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雪のマレビト  作者: 衛地朱丸
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一月三日

 その少女はあまりに幻想的で美しかった。山頂で猛吹雪に遭い、死神の迎えが訪れようとしている最中。目に映るのは美しい月に照らされた、長い黒髪を降ろし、着物に身を包んだ十歳前後の少女。

 薄れゆく意識の中、私は確信した。彼女こそ私が追い求めていた、〝雪のマレビト〟だと――。



「先輩! 先輩! 起きてください」

「んっ……」

 耳元で囁く後輩の声に促され、私は覚醒する。揺れるバスの音を子守唄にして、いつの間にか眠っていたみたいだ。

「めっ! お話中に寝るのは、マナー違反です!」

 私の額に人差し指を当て、まるで子供をあやすように注意する女性。彼女の名は不来永里美(こずながさとみ)。大学で同じ研究会に属している後輩だ。

 橙色のニット帽を被り、紺色のマフラーを首にかけ、腰まで伸びたベージュのコートに身を包んだ里美。身長は百六十センチほどで、おさげの髪に眼鏡をかけている。

 世話好きでしっかり者のことから、自分よりよっぽど大人びて見える女性だ。

「いやぁ。すまない。ほど良いあったかさで、ついウトウトとしちゃってさ」

 私は頭をかきながら謝罪する。何せ大晦日に帰京して三日の始発でこっちに出て来たもんだから、正月疲れが身体から抜け切っていない。

「もうっ! 今からそんなんじゃ、マレビト祭まで身体が持ちませんよ?」

「大丈夫、大丈夫。里美の家の手伝いもちゃんとこなして、無事に本祭を迎えてみせるよ」

「先輩の大丈夫ほど頼りないものもありませんけど……。去年の冬、雪姫山の山頂で死にかけたことを、もう忘れましたか?」

「うぐっ!」

 あの時意識を失った自分を必死に看病してくれたのが里美だって話だし、そこを突かれると反論のしようがない。

「今度また無茶をするようなら、縄で縛って納屋に監禁しますよ?」

「ははっ。それだけは勘弁」

 ギラッとした目で睨み付け、警告を発する里美。普段真面目で冗談を言わないだけに、本当にやるんじゃないかと戦慄を覚えてしまう。

(それにしても、あれは幻だったのだろうか、それとも……)

 雪山で見た幻覚だと解釈するのが自然だろう。でも私は、実際に雪のマレビトと邂逅し、命を助けられたとしか思えない。遭難時、私は山の麓で発見されたと聞く。山頂で意識を失ったのにも関わらずだ。

(また行けば、彼女に逢えるのだろうか?)

 確かめなくてはならない、自分が見たのが本当に雪のマレビトかどうかを。里美には悪いけど、私はまた挑戦するだろう。雪のマレビトとの再会を果たすために――。



「ん?」

 物思いにふけながら、閑散とした車内に目を向ける。すると、眠りに就いている間に乗客が増えていた。

「あっ!」

 右斜め向かいの窓際に座り、不機嫌そうな顔で外の景色を眺めている少女。その姿に、私の目は奪われてしまった。

(雪の……マレビト!?)

 小柄な背丈に、腰まで伸びた真っ白なロングストレート姿の少女。自分が見た雪のマレビトとは、外見が異なる。でも、まるで異次元より現れたかのような幻想的な容姿は、雪のマレビトとしか形容のしようがなかった。

