蛹の夢
富岡製糸場が世界遺産に認定されたとのことで考えてみた作品です。
冬場でも暑い職場。目の前では煮え立つ鍋が湯気を上げる。中には幾つもの白い繭が、循環する湯と糸を引かれて揺れる仲間に押され、所在なげに漂っている。
私は額に浮かぶ汗を拭いながら糸取りに励んでいる。
湯に浮き沈みする繭玉。糸を引かれて徐々に浮かび上がる繭の主。純白な器からは想像出来ない、茶色く歪で気味の悪い姿。お蚕さまの一番醜悪な姿だと私は思っていた。
大量に出るそれらは時に工女の間食として供されるが、口に含むと独特の臭みを強く感じる。田舎では酒に漬けたり煎ったりするが、私は味にも姿にも抵抗があり、出来れば口にしたくはなかった。
「食べんと大きゅうなれん」
幼い私に祖母が蛹を無理矢理押しつけてきたものだ。拒絶すると祖母は自分が飢えた時の話しをした。飢えの話しは怖ろしく、私は目を閉じ蛹を飲み下したものだ。今思えば滋養の為に祖母が気を使ってくれていたのだろう。
そんな事を想い出しながら私は糸を取る。細く白い糸。指先で摘む。その時、不思議な感覚を私は覚える。
桑の濃い噎せるような匂い。葉を食むざわめき。それらは田舎で日常的に感じていたものだが、糸を摘んだ瞬間は、より身近になる。いや、そうではない。濃密に私に纏わり付いていると言った方が正しいだろう。近く大きい。音も気配も。
――今は工場で糸取りをしているはず。それなのに何故かしら。
私は糸を摘みつつも首を傾げていた。工場の住み込みに入ってまだ日が浅い。里心が起こした強い郷愁なのかとも思ったが、暇にそれらを感じる事は全く無いのだ。
糸を摘む度に訪れる感覚は日に日に私を犯していくようだった。一等工女を目指す私は糸束を多く取らなければならない。それには集中が必要だ。匂いとざわめきは集中を奪っていく。どうしていいか判らぬ私は、作業の手を止めぬまま、人に知られぬようにして泣いた。
――このままでは糸束を取れなくなってしまう。
赤い襷に高草履。きりりとした一等工女の姿。その所作の溌剌とした様子。私の憧れだ。
序列が上がれば俸給も増す。田舎への仕送りも増やせるし、新しい反物も買える。だから多くの糸を取りたいのに。
内側に生じる焦りと纏わりつく気配に私は揺れた。
だが、人は慣れるものである。周囲が騒がしくても次第に集中出来るようになるのと同じだった。糸を継ぐ。巻き上げ機の騒音に混ざるざわめき。湯気と桑の匂い。感じる気配は気付けば日常に変わっていた。
気配に慣れきった頃、糸を手繰る手元にふといつもとは異なるものを感じた。何だろうと思った時だった。目の前が不自然に揺れた気がした。足下が急に心許なくなり、私は俯いた。
――何?
目の前にあったのは巨大な桑の枝葉。身を震わせる感覚。それから身体が浮き上がるような気配と高揚感。見上げると木漏れ日が降り注いでおり、少し先には番う相手がいることが判っていた。
私はこの白昼夢に驚いた。あまりにも鮮明で明るい。だが、同時に悲しみが込み上げた。
――これは夢だ。叶わない幻。
触れている糸から手を引く。思った通り、それで夢から覚めた。私は工場で糸を取っている。それが現だ。この期を境に私はそれまで感じたものを二度と得る事は無かった。
今は一等工女を目前に控えた二等工女となっている。
私が見たものは何だったのだろうか。本当の事は判らない。だが、私はこう思うのだ。
あれは蛹の想い。繭に眠る蛹の夢。浮遊する儚く淡い幻だと。
取った糸束は艶やかで輝かしい。束を手にして私はかつて自分が見たものを想い返す。
蛹の姿は醜いが、あの時感じた、純真で健気な飛翔への想いが、私には眩しかった。だからこそ繰られた糸は、このように煌めき美しいのだろう。
私は小さな蛹を想いながら、彼らが紡いだものを手に取り糸を継いだ。
実際には蚕は飛ぶことは出来なかったりします(^_^;) しかも家畜だから樹に止まったりする力も弱い。なので、幻想として描かれている自然環境のような状態下では繭を作ったり羽化したりするのが難しいのが現実だったりして。それを承知で書いていますので御了承を。