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人間は死の危機に直面すると過去の出来事が走馬灯のように駆け巡ると言うが、千秋の脳裏に浮かんだのは、せいぜい2,3時間前の記憶だった。
県立飛燕高校の夏前の終業式。抜けるように青い空と、木々の緑が目に眩しい晴天の日。茹だるような暑さの中、全校生徒が体育館に集められること一時間。更に冷房が作動しているのか疑問な大会議室で学年集会を行うこと一時間。最後の一撃とばかりに、点検のために冷房使用禁止の各教室でのホームルームが30分。生徒達は大掃除を迅速かつ的確に遂行し、競うように学校を後にした。ただ一部の生徒を除いては。
「アイス…食べたい…」
一部の生徒に含まれる小牧千秋は、環境衛生委員会の仕事のために、洗剤類を腕に抱えて廊下を歩いていた。普段は仕事が少ないが、学期末に仕事があるため終業式といえど早く下校ができない、得なのか損なのかよく分からないのが環境衛生委員会である。千秋の友人達は、彼女を置いてさっさとカラオケへ繰り出してしまった。損だとしか思えない。
「蒸し暑い密室に監禁されてたからなー」
「私チョコミント味が食べたい」
「え、歯磨き粉味のどこがいいんだよ」
「歯磨き粉は人が口に入れても不快にならない風味に作られてるの。つまりチョコミントは美味しい」
同じく環境衛生委員会の東山涼平が両手にモップを手に軽口を叩く。2年生になってから初めて同じクラスになった彼は、明るく気さくなため、すぐに打ち解けることができた。アイスは何味が好きか、棒アイスとカップアイスだとどちらが好きか、そもそもアイスとソフトクリームの違いとは何かと、実に中身のない遣り取りを交わしながら、二人は目的の倉庫に到着した。倉庫では委員長を筆頭に3年生が忙しなく道具を片付けたり点検をしている。
「何年生?」
「2年4組です」
「おっけ、じゃあ洗剤類はあっち、モップはこっちに、あとバケツはそっちに置いてね」
副委員長のこそあど言葉に頭を右往左往させながら、二人は同時に声を上げた。
「バケツ!」
「教室!」
忘れないようにと教卓の上に置いて、そして堂々と忘れてきたバケツの存在を思い出した。そのバケツを取りに戻らねばならない。二人は目だけで会話を交わし、次の瞬間には構えをとっていた。
「じゃーんけーん、ぽん!」
一方はグーで、一方はチョキ。勝敗は分かたれた。
かくして東山は来た道を戻り教室までバケツを取りに戻ることとなった。項垂れる東山の後ろ姿を見送り、千秋は道具を指示された位置に戻す。教室へ戻って東山を一頻り笑い、さっさと帰宅しよう。
「あ、そこの2年待って。君達さ、悪いんだけど、備品室の整理に行ってくれない?他の人達には別のこと頼んでて、人手が足りないんだ」
気配を消して倉庫を去ろうとした目論見は失敗し、副委員長に呼び止められる。申し訳なさそうに眉を八の字にして頼む副委員長を見ると、「だが断る」という言葉も喉から出てこず、頷くことしかできなかった。
申し訳なさそうな表情から一転、副委員長はニヤリと口角を上げて、人の悪そうな笑みを浮かべる。千秋は断れなかった自分を心の中で殴った。
「ありがとう、よろしくね。えーと、小牧さん?あと、千種君」
副委員長に指名されてやってきた備品室は、西棟1階に位置する。衛生環境委員会がよく使用する道具類や書類等は倉庫に置いてあるが、使用頻度の少ないもの、なんとなく捨てられない物を備品室に保管している。ただし、衛生環境委員会以外の委員会の備品も押し込まれているため、室内の様子は物を捨てられない人の部屋を思い起こさせた。
埃をかぶった棚の上を姑よろしく一撫でして、千秋は溜息をついた。これは面倒な仕事を押し付けられてしまった、と。
「小牧さん、俺はこっちの棚を片付けるから、そっちの棚をお願いしてもいいかな?」
副委員長から直々に指名されたもう一人、千種宗助が棚を指差しながら提案する。
「うん、分かった」
「ありがとう、よろしく」
異論などあるはずもなく、千秋は素直に宗助の案を受け入れ、お互いに作業に取り掛かった。ぽつりぽつりと会話をしながら、二人は手早く掃除をしていく。