「何だ? ジロジロ見て?」

 少女が私の視線に気付いたらしく、こちらを向いて睨み付ける。

「えっ! えっと、その……」

 少女は色白の肌で、カラーコンタクトでもしているのだろうか? その瞳は赤く染まっていた。白い髪と相成り、より幻想的な雰囲気を醸し出している。

「答えろ! 私の外見が気になるんだろう? そうだろう!?」

 少女は敵意を剥き出しにし、一方的に問い詰めてくる。

「うっ、うん!」

 私は気圧されて、正直に頷く。

「そうだろうな! 他の奴と同じで、お前も!!」

 その一言が逆鱗に触れてしまったのだろう。少女は袖をまくり上げ、怒り心頭でドスドスと足音を立てながら、にじり寄る。

「不愉快だ! 侮蔑の目で見られるのは!!」

 少女は座っている私を見下ろすように自分の顔を近付けて、怒鳴り散らす。

「……」

 間近で少女の顔を見られ、私は言葉がなかった。

「黙ってないで、何とか言ったらどうなんだ!!」

「ごっ、ごめん! 君があまりに綺麗で可愛かったから、つい見惚れちゃって……」

 私は胸をドキドキさせながら、正直な感想を述べる。

「かっ、可愛いだと!?」

 意外だったのか。少女は私が言葉を発した瞬間、目を見開いた。

「うわわっ!」

 刹那バスが右折して、少女はバランスを崩してしまう。

「うわっ!」

 そして少女はそのまま私に突っ込むように倒れ込む。

「ううう……」

 顔を私の股間に接触するように倒れる少女。際どい態勢に、私はどう対応したらいいか分からなくなる。

「な、な、な……何をする貴様ー!!」

 自分の置かれている状況を理解したのか、少女は声をあげながら狼狽する。

「いっ、いや、今のはどう見ても君の不可抗力で」

 私は何も悪くないと思うんだけど。

「うるさい! 黙れ! この変態が!!」

 少女は赤面した顔で、私の脚をポカポカと叩きながら訴える。

「大丈夫だ、問題ない。小学生は射程範囲外だ」

 基本的にロリコンじゃないので、万が一にも少女に性的な欲情を抱くことなどない。

「小学生だと!? 私は十四歳の中学生だ!!」

「えええー!?」

 顔を上げて力説する少女。身長は百四十センチほどで、どう見ても小学生にしか見えなかった。

「この恥辱、絶対に忘れんぞ!!」

 少女は真っ赤に染まった顔を上げて、私を凝視する。

「貴様! 名前は!?」

 そして唐突にビシッと指差しながら、私の名前を訊ねてくる。

「えっ!?」

「教えろ! 私に屈辱を与えた者として、永遠に脳裏に刻んでやる!!」

「えっと。宮本都人(みやもととびと)だけど」

 私は戸惑いつつも、名前を教える。

「都人か、決して忘れないぞ!」

 少女は捨て台詞を吐いて、踵を返す。

「待って!」

 私は声をあげて、少女を引き止める。

「何だ?」

「君の名前を、教えてくれないかな?」

「なっ!?」

 少女は私の方を振り向き、戸惑いの表情を見せる。

「こっちが教えたんだから、当然君も名乗るべきじゃないかな?」

「そっ、そうだな……」

 少女はコホンと咳払いをして、しばらく沈黙する。

「私の名は、茉莉雪菜(まつりせつな)だ!」

 少女は右手を胸に当て、バス全体に響き渡る声で名乗った。

「雪菜か。名は体を表すって言うか、ピッタリな名前だね」

「フン! わざわざ教えてやったからには、貴様も忘れるなよ!!」

 そう言い残し、雪菜は不機嫌そうに自分の席へと戻って行く。

「ふぅ」

 不条理な一幕が終わり、私はシートに深く腰かけながら溜息を吐く。何だか随分と攻撃的な娘だったな。

(でも……)

 その性格さえも含めて、魅力的な少女だと思ってしまう自分がいた。バスでの一期一会では、あまりに名残惜しい。またどこかで再会できればいいな。

「先輩、先輩!」

 しばらくすると、里美が小声で呼びかけてきた

「何?」

「先輩。茉莉雪菜さんって、今度のマレビト祭で招かれたアイドルですよ」

「えっ、そうなの?」

「知らないんですか? ポスターで大々的に宣伝されていたのに」

「ゴメン、ゴメン。下宿先には張ってなくてさ」

 私は呆れる里美に平謝りする。

(そうか。彼女が)

