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wake me up

「死ぬ、もう死んでやる、そんでわかればいいんだ、わたしの存在の大きさを」

 千加子の死ぬ死ぬ詐欺がまたはじまった。一度「死ぬ」と言い始めたらたいてい一週間くらいは「死にたい」「死んでやる」のオンパレード。彼女の辞書には「死ぬ」の一語しかなくなる。

 外は三日ぶりくらいの晴天で、ぴりぴりと乾燥した空は青々と目に映る。ガラス張りの洒落たカフェで「死ぬ」を連発する目の前の女に辟易としながらも、久々の晴天に心は弾んでいた。注文したサラダプレートは見たこともない野菜ばかりで彩られ、セットのスープは恐ろしいほど美味しかった。胃の奥から幸福感がふつふつと満ちてくる。わたしはこんなに幸せなのに、千加子は眉間の皺は未だに伸びない。

「そんなさあ、たかが啓司くんと喧嘩したくらいでさあ、死ぬとか言わんといてよ、ちかこぉ。」

 紅芯大根をフォークに刺したまま、あまったれた声で彼女の機嫌をとりなす。毎度毎度、死ぬ死ぬ詐欺にだまされてあげるこっちの身にもなってほしい。どうせ自殺なんてするわけないのは知っているし、自傷する度胸がないのも知ってる。それに構ってほしいだけってのもわかってるから、毎度毎度、死ぬ死ぬ詐欺に引っ掛かってあげている。放っておいてもいいけど本当に死なれたら後味が悪いから、お洒落なカフェのほっぺたが落ちるほど美味しいランチに誘うのだ。美味しいものさえあれば、人間は簡単に死んだりしない。

「だって、キスマークだよ?なにそれって感じじゃない?浮気してんのばればれじゃん。ってかなんでわたしあんな奴の彼女やってんだろ。もっと良い男なんてごまんといるじゃない」

「じゃあ別れちゃえばいいじゃん。千加子なんて引く手あまたでしょ。一番わかってんの自分じゃん」

「だって、これで別れたら完璧にわたしが浮気されたってことが原因でしょ?つまりふられたってことじゃん。めっちゃむかつくじゃん!」

 こいつも相変わらず性格が悪い。意地も悪い。頭も悪い。それに舌っ足らずなしゃべり方は同性からの評判をさらに悪くしている。しかし残念ながら顔とスタイルだけは天下一品。伏し目がちにパスタをつつく大きな目にはふさふさのまつ毛がたんまりと生えているし、顔はバービー人形みたいに小さい。ストローでアイスティーをすする唇はほどよい厚さで色っぽくもある。手足は長く、GAPのジーンズも丈直しなしですんなりと着こなせる。千加子以上にきれいな友だちをわたしは持っていない。

 しかし、天は二物を与えず、とはまさに千加子のことだ。最近よく耳にする話題のモデルや女優は「あんなに可愛いのに、超謙虚で気配り上手で、だめなところなんて全然ないじゃん!」とかもてはやされているけど、千加子はそんなことは絶対にない。可愛いからこそ自己主張が強くて、周りの人間に気を遣わせるタイプの人間だ。そしてそれで良いと思っている稀有な人種。だから友だちは少ないし、寄ってくるのは顔と体目当ての男ばっかり。そんな彼女のことが好きだったりするわたしは、かなりの物好きなのだろう。

「男なんてみんな浮気者ね。ひとりだけを愛し続けることってできないのかしら」

「みんなってわけでもないんじゃない?」

「そんな男見たことある?」

「ひとりだけ」

「え?誰それ紹介して!」

「いや、今日本にいないわ」

「うわ、ショック。ってか、杏奈もそろそろ彼氏の一人くらい作りなさいよ」

「えー、特に必要性を感じないんだもん」

「そんなんだからまだまだお子ちゃまに見られるのよ」

 べつにいいもーん、とにこやかに話を流す。空になったプレートがさげられ、ポットに並々と入れられたハーブティーがサーブされる。カモミールの穏やかな香りが鼻腔に広がる。幸せのにおい。

