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窓から降り注ぐ陽光は、カーテンに遮られてくぐもっていたが、それでも意識を失う前より傾いていることが分かる。元から薄暗い室内が更に闇を濃くしている。電気も点けずに話し合う二人と一体(?)は、微かな光を頼りにお互いを認識していた。
「こんな話をしたところで信じてなんかいないでしょうが、それは後で嫌でも分かるでしょう。君達には、封印を解いてしまった責任を取ってもらいます」
ゆっくりと言葉を口にする校長。重々しい口調と、明かりの差し具合から表情に陰がかかり、愛らしい顔はただの獣のそれに見えた。
「責任、というのは…」
校長のただならぬ雰囲気に、宗助の声音も硬い。千秋はただ黙って、二人の遣り取りを見守る。ゴクリ、と息を呑む音がやけに大きく感じられた。
「責任、というのは。あなた方に再び封印をしてもらう、というものです」
それは千秋が想像していたものとはかけ離れた返答だった。もっと何かを犠牲にしたり、苦しみを伴う行為をしなければいけないと思っていたのだ。ぷっと噴き出して、笑いながら答えた。
「封印って、どうやってやるんですか?私、霊感とかスピリチュアルな力なんて一切ないし、そんなこと素人にはできませんよ」
「俺も、特別な力とかは持っていません」
クスクスと声を上げる千秋に、宗助も同調する。そんな二人の反応にも、何一つ表情を変えることをしない校長。少し首を傾げる動作からやけに余裕を感じて、千秋の笑い声は勢いをなくした。
「私、肝試しで同級生が変なものを見た時一緒に居たことがありますが、そういうのが見えたことなんて一度もありません。千種君も霊感ないって言っていますし、そんな私達がどうやって封印するって言うんですか?」
焦りからか、恐怖からか、語気を荒くして言葉を発する。そうしないと、目の前の人物と対峙できなかった。
千秋は自身の発言通り、霊感といったものは一切ない。中学生の時に部活の合宿で肝試しがあった際、ペアの女子生徒が幽霊を見たと怯えた時も、見るどころか寒気を感じることすらなかった。表面上はペアの生徒を気遣い、理解を示したが、本音を言えば幽霊と七不思議とかの類を信じてはいなかった。そういうものは雰囲気に呑まれてしまったり、自分の願望や無意識が生じさせる現象だと思っている。今回の話も、信じる信じない以前の問題だった。
「君達が今、アライグマを見ていることが全てです」
「はい?」
「言ったでしょう、『早速霊が私の顔に取り憑いた』って。普通、人の顔がアライグマに見えることなんてありません。あなた方は現に今、心霊現象を目の当たりにしているのですよ」
アライグマはその黒目勝ちな瞳を細くした。そうすると、人間の校長の顔を彷彿とさせる。このアライグマは校長なのだ、ということを改めて思い知った。千秋は自分の心臓がバクバクと早鐘を打っているのを感じた。まるで耳元で太鼓が鳴っているように不自然だ。目前のアライグマの首から下が上等な藍色のスーツであることも不自然だ。なんで夏にサンタクロースのネクタイなんだ。意味が分からない。分からないことだらけだ。素数を数える余裕は、既になかった。
傍らに立つ宗助は、口数が少なくその心境をハッキリとは窺がえない。ただ、彼もまた困惑していることは間違いないだろう。
「心霊現象については、納得はしていませんが…一旦保留にしようと思います。その、問題の封印というのは、一体どうすればいいんですか?」
「良い質問ですね。以前と同様、札を使います」
「お札、ですか?」
「ええ、適当に梵字でも書いておけば何とかなるでしょう」
「えっ、そこ適当で良いんですか!?今までのシリアスぶち壊しですよ!?」