 今年から主旨を大幅に変えたマレビト祭に、雪のマレビト役として呼ばれた娘か。

 従来のマレビト祭が好きだったので、正直新しいのにはあんまり興味が湧いていなかった。

 それでも、話で聞いたマレビト役のアイドルは、少なからず気になっていた。誰が指名したかは分からないけど、なかなかいい人選だな。

 何はともあれ、雪菜がゲストして招かれたのなら、これから本祭が終わるまでの間、顔を鉢合わせる可能性が高いってことか。何だか、再会を夢見ていた自分が馬鹿みたいだ。

マレビト祭本番、一体雪菜はどんな格好で雪のマレビトを演じるのだろう? 頭の中に楽しい妄想が広がり、それからの移動中は飽きることがなかった。



 バスに揺られて約一時間半。目的地である平賀市雪郷(ひらがしゆきざと)地区へと辿り着いた。

 平賀市雪郷地区。数年前の平成の大合併で現平賀市に併合されるまでは、雪郷村と呼ばれていた自治体だ。

 人口三千三百四十二人。主要産業は農業、林業。あとは町の中心を流れる平賀川を中心に、温泉施設が点在している。

「むっ! お前もここで降りるのか?」

 私と里美が同じ停車場で降りたことに、雪菜は不機嫌な顔をする。

「そりゃあ、私たちも雪郷を目指していたからな」

「ふんっ! 付いて来るなよ」

 雪菜は不満顔で重そうなリュックサックを担ぎ、カートを転がしながら早足で私たちを追い越して歩く。私と里美はその後を付いて行く。

「何で付いて来る!」

「いや、私たちもこっちの方角だし」

「ふんっ!」

 早々に私を視界から消したいのか、雪菜は歩くスピードを速める。

「おい、そんなに早く歩いたら……」

 歩道は根雪が凍結して凸凹になっている。ただでさえ大荷物でバランスが悪い中早足で歩いたら、転ぶ危険性が高い。

「うるさい! 私に構うな!!」

 雪菜は勢いよく振り返り、怒鳴り散らす。

「えっ!? うわっ!?」

 その瞬間雪菜はバランスを崩し、後頭部を打ち付ける態勢で足を滑らせる。

「危ない!」

 考えるより早く行動し、私は雪菜に駆け付ける。

「とっと……わああー!」

 当然の如く私も足元を掬われ、スライディングするように転倒する。

「痛てて……」

 ミイラ取りがミイラになると言うか。だけど、雪菜のクッションになることで、何とか大事は免れたようだ。

「……」

「だっ、大丈夫?」

 自分に乗っかっている雪菜が無言なので、私は安否を訊ねる。

「あっ、ああ。この程度、どうということはない」

 雪菜はキョトンとした顔で、返事する。

「代わりに背負うよ」

 立ち上がると、私は雪菜のリュックサックを預かろうとする。背中が重さから解放されれば、若干楽になるだろう。

「断る!」

 だけど、雪菜は頑なに拒否した。

「また転ぶぞ」

「私は決して同じ過ちは二度と繰り返さないし、誰の手助けも必要としていない!」

 孤高を謳うかのように雪菜はせっせと荷物を持ち直し、不機嫌な顔で歩き出した。

「やれやれ」

 あの年代特有の反応かなと辟易しつつ、私たちは雪菜と距離を保ちながら歩き続けた。



「ようやく着きましたね、先輩」

 バス停を降りて約五分。私たちは目的地である民宿、雪風荘に辿り着いた。構造は民家を改築した木造二階建て。客室は八室と、小規模な民宿だ。

築四十年は経過しているって話だけど、去年の大震災を耐えたんだから、それなりに頑丈な作りなんだろう。

 宿泊料は一晩三千円とお手頃で、郷土色溢れる朝夕食付きなので、お得感は結構ある。

「何故ここまで付いて来る!」

 どうやら雪菜の宿泊先も雪風荘だったみたいで、後ろを振り向いて戸惑いの表情を見せる。

「なんでって、私もここに泊まるからだ」

「なに!?」

「ついでにここは、こいつの実家だ」

 と、私は里美の方を指差す。

「なっ、なんだとー!?」

「どうも。自己紹介が遅れました。私は不来永里美と申します。この度は当館をご利用頂き、真にありがとうございます」