「どうしたら幸せになれるんだろう」

 はあ、と大きなため息をついて、千加子は宙に視線を向ける。わたしからしてみれば「どうして幸せに気づけないのだろう」なんだけど、彼女にそんなことを言ってみてもどうせわかりっこないだろうと高を括る。ないものねだりは彼女のパーソナリティーだ。

 心温まるハーブティーを飲み終え、店を出たわたし達は駅で別れた。千加子と会う時はいつもランチの時間だけで話が済むので、ふたりでお茶をしたり飲みに行くことはあまりない。千加子以外の友だちだと、ランチして買い物してお茶してさらに飲みに行ったりもするのに。常套句の「これからどうするー?」を使わなくても済むから、千加子とのランチは好きだ。

 千加子は別れ際にいつになく情けない声で「また連絡するわ」と言った。「うん、いつでもして」と笑顔で伝えると、振り返ることなく颯爽と歩いていく。

 彼女のうしろ姿が見えなくなったところで、踵を返しながら思う。ああ本当に頭が悪い、と。

 わたしが千加子に向けた笑顔の意味を、彼女はきっと一生知り得ないだろう。今日会うことになった原因はわたしが作った。彼女はたった一人の友だちのことさえ何も知らないのだ。人のことを全く見ていないから、自分のことしか守ろうとしないから。それは彼女が選んだことだから、裏切られるのも彼女の責任だし、誰も文句は言えやしない。わたしは千加子以上に性格が悪い。彼女の感情をわたしが操作していると思うと、背筋が震えるほど愉快な気分になれる。だからわたしはいつも、千加子の死ぬ死ぬ詐欺につき合っている。これは、わたしが選んだことだし、後悔なんて全くしていない。

 山手線で新宿まで出て、そこから京王線に乗り継ぐ。晴天のせいか、いつもの休日よりも車内は賑やかだった。空に日が少しずつ落ちて、紫の色が帯び始める。パレットでは出せない、幻想的で自然な色彩。きれいだけど、せつなくて痛々しく響くような紫。駅から家に着くまでの間、ただひたすら空を見上げていたら首が痛くなってしまった。

 今日の空はあまりにもきれいすぎた。自分の中にあるどす黒い感情を見透かされているような気になるほど。しかし、見ないわけにはいかない、宝物のような空だったのだ。


 玄関に見覚えのある男物のスニーカーが無造作に置いてあって、胸の奥が悲鳴をあげた。さっき食べたサラダが胃を重く締め付ける。リビングのドアを開け、ソファに座る人物に目もくれぬままキッチンに向かう。引き出しを勢いよく開け、黒光りするリボルバーを右手につかんだ。久々に触れる相棒に胸が高鳴ったのもつかの間、テレビを楽しそうに見る男に銃を向ける。

「なんでいんの」早足で彼に近づき後頭部に銃口をくっつけ、極力冷たい声をだす。

「えー、久々にあった彼氏にそれはなくない?」

 銃など関係ないとばかりに振り返る(おみ)の顔は、いつもと同じで、やわらかくあたたかい。心が揺らぎそうになって、リボルバーをさらに強く頭に食い込ませた。

「彼氏じゃないでしょ、このくだり何回目よ」

「いててて。認めてくれるまでやめないから。ってか、ほら、テレビ見ようよ」

「帰って」

「相変わらず冷たいなあ」

「早く帰って。そうじゃなきゃ本当に撃つよ」

「なんだよ、美味しいワイン買ってきてやったのに。フランス産だぞ?こっちで買ったら2万は軽くするぞ?あっちで買ったから安かったけど」

「馬鹿なの?」

 あいかわらず毒気のない会話に思わず笑ってしまう。

 こいつは本当にわたしを笑わせるのがうまい。だから嫌なのだ。怒らせてくれない。コントロールさせてくれない。いつも掌で転がされている気がして、安心と苛立ちが同時に胸に迫る。自分の思い通りにいかない人なんていらない。いらないのに、臣だけはどんなに突き放しても、離れて行ってくれない。相棒を持つ手の力が抜けて、左手で彼の柔らかな髪を撫でる。3か月も会っていないうちに伸びた茶髪は悔しいほど臣に似合っていた。髪に向けていた視線を彼の顔に戻す。