自分の担当範囲が一段落ついた頃、千秋は斜め後ろで作業に熱中する宗助を盗み見た。
ひょろりと長い身長は180cm近くあろうか。少し長い髪は明るい茶色で染められている。ちなみに飛燕高校は校則が学校指定の制服を着ること以外自由であるため、染髪やピアスの生徒も多数存在する。横顔だからこそよく分かる通った鼻筋。目は垂れ目で、左目の目尻に泣きぼくろがある。甘い色気を感じさせる顔立ちだ。所謂美男子に分類される彼は、おまけに特進クラスに所属している。顔良し、頭良し、性格も良し(友人談)ということで、彼はなかなか人気があるらしい。確かに、掃除の範囲分担の時も、千秋に比較的物が少ないエリアを割り振り、自分はゴミ山と表現しても差し支えないエリアを進んで掃除している。出身中学もクラスも違うため今回が初めての会話であったが、相手が不快にならない範囲で質問したり、からかったりしてきて、コミュニケーション能力の高さを感じさせる。
(でも、チャラ男なんだよね)
人より秀でた部分のある人間は噂になりやすい。容姿も能力も秀でている彼は、女子生徒達の間で頻繁に話題に上がる。どこそこの中学出身らしい、誰々と付き合っている、好きな数字は2だそうだ、先輩に告白されたらしい。噂話には盛大に尾鰭がついているだろうが、彼がかなりの数の女子生徒と付き合っていたことは本当らしい。付き合ったり別れたりを繰り返しているということで、千秋は勝手に“チャラ男”の称号を贈っていた。
「終わった?」
「ううん、あと少し。千種君は?」
「こっちはもうちょっと時間かかりそうかなー」
千秋の視線に気付き、宗助は振り返って微笑んだ。イケメンの笑顔は目に優しく心臓に悪い。顔に血液が集中するのを感じて、心の中で備品室が薄暗いことに感謝した。顔を不自然にならないよう逸らし、「さっさと片付けちゃおう!」と心持ち声を張って作業を再開する。それに宗助も同意し、ゴミの選別を始めた。
会話もなく作業を進めていると、頭上にパラパラと埃が降ってきた。前髪についた埃を払いながら振り仰ぐと、堆くファイルやバインダーが積み上がった山が、不穏な音を立てている。千秋が大雑把に棚の整理をしていたことで、絶妙なバランスで均衡を保っていた書類の山が崩壊しかけているようだ。これではいつか雪崩を起こしてしまうだろう。身の危険を感じ、手元の薄汚れたエプロン-家庭部が使用していたものか、家庭科実習で生徒が製作したものかは判断できない-を一旦元の場所に戻し、足場にできるものを探した。
(あ、脚立があるじゃん)
図書室などによく置いてある古い脚立を見つけ、さっそく運んできて棚の上の整理を始めた。埃を雑巾で拭い、平積みされているファイル類を立てていく。要らなさそうだと勝手に判断したものは、床に置いてある“あとで捨てるBOX”に放り込んだ。ファイルが高いところから落ちる音と、脚立の悲鳴に気付き、宗助は後ろを振り返って驚いた。
「小牧さん、危ないよ!」
「うーん、あとちょっとで終わるし、多分大丈夫…」
「脚立の音が明らかにまずいけど!?」
千秋は宗助の言葉には振り返らず、手元のファイルを見ながら答えた。その間にも脚立からはギイギイという音に人の悲鳴を足したような音が聞こえてくる。
「その脚立やばいって。違うのにするか、せめて俺と交代しよう」
「いやー、でも、あと少しだし」
焦る宗助には取り合わず、千秋はマイペースに作業を続ける。書類の山もある程度片付いてきた。終わりの兆しが見えたので、下で不安そうに見上げている宗助を安心させるべく振り向いた時、重心を移動させたのがまずかったのか、それとも最近雪見大福を食べ過ぎたのがまずかったのか、脚立がとうとう支えきれないとばかりに壊れた。
千秋は驚きに目を見開く宗助と目を合わせながら、美人は驚いた顔も綺麗だなと、呑気なことを考えながらゆっくりと落下していった。
そして物語は冒頭に戻る。
初投稿です。
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