 里美は営業スマイルで微笑みながら、深々とお辞儀して雪菜に自己紹介する。

「よっ、よろしくだ」

 雪菜はどう反応したらいいか分からず、ぎこちない返事をする。

「悪夢だ。私に数々の恥辱を与えた男と、祭が終わるまで同じ空間で過ごさなければならないのか……」

 雪菜はサーと血の気の引いた顔をしたかと思うと、慌ててコートのポケットからスマフォを取り出した。

「プロデューサー! かくかくしかじかこういうわけで、宿を変えて欲しいんだが……」

 そして、電話の主に懇願し始める。

「プロデューサー?」

 普通、アイドルの世話をするのはマネージャーだと思うんだけど。

「私の事務所は人員不足で、プロデューサーがマネージャー業も兼任しているんだ。……なにっ!? キャンセル料払うのがもったいないから却下だと!?」

 どうやら交渉は失敗に終わったみたいで、雪菜はガクッと肩を落とす。

「はぁ、仕方ない。これも運命だと思って、屈辱に耐えよう」

 雪菜は相変わらず失礼な態度で、玄関の前でうな垂れる。私と里美は、雪菜を気遣いつつ、先に中へと入る。

「ただいま、お母さん」

「お世話になります、智子(さとこ)さん」

「お帰り、里美。それど都人グン、一年振りだべぇ。元気しでだが?」

 引き戸を開け挨拶をすると、温かみのある東北弁で壮年の女性が出迎えてくれた。名前は不来永智子。里美の実母で、雪風荘の女将だ。

「ええ。お陰様で」

「そがそが。今年(こどし)四年生だべ? 卒業(そづぎょう)しだら、里美どの結婚の準備しねばなぁ」

「なぁっ!?」

 唐突に結婚の話をされてしまい、私は戸惑ってしまう。私は里美のことを親しい後輩としか見てないし、そんな気はまったくない。里美の方も自分を先輩としか見てないようだし、相思相愛だと思うのは、智子さんの希望的観測でしかない。

「おっかぁっ! 突発(とはづ)なごど(かだ)るでねぇ!」

 里美は顔を真っ赤にしながら方言口調で、智子さんに噛み付く。

「アハハ。冗談だべ。さっ、早ぐ(なが)さ入れ。今夜はご馳走だぁ」

 智子さんは一年振りの来訪がよっぽど嬉しかったのか、やたらと上機嫌だ。

「もう、お母さんたっら。すみません、先輩。お恥ずかしいところをお見せしてしまって……」

 里美は穴を掘って埋まりたい心境のようで、頬を紅潮させながら俯く。里美は地の方言口調が恥ずかしいらしく、普段は丁寧な標準語で喋ることを意識しているとのことだった。

 個人的には、方言口調の方が独特で可愛いと思うんだけどなぁ。おっかぁと言ったのをわざわざお母さんと言い直すのも、わざとらしい感があるし。

「邪魔するぞ」

 私たちが廊下に上がった直後、雪菜が渋々と玄関を潜る。

「おっ! お(ぎゃぐ)さんだべ。いらっしゃい。オラほの宿さ、ようこそおいででがす」

「東京から来た、茉莉雪菜だ。マレビト祭が終わるまでの短い間、世話になるぞ」

 雪菜は相も変わらないタメ口で、智子さんに挨拶する。

「おお! アンダが今年(こどし)のマレビト祭で、マレビト様やるアイドルだべ?」

 智子さんは雪菜の正体が分かるや否や、全身を舐め回すように観察し始める。

「ん~~ポスターより実物の方がめんこいべ!」

 どうやら自分と同じような感想を抱いたようで、智子さんは満面の笑みを浮かべる。

「めんこい?」

 知らない言葉を耳にし、キョトンとする雪菜。

「この辺りの方言で、可愛いって意味だよ」

「そ、そうか。可愛いか……」

 雪菜は智子さんに褒められたことが分かると、視線を泳がせて戸惑う。素直に感謝の気持ちを表せない性格みたいだな。

「荷物持つべ。こっぢさ寄ごしてけらい」

 智子さんは女将らしく、雪菜の手荷物を持とうとする。

「いい! 自分で持つ」

 相も変わらず、雪菜は頑なに拒む。私も智子さんも親切心で言ってるのに、どうしてそこまで拒絶するのだろう?

