニストですが」
「話の流れじゃん」
夏実が明るい声で話し掛けてきた内容を聞いて、反対に千秋は声を暗くする。手持ち無沙汰になって目の前のアップライトピアノの鍵盤を適当に押す。一ヶ月前に調律されたばかりのピアノは、正確な音程を響かせた。
「すごいよね、国内2位でしょ。こっち戻ってきたらレッスン見てほしいなー」
残念今年の夏は留学に行くから戻ってきません、という言葉は既のところで口の中にしまった。あまりこの話題を続けたくはなかったからだ。
千秋としては、姉の入賞は勿論誇らしいが、ユーフォニアム部門で優勝した大清水侑子さんの演奏が素晴らしいと話をしたかった。しかし、これもまた口の中にしまう。夏実相手だと藪蛇になりかねない。
どうやって話題を切り替えようかと考えをめぐらせていると、3年生に声を掛けられた。もうすぐ下校時間だという知らせだ。願ったり叶ったりと夏実に帰り支度を促し、用事があるからと別れた。鞄を手に、急いで階段を下りていく。そのまま校長室に向かう気にはなれず、足の赴くままに歩いていく。姉のことは、考えないように努めた。