「今までの尺はなんだったんだ!」と叫ぶ千秋。流石の優等生の宗助も「まじか」と口を開けている。馬鹿みたいに口をあんぐりと開けていないところはポイントが高い。校長は鬱陶しそうな表情だ。
「今夜ネットで梵字を調べてお札を作っておきますから、あなた方は明日から責任を果たすように」
「えええー、そこはせめて、昔封印したとかいう神主さんに頼りましょうよ」
「当時の神主は数年前に亡くなりました。現在の神主は僕の同級生ですが、あんなのよりも私の書くお札の方が霊験灼かです」
「校長先生!何でそんなに自信満々なんですか!同級生に任せましょう!?」
「ちょっとこういうことしてみたかったんですよね」
お前それが本音だろ、と思ったがグッと我慢した。今日は忍耐を強いられる日だ。きっと仏滅か何かなんだと言い聞かせる。
「それではまあ、今日のところはお帰りなさい」
「まだ聞きたいことは山程あるのですが!」
「おーっと、職員会議の時間ダー」
完全に暗くなる前に帰るよう釘をさしてから、アライグマ校長は颯爽と去っていった。動物の足は速い。二人は追いかけることもできず、宙に掲げた手の行き場をなくしていた。出現も、話の内容も、そして退散も、すべてが急で突飛であった。
暫し無言でドアを見つめていたが、どちらからともなく「帰ろう」と言い、お互い自分の教室に鞄を取りに戻る。後に残された備品室は、床にファイルやエプロン生地、空き箱が散らかり、片付ける前よりも雑然とした状態になっていた。
「というかさ」
「千種君…?」
「梵字って仏教じゃない?」
「確かに」
「宗助!」
夕暮れが廊下を朱く染め上げる中、2年生の教室のある廊下を二人で歩いていると、鈴を転がすような声が聞こえた。耳に心地よい高さだ。きっとソプラノだろうな、と小学生の頃からアルトにしか振り分けられない千秋は思った。
「遅かったじゃない。内海さん、もうとっくに委員会終わったって言ってたから、どうしたのかと思ったよ」
「春田、ごめん。先輩に他の仕事頼まれてて、それやってたら時間掛かったみたい」
1組の教室から飛び出してきた女子生徒は、宗助に用があったらしい。チラリと千秋を見て、軽く会釈をしたので心の内で“良い子”認定をした。礼儀のなっている女子生徒だ。身長は平均くらいありそうなので小柄とは言わないが、華奢な印象を受ける。美しい黒髪をハーフアップにして、背中に流している。どうやったらそんなに綺麗に髪を伸ばせるんですか、と聞きたくなった。1組の教室から出てきたということは、彼女も特進クラスなのだろうか。
彼女は陶磁器のように滑らかな肌をうっすら桃色に染めて、宗助を見上げている。その表情、その視線が全てを語っている。
(きっと千種君のことが好きなんだろうな)
だがそいつはやめておけ、あとで泣くぞ、と老婆心ながら物申したい。彼の実態というものは知らないが、火のないところに煙は立たぬ。君子は危うきに近寄らず。やめておけ、と思う。
「小牧さん、彼女が来たから帰るね」
「付き合ってるんかーい」
何だよ既に恋人同士かよ、そりゃあんな顔するわ、と独り言ちる。一人で勝手なことを考えていた自分が妙に恥ずかしく感じて、顔を背ける。思わず口から飛び出てしまったツッコミに、二人は怪訝な顔をしたものの深くは追求しなかった。
「大丈夫?途中まで送っていこうか?」
「いっ、いえ、結構です……」
「そっか。じゃあまた明日。気をつけてね」
「うん、じゃあね」
深くは追求しなかったが、頭の心配をされてしまった。不本意である。
しかしながら、何が悲しくて恋人同士のささやかな時間を邪魔しなければいけないのか。そもそも彼女--春田さんの気持ちを考えてやれよ、と内心毒突きながら別れを告げた。春田さんは帰り際に、もう一度会釈をしてから帰った。やはり良い子だ。
二人が廊下の角を曲がる頃に手を繋ぐところまできちんと見送り、何となく虚しい思いを抱えながら、自分の教室へと向かう。その足取りは、どこか重かった。