「そっだなごど言わねぇで、(わだ)すべ」

 ここで拒否されたら女将の面目丸潰れだという感じに、智子さんは再三要求する。

「断固として拒否する!」

 雪菜の方は雪菜の方で、一向に譲る気配がない。場は膠着状態に陥ろうとしていた。

「しゃぁねぇべ」

 雪菜の態度が変わらないと判断した智子さんは、苦笑しながら雪菜へと近付く。

「なっ! 何をするー!?」

(わだ)さねぇなら、アンダごど(はご)べば万事解決だべ」

 智子さんは軽々と雪菜を持ち上げ、荷物ごと部屋の方へと運んで行く。うーむ。一人で民宿を切り盛りしているだけあって、女傑な人だなぁ。

 呆気に取られながらも、私は智子さんの後に続いてギシギシと音の鳴る廊下を歩く。

雪風荘の一階は十六畳で六人がけの炬燵が三台置かれた大広間に、男女別の浴場。階段を昇って二階へ上がると、和室八畳の部屋が左右に四部屋ずつ並んでいる。このうち私の部屋は向かって右側、手前から二番目となる。

「ふぅ」

 私は部屋に荷物を置き、一息吐く。バスの車中から雪風荘に来るまで一悶着あったけど、ようやく腰を落ち着かせることができる。去年随分とお世話になった民宿なので、実家のような安心感とまでは大袈裟だけど、下手なホテルよりはよっぽどくつろげる。

「先輩。夕食までまだ時間ありますし、下でお茶しません?」

 荷物の整理を終えた頃、里美が部屋を訪れる。今は三時を過ぎたところだし、小休憩するにはちょうどいい時間帯だな。



「おっ、降りで来だな。こっちさ()らんさい」

 下に降りて大広間に向かうと、智子さんがお茶と菓子を炬燵の上に並べて出迎えてくれた。どうやらお茶会の準備は、既にできているようだ。

「都人グン、就職先(さぎ)は見づがったのが?」

 開口一番、急須に入った緑茶を湯呑みに淹れつつ、智子さんが訊ねてくる。

「それが、まだ見つかっていなくて。こっちで就職しようと思ったんですけど、なかなか」

 大学を卒業しても留まろうと県内企業を探したんだけど、正直大学で学び得た知識を活かせるような職業は、皆無に等しかった。

「東京に帰れば、職は有り触れているんでしょうけどね」

 だけどもう一月だし、今から優良企業の内定を取るのは不可能に等しい。この一年は雪のマレビトのことで頭がいっぱいで、就職のことは頭の隅に追いやっていた。その代償が思いっ切り跳ね返ってきただけだから、完全に自業自得だ。

「そが、そが」

 智子さんは自分もお茶をそそりながら、私の話に聞き入る。

「見つかりそうになかったら、震災関連の仕事を当たってみようと思います。沿岸の復興はまだまだ全然進んでいませんので」

 東日本大震災から十ヵ月ほどが経過している。沿岸はようやく瓦礫の撤去が終わったばかりだ。復興の道のりは遠い。

「去年は、本当に大変でしたよ……」

 私は記憶の奥底にしまっていた悪夢を、まるで昨日の出来事のように思い出す。



 震災当日、私は大学の情報処理室で、卒論の作成に当たっていた。雪郷地区を訪れて調べ上げたことをまとめていたら、突然揺れ始めた。

 未体験の震動に私は身震いし、急いで机の下に潜り込んだ。揺れは一分以上も続き、収まった時には、周囲に机の上に置いていたあらゆる物が散乱していた。パソコンは落下していなかったものの、電源は切れていた。

 保存しかけのデーターが消えたことに意気消沈している間もなく、私は落下物の整理に当たる。三十分ほど片付けをして、大学を後にする。

 下校すると、校内はおろか、外の信号機も消えていた。一斉停電。バスの停車場やコンビニに群がる人々。下宿先までは徒歩だし、食糧は帰ってからゆっくりと買えばいいと、家路を急いだ。

