貴方しか見えない
「ははうえさまー!」
小さな男の子がにこにこと笑顔を浮かべながら私の方へと寄ってきた。私はその子―-光輝を抱き上げる。すると向こうからゆっくりとした足取りで夫が近づいてきた。
「斎様、お仕事はもうよろしいのですか?」
「ああ、もういい。すべきことは済ませたからな」
手短に私の問いに答えると、斎様は光輝に向かって笑いかけた。――おいで。そう優しく言われた光輝は斎様の方へ必死になって手を伸ばすので、私はすぐに斎様に光輝を渡した。一瞬腕と腕が触れ合い、頬に血液がめぐったのを感じた。いつぶりだろう。そう思って無意識に斎様を見上げたけれど、表情が変わることは一切ない。ぐっと奥歯を噛み締めて、しかしそうした自分を責めた。――何を愚かなことを。生活の面倒を見ていただけているだけで幸せだと思わなければならないというのに。
そうしている間にも食事の用意が手早くされていく。斎様と光輝は楽しげに今日の出来事を話されていて、私には微笑ましく思えた。――私にも子供がいれば。
「何をしている。もう準備はできた」
斎様のするどい声に我を取り戻し、すぐに謝罪を口にする。斎様はお忙しい御身だというのに時間を無駄にしてしまったことを酷く悔やんだ。斎様は一度だけ私に視線を送ると無言で食事をとり始めた。
静まり返るダイニングに、銀の食器が奏でる音だけが響く。こういう時に光輝と話してみたいと思うけれど、いつだったかその時に居合わせた斎様からお叱りを受けてから話しかけるのを躊躇うようになってしまった。
「何か必要なものはないのか? 沙紀」
「いいえ、ございません」
毎晩夕食をとる時に斎様はそうやって私を気遣ってくださる。けれど屋敷の中から出ることのない私には必要なものなどあるはずもなく、笑って首を振るしかない。斎様は答えがわかっているはずなのに、それでも毎晩かかさず尋ねてくださるその優しさが嬉しかった。
メインの食事が終わり、デザートが運ばれてくると虚しさが募る。――これで一日の楽しみが終わってしまう。
デザートを口にしていると、淡々と食事を済まされた斎様が私に視線を向けているのを感じた。斎様はデザートをお召し上がりになることはない。けれど席を先に立つことはよしとされていないのか、私が食べ終わるのをじっと待っていらっしゃる。その間私に視線を送るのが気恥ずかしくて、一度やめてほしいと言ったことがあるけれど一向に止められる気配はなく、それから私はとにかく早く食べようと頑張るしかなかった。
最後のクリームも食べてしまうとすぐに斎様は光輝の手を引いた。
「あ、の」
寂しさに堪えられなくなって思わず声を発してから気づいた。斎様は訝しげな顔をなさい、立ち止まる。続きを発するかどうか迷ったけれど、私は我慢できなかった。
「一晩だけでいいんです、どうか光輝と一緒に眠りにつきたいのでお許しを、」
「だめだ」
斎様は間髪入れずにそう言って光輝に視線を向ける。
「お前は何か勘違いをしていないか? これはお前の息子ではない。けれど将来これがお前の顔を忘れても困るから毎日この時間だけ会わせているだけだ」
そこで言葉を切り、私の傍まで歩み寄って耳もとで続ける。
――寂しくなって光輝を味方に仕立て上げようとでもしたか? 無理もない。信頼できる侍女はお前を裏切って出て行ったからな。
「違います、私は」
抗議しようとする私を制して斎様は光輝を連れて部屋を出て行ってしまった。侍女が私を自室へ連れて行こうとしていることに気づき、おとなしくそれに従う。この侍女の名前はなんだったか。不意に生じた疑問を頭の中で振り払った。
* * *
自室に戻り、私はキングベッドに身を横たえた。このキングベッドは夫と使うためのものであるはずなのに、その目的が果たされたことは一度もない。その事実が胸を横切ったけれどもうそれに胸を痛めることはなかった。
今頃斎様は光輝の実母の美香様と一緒にいるはずだ。他にも何人かの愛妾がいるはずだが、光輝が生まれてからというもの斎様は美香様のもとに頻繁に通われているようだ。
斎様と式を挙げたときは、まさか自分が純白のままでいるだなんて思いもしなかった。小さい頃からの許婚で、ずっと片想いの相手だった斎様と結ばれることに対しての喜びしかなかった。初夜も緊張していたけれど、とにかく斎様を不快にさせないように頑張ろうと思っていた。けれど斎様が私に触れることはなく、半年後に愛妾が屋敷に移り住んだことを使用人の噂話で知った。嘆き悲しむ私を見て、生家から私に付き添ってくれた侍女の春香が斎様に抗議しにいってくれたらしい。春香が行方不明になって一週間後、夕食をとっていた斎様が嘲笑と共に教えてくれた。
――お前のために尽くす侍女は立派だが、その後お役目を放棄して行方を眩ましたんじゃ、話にならないな。これでお前は独りだ。頼れるのはこの俺だけ。