 ぞくり、と腰が震えるようなまなざしに射抜かれて、あっという間にソファに押し倒された。武術もお手の物のこいつには、一瞬たりとも気を抜いてはいけないはずだったのに。真っ暗で底なしの飢えをきれいな双眸に灯した彼を見ると、わたしはいつも微動だにできなくなってしまう。いつ殺されても、文句は言えないかもしれない。死人に口なしとは言うけれど。

「隙あり」

「わたし、いつか殺られるかも」

「かもな。もう少し注意力つけとけよ」

 嫌に整った顔を見つめるとなぜか喉の奥が重くなる。高い鼻をつまむと、臣は嬉しそうに、なんだよ、と微笑んだ。相棒をローテーブルにそっと置き、両手で臣の頬に触れる。3か月前より少し痩せたそこには小さな傷跡がいくつかあった。ナイフで切られた痕なのは聞かずともわかる。こんなこと日常茶飯事なわたし達にとってはたいしたことではないけれど、それでも少し胸が痛む。臣の形の良い唇がおでこに触れる。懐かしい温度に泣きそうになった。髪をくしゃくしゃに撫でると、臣はせがむようにわたしの唇をねだる。

 その時だった。鍵穴が回る音がして、続いて廊下を歩く足音がやけに響いた。臣は行為に夢中で、わたしのジャケットを脱がしにかかっている。リビングの扉が開き、この状況を飲み込めずにいる啓司くんが不器用に目を瞬かせた。

「杏奈ちゃん?」

 啓司くんの声でやっと臣はわたしから目を離し、尋常じゃない殺気で彼を睨んだ。ふつうの人間なら、太刀打ちできないほどの殺気だ。

「は?お前誰?」

 啓司くんは怯えたように眼をそらす。千加子の彼氏、とわたしは能天気な声で応えてみる。いや、でも、もう、と啓司くんは大きな声で反論しようとしたけれど、その言葉の先を聞くことはついになかった。リボルバーの叫び声が聞こえて、火薬のにおいが宙に舞う。どさり、と嫌な重みが床に落ちて、啓司くんは動かなくなった。臣はわたしの相棒をぽいっとラグに捨てると、ことの続きを再開させる。

「もうなにしてんの、あんた」

「こっちのせりふ。また浮気ですか、杏奈ちゃん。合鍵まで渡して」

「だってほしいって言われたんだもん。あげちゃった。もう必要なさそうだけど」

「あいかわらずお前もほんと性格悪いな。また千加子ちゃんの彼氏に手え出したん?」

「違います。相談のってあげてたらいきなり襲ってきたから抱かれてあげただけです」

「もー、ほんと怒るよ、信用ならない男と簡単にふたりきりにならないの」

「えー、でもいざとなればどうにでもなるし」

「まあそうだけど、あんま俺のこと妬かせないで、お願いだから」

「ん、ごめん。あー、でも啓司くんの後始末は臣がやってよね」

「えー、めんどい、掃除屋に適当に頼もうぜ」

「もー、ほんといい加減」

「いいから、ほら、集中して」

 キスが深まる。臣の指はいつもやさしくわたしに触れてくれるから、嫌なこと全部忘れさせてくれるのだ。啓司くんの血がフローリングに広がっていくのが目の端に映る。あー、めんどくさい、と思いながらも臣の温度が心地よくて、鍛えられた体にしがみつく。頬の傷跡にキスをして、もっともっととせがむわたしは、傍から見たらどんなに滑稽なんだろうか。でもそんなことどうだっていいんだ。快感だけが、わたしを目覚めさせてくれる。臣がくれる、痛々しいほど間違った愛情が、わたしをここに繋ぎとめてくれる。微かに残った、人間としての感情を思い出させてくれる。


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