 下宿先に帰ると、部屋は見るも無残に荒れ果てていた。棚に置いていた物は、倒壊した棚ごと散乱していた。呆然自失としながらも片付ける。

 五時過ぎには暗くなり、灯りがないのではと片付けを中断。夕食を買おうと、近所のスーパーに向かう。ところが、震災の影響で閉店していた。

 仕方なく、三十分ほど歩いた先にある大型商業施設を目指す。だけど期待空しく、そこも開いてなかった。

 戦果を得られないまま無駄に腹を減らせ、私は意気消沈のままアパートへと戻る。道中ふと空を見上げると、眩い星々が光り輝いていた。地平線の彼方まで灯りが存在しない世界。プラネタリウムも顔負けの、美しい夜空。街中でこんな鮮明な星空を眺めることはもう一生ないだろうと、感慨耽りながら帰路に就いた。

 電気ガス水道、すべてのインフラが供給停止。カップ麺はあるのにお湯が沸かせなければ、意味がない。

 仕方ないので、炊飯器の中に残っていた固い冷や飯を食する。その日は雪がちらつくほど寒かった。家には反射式ストーブがなかったので、早々に布団に潜り込んだ。

 翌日。冷蔵庫に残っていた食糧で腹を満たしながら、部屋の片付けの続きをする。午後の三時頃ようやく電気が復旧し、私は歓喜する。

何せ停電の影響で、文明的な生活が一切できなかった。電気のありがたみと現代文明の脆さを、一片に実感した一日だった。

 通電すればさすがに営業再開するだろうと、私は食料の確保に向かった。幸い、近所のスーパーは営業を再開していた。

だけどいざ店内に入ってみると、食料品は何も置いてなかった。

 いつも行けば、有り触れんばかりの食料が山積みになっている。特売品以外は滅多に売り切れにならず、賞味期限内に売り切れるものだろうかと、スーパー側の在庫事情を心配するほどだった。

 普段そう思っていただけに、完全に油断していた。まさか、棚がガラガラになったスーパーを垣間見ることになろうとは、想像だにしていなかった。

 食料確保もままならず、トボトボとアパートへと戻る。空腹を少しでも紛らそうと付けたテレビを見て、自分がいかに救われたな環境下であるかを自覚させられた。

 テレビに映るのは、この世のものとは思えない光景。悪夢と言わんばかりの惨劇。これが夢だったらどれだけ幸せだったことか。

 巨大な津波に流される家々。人々の阿鼻叫喚の声。ここから山を隔てた車で二時間ほどの沿岸部が、地獄と化している。その圧倒的な現実に、あらゆる悲劇的創作物は空虚でしかないと思えるほどに……。



「卒論の合間を練って何度かボランティアに行きましたけど、あの情景は一生忘れられそうにないです……」

「そが、そが……」

 智子さんは、しんみりとした顔で頷くだけだった。

「沿岸の復興は少しずつ進んでいるからまだいいけど、原発は……。お父さん、元気にしてるかな……」

 陰鬱な顔で里美が呟く。里美の父親は、出稼ぎで家計を支えている。福島での原発事故を聞きつけるや否やお国ためだと言わんばかりに、二十キロ圏内の瓦礫撤去の仕事に自ら志願したのだそうだ。

 去年から一日も家へは帰っておらず、里美は心配でたまらないという顔をしている。

「あの人のごどなら心配いらねぇ。そろそろ夕飯の準備しねばならねぇがら、そろそろオラはおいとまするべ」

 夫に対する絶大な信頼を言葉にしつつ、智子さんは大広間を後にする。最愛の人が最前線に向かっているんだ、里美以上に不安だろう。そんな心境を一切見せないなんて、本当に力強い人だなと感心してしまう。