くっと哂いをこぼし、斎様は問いを投げかけた。何か欲しいものはないか、と。思えばこの時からだったかもしれない。斎様が私に夕食の時に必要なものを問いかけられるようになったのは。
滲む涙を乱暴に袖で拭って目を閉じる。いつか私は光輝にも見放されてしまうかもしれない。その不安に侵食されそうな自分を必死で抱きしめた。
* * *
「何か変わったことはないか」
満月が頭上に昇る頃。沙紀の部屋へ向かう途中、斎は後ろへ付き従う侍女に問いかけた。
「奥様はとても穏やかに変わらぬ毎日を過ごされておいでです」
「ではこれはなんと弁解する?」
孤児院ではつらつとした笑みを浮かべて子供たちと触れ合う沙紀の様子が何十枚もの写真に収められている。その写真の隅には必ずと言っていいほど頻繁に柔和な笑みを浮かべた青年の姿があった。
その写真を目にした侍女は少し顔を歪ませるが、すぐに落ち着きを取り戻した。
「・・・・・・奥様は社会に貢献したいとおっしゃって、その孤児院に通っておられます。そのことはきっと当家の評判に繋がることと確信しております」
「誰がそんなことを許した?」
斎は足を止めてその写真を思い切り引き裂いた。
「お前はもう首だ。沙紀に決して情を移すなと採用した時に告げたはずだ」
斎は手を振って執事を呼び、侍女を下がらせる。執事は心得たとばかりに膨大な書類の束を渡す。斎はその中から適当に一枚を引き抜き、それを執事に手渡すと同時に用件を告げる。
「あの青年はここから離れたところの支社で雇え。それと沙紀はこの屋敷から二度と出すな。たとえ沙紀から要望があってもその願いを叶えるな」
執事は何か言いたげにしたが、それでも余計なことは口に出さずに黙って引き下がった。
斎は音を出さないように慎重に自室の扉を開く。そこには無防備に身体をさらけ出す愛しい妻の姿があった。
ゆっくりとその柔らかい髪に手を伸ばし撫でていると、抗いがたい欲望が体中を駆け巡る。斎はその衝動を押さえ込んで沙紀を暗い瞳でじっと見つめる。
「跡継ぎですか? 父上がそう催促しに来られたのならばそれは絶対なのでしょうね」
いつだったか斎の父である亨が子供はまだ生まれないのかと訊ねたときに斎は笑ってそう言った。斎は冷め切った紅茶を口にして、執事に何事かを告げた。執事は部屋を辞して数分で戻り、亨に分厚い紙の束を手渡す。
「その中から父上のご満足のいくご令嬢を選んでください」
その言葉を聞いた亨はその書類を机に叩き付けた。
「お、まえ、子供が生まれないからといって沙紀を放り出すつもりか」
ガシャン、と。斎は手にしていた紅茶のカップを音を立てて戻した。その拍子に中身が零れて斎のシャツにかかったが、斎は気にする素振りを見せずに亨を睨みつけた。
「沙紀? 父上、どんな権利があって沙紀を呼び捨てにするのです? 言葉にはお気をつけください。
ああ、心配なさらず。父上が選んだ方を妻にするわけではありませんから。少し、腹を借りるだけです」
「お前、それが沙紀さんにもその相手にもどんなに失礼で惨いことを言っているのかわかっているのか」
斎は使用人から布巾を受け取り、袖を拭った。そしてベルで執事を呼び、おもむろに立ち上がる。
「父上、ご令嬢は早めにお選び下さい。その選んだ方はこちらに名前を告げてくだされば結構です。あとは当家でなんとか致しますから」
「・・・・・・こんなことをするならば、愛してもらえないことを覚悟するんだな」
亨は乱暴に扉を閉めて去っていった。斎はくっと笑ってソファに身を預ける。
――他の奴と比べて俺を選んだ愛など要らない。俺が望むのは視界に俺しか映らないこと。子供? 冗談じゃない。沙紀の心の中に常に誰かを住まわせるなど。
そのためにはどんなリスクも犯すわけにはいかなかった。避妊法も完璧ではない。
斎は沙紀の身体に手を這わせながら沙紀の報告書に目を通す。斎が会社を動かしている以上、沙紀の日中の様子を全て知ることはできない。そのために屋敷で内密に専門の人間を雇った。
斎はあるページでめくる手を止めた。そこには仲良く庭で花に水をやる沙紀と光輝の姿があった。
――そろそろ美香の出番だな。
嫉妬に胸を焦がす美香は、きっと光輝の心の根から沙紀への憎悪を植えつけてくれるだろう。
「その瞳に映すのは俺だけで十分だ。そうだろう?」
返って来ない問いを投げかけ、斎は沙紀の唇を貪った。
沙紀の閉じられた瞳からは一筋の涙が流れた。斎は涙を綺麗に舐めとって、夢の中で沙紀に働きかける事象にさえも嫉妬し、沙紀を腕の中から逃がすまいと力を込めた。
『いいのか? 俺と結婚したら一生離さないぞ』
『そうしてください。私は斎様だけを一生愛します』
『・・・・・・約束を違えるな、もしそうしたら』
『斎様のお好きになさってください。私には斎様しかいませんから』
沙紀は夢を見ていた。焦がれて焦がれて、その姿しか見えなかった幼い時の自分の夢を。あの頃は幸せだったと涙を流す。甘く切ない夢をずっと見ていたいと願った――。