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知ラリズ無

作者: 井坂津小津

 ここ連日、鈍色の雲が葛のように鬱蒼と日光を遮っている。そんな空の下で、僕とその他大勢と彼女を乗せた満員電車が、今日も無機物的に流れていく。

 彼女の存在に気付いたのは、ここ最近の事だった。長く艶やかな、扇情的で、そしてまた僕を挑発するような黒髪を持った女性だ。きっとどこかのOLなのだろう、いつも明るいグレーのスーツを着こなし、足元のヒールも整然と彼女の身体を支えている。細すぎず、太すぎず、それなりの大きさを持った形の良いヒップにも、何度か目を奪われた。この彼女の後姿が、僕が知っている彼女の全てだ。

 彼女は、僕の右斜め前に、昨日も今日も変わりなく立っている。彼女を知ってから、僕は何度も彼女の顔を見ようとした。だが、自分がいつも立っている場所からでは、どうしても彼女の顔を見ることはできない。僕と彼女との間には3人から5人ほどの人が立てるほどのスペースがあるからだ。しかし、この距離は、僕にとって謂わば聖域であった。何の根拠もないくせに、(いや、ひょっとしたら、僕の第六感が不吉なものを感知しているのかもしれないが、)「この距離を侵してはならない」という、諦めにも似た強迫観念がその聖域の中に居座っていた。

 いつの間にか、僕は彼女の顔を勝手に思い描くようになっていた。きっと美女に違いない。キャリアウーマン風のきつめな顔つきかもしれない、または慈愛に満ちた聖母のような顔つきかもしれない、眉目麗しい高嶺の花を思わせるような絶対的な美女が、その後ろ姿の裏にあるはずだった。

 今日こそはと思いながら、僕は彼女へと視線を伸ばす。ちょうど僕と彼女の間に突っ立っている中年が邪魔になった。もっとも、彼女の顔はわからないが、彼女の右足がその中年ともう一人別の人間との隙間から垣間見ることができる。彼女はストッキングをはいていない。だから、ヒールに納まる小ぶりで可愛らしい踵と、それに乗っかるようにプックリと隆起した踝がよく見える。そして、意匠を凝らして設計された精巧なガラス細工と見紛うほどの、細く引き締まった足が、踊るようにすらりと伸びている。

 電車が駅で停車した。何人かの乗客が降り、聖域に立つ人間も入れ替わる。依然、彼女の顔は見れない。そして、人々の隙間から、彼女が髪をかき上げるのが分かった。しかし、その時、誰かが吊り革をつかんでいたせいで、ある意味奇跡的かつ、悪魔のようなタイミングで、彼女の顔は隠れてしまってた。このもどかしさの中、僕は心の中で地団駄を踏んだ。

 今、僕は彼女の胸を見れている。なんだかんだで、彼女の胸を見るのは初めてだ。立ち位置の関係上、隙間から見えるのは足や背中、肩などの、後姿だけだったからだ。

 彼女の胸は小ぶりだった。形もいい。うん。いいね、素晴らしい。

 僕の興味は、もっぱらそんなところにはなかった。たった一人、いや、たった一腕挟んだ、ところにある彼女の顔はどんなものだろう?それだけが気がかりで、ただただ、電車が揺れるのを待った。出発のベルが鳴り、大きな音を立ててドアが閉まり、ゆっくりと電車が動き出す。その瞬間、吊り革の腕の淵から、一瞬だけ肌色の影が見えた。彼女の鼻の先だ。物理的には、ただの肌色の点滅が網膜に映っただけだった。しかし、ほんの一部とはいえ、彼女の顔が見れた。そのことがたまらなく嬉しかった。僕は、もう勃起していた。

 次の揺れを、今か今かと待ち焦がれる。一瞬たりとも見逃すものかと、眼に力を入れる。眼球の奥で火花が踊る。瞬きすら惜しい。いつになったら次の揺れは来るのだろう。もう、目玉だけになって飛んでいきたい。彼女の顔を見る、その行為からくる感動を体全体で受け止めたかった。手も足も、胴も首も、目以外の全ての物がうっとおしかった。身を焼き尽くすような焦燥と歓喜へのカウントダウンのせいで、もう気を違えそうだ。

 ガタンと電車が揺れる。まだ見えない。

 そしてまた揺れる、まだ見えない。

 口を開け、犬のように荒々しく肩で息をする。電車内の湿気と、そして自分自身の興奮から湧き出る汗が、右目のすぐ横をするりと流れ、垂れた。

 突如、電車の窓の景色が少し暗くなった。いつも、彼女が降りる駅、そのプラットホームに電車が入ったのだ。そして、ゆっくりと電車が止まる。彼女が行ってしまう。けたたましい音とともに、ドアが開き、彼女が降り出す。そして、その時、吊り革の腕が降りた。

 見えた。案外、普通の顔だった。

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