「遅いですね。雪菜ちゃんも呼んだのに」

 里美の話だと、私の部屋を訪れる前に、雪菜の部屋に寄ったらしい。その時は後で降りて来ると言っていたのだそうだ。

「大方、私と顔を合わせるのが嫌なんじゃないか?」

 里美が来た時は勢いで言ってみたが、荷物整理を終えたら気が変わったとか。

「私、ちょっと様子を見て来ますね」

「ああ。私も行くよ」

 一人で残っていてもやることがない。本当に私が原因ならば、何とか説き伏せる必要があるし。

「雪菜ちゃ~ん。入りますよー」

 里美は襖をそっと開けて、雪菜の宿泊部屋に入る。

「あっ!」

 するとそこには、荷物整理の途中で力尽き、畳に伏している雪菜の姿があった。

「旅の疲れで眠っちゃったんだな」

 東京から新幹線で三時間弱。そこから在来線に乗り換え四十分。更にはバスで一時間半だ。大人の私でさえそれなりに疲労が溜まっているくらいだ。華奢な少女の身体では、疲れ果てるのも無理はない。

「私、お布団敷いて寝かせておきますね」

「ああ、頼むよ」

 曲がりなりにも民宿の一人娘。そういった業務は里美に任せておいた方が無難だろう。何より男の私が手伝いでもしたら、また面倒なことになるだろうし。

(それにしても……)

 スースーと寝顔を立てる幼い顔。こうやって黙っていると、本当に雪のマレビトと見間違うほどの可愛さだ。もう少し自分に心を開いてくれてもいいのになと思いつつ、私は大広間へと戻る。



 午後七時。夕食の準備を整えた智子さんが、大広間に土鍋を持って現れた。

「今日はみんなで鍋突くべ」

 本日のお客さんは私と雪菜だけなので、不来永家を含めた四人での夕食会となった。炬燵には既に四人分の皿や箸が、里美によって並べられていた。

「雪菜ちゃん、そろそろ降りて来ればいいんだけど」

 炊飯器を持って来た里美が、階段の方を不安そうな顔で見つめる。曲がりなりにも雪菜はお客様なので無理矢理起すわけにもいかず、一人で降りて来るのを待っているのだそうだ。

「そのうち腹を空かせて降りて来るさ」

 そんなことを思っていると、ドタドタと階段を下りる音が響き渡る。

「おっ! 噂をすればなんとやらだな」

「私の布団を敷いたのは、どこのどいつだー!!」

 雪菜は大広間に姿を現すと、開口一番まるであらいを作った料理人を叱る至高の美食家のように、憤慨した。

「私ですよ」

 里美は一歩も動じずに、笑顔で応えた。

「お前か、余計なことをして! 布団くらい一人で敷ける!!」

 どうやら勝手に布団を敷かれたのが、よっぽど気にいらないらしい。

「コホン。僭越ながら、お客様のお布団を敷くのは通常業務のうちでして」

 里美は咳払いして、当然の仕事だからと説明した。

「業務だかなんだか知らないが、人の手を煩わせるまでもないことを勝手にやられるのは、迷惑極まりない!」

「お言葉ですが、当館と致しましては暖房も付けていない部屋で布団も敷かず眠られ、お客様に風邪を引かれても困りますので」

 と、表情一つ崩さず、終始笑顔で説明する里美。その言葉の裏には言いたいことがあるなら、まずは自己管理をしっかりしろという皮肉が込められていて、私は少し気圧される。

「ううう~~」

 腑に落ちないながらも自分に非があるのを自覚したらしく、雪菜は悔しそうな顔で里美は睨み続ける。

「ささ、そったなどごさ突っ立ってねぇで、こっちさ座らい」

 智子さんが座布団をポンポンと叩きながら、雪菜を誘う。

「ふっ、ふんっ! 今日はこのくらいで勘弁してやる」

 雪菜は鍋の隙間より漂う香ばしい匂いに空腹を刺激されたのか、三下悪人の捨て台詞のような言葉を呟き、座布団に座る。

「里美、ご飯を茶碗さ分げて、みんなさ配らい」

「はい、お母さん」

 里美は智子さんの言葉に従い、ご飯を分ける。

「いい! 自分でやる!」

 雪菜は茶碗だけ里美から受け取ると、せわしなく炊飯器のご飯をヘラで分ける。里美はやれやれといった顔で苦笑し、雪菜が分け終わるのを見守る。

「じゃあ、そろそろ蓋を開けるべ」

 みんなにご飯が行き渡ると、智子さんはメインディッシュを披露する一流シェフのように、鍋の蓋を開ける。

「おお!」

 智子さんが蓋を開けると、湯気と共に余熱でグツグツと煮えている鍋料理が姿を現した。大根、白菜、椎茸、糸蒟に豆腐。鮭に肉団子といった具材が目白押しで、私は思わず舌なめずりする。

「先輩、はい」

 里美がお碗に具材を見繕い、手渡してくれる。

「ありがとう、里美」

 私は感謝の言葉を述べつつ、里美よりお椀を受け取る。その間にも、雪菜は一人で鍋をつついていた。

「お前なぁ。何でもかんでも一人でやらないで、少しくらいは人の厚意を受け取ったらどうなんだ?」

 出会ってから今に至るまで、雪菜の行動は一貫している。それは、人に頼ることを嫌悪し、自分一人で行おうとすることだ。

「うるさい! 自分でできることは自分でやるというのが、私の信念だ。余計な施しは受けない!」

 雪菜はテーブルを両手でダンッと叩き、持論を展開する。

「ふぅん」

 そういう考えに至った理由は分からないけど、何でもかんでも人に頼りっぱなしというのよりは前向きだ。

でも、相手の方から手を差し伸べられた時は、素直に厚意に甘んじてもいいと思うんだけどな。

「ささ、そっだなごど(かだ)りあってねぇで、冷めねぇうぢにいただくべ」

 智子さんは場を和ませつつ、両手を合わせる。私と里美はそれにならう。雪菜は相変わらずふて腐れていたけど、黙って従う。

「んじゃあ、野菜を(つぐ)っでくれだ農家のみんなど、オラだぢに分げ(あだ)えでくれだ命に感謝しで、いただきます」

『いただきます』

 智子さんの音頭に合わせて、三人同時に食事の挨拶をする。普段あんまり自覚していないけど、食べるってのは他の生物の命をいただくってことなんだよな。そんなことを自覚させてくれる智子さんのありがたい言葉に感謝しつつ、私は食し始める。

「ん~~! 美味しい!!」

 ホカホカでモチモチした米と煮込まれた野菜のコラボレーションが絶妙で、私は思わず叫んでしまう。

「だべだべ。地元の農家のみんなが丹精篭めで(つぐ)ってくれだんだから、マズイわげねぇべ」

 智子さんは私の感想に、笑顔で頷く。自分の料理の腕がどうのこうのではなく、あくまで生産者を持ち上げるの謙遜さは、素直に好感が持てるな。

「ふぅ、ふぅ」

 私たちが美味しく召し上がっている中、雪菜は箸で摑んだ野菜や魚に息を吹きかけながら、慎重に口の中へと運ぶ。どうやら猫舌みたいだ。

(やれやれ)

 一人でやれることはやると背伸びしている割には、行動の一つ一つが子供っぽい。そんな行為が妙に可愛らしく思え、私は終始和みながら食事を続けた。

「ごちそうさま」

 私は腹いっぱい食べ尽くすと、両手を合わせ、改めて感謝の言葉を述べる。そうして腹休めのため、畳にゴロンと横になる。

「そういえばさ、明日からの予定とか大丈夫なのか?」

 普通アイドルのスケジュール管理は、マネージャーがやっているものだと思うけど。雪菜の性格からして、それさえも一人でやるとかって言い出しそうだなと。

「問題ない。ちゃんとプロデューサーに予定を組んでもらった」

 意外なことに、プロデューサーに一任したようだ。

「へぇ。お前でも人に頼ることがあるんだな」

「勘違いするな。私はあくまで自分でできることを自分で行うだけだ。自分より有能な者がいれば、大人しく頼る」

 成程な。でも、素直に頼るくらいだから、そのプロデューサーはよっぽど信頼されているんだな。会ったばかりの自分と比較できるわけないけど、その差はちょっと悔しい。

 雪菜が自分を頼るほどに信頼してくれる時は訪れるんだろうか? そんなことを思いつつ、私は部屋へと戻る。その日は旅の疲れもあり、私は風呂から上がると、そのまま眠りへと就いた。

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