空っぽの竜の巣
「カルロスさん、どいて! 危ない!」
竜が巣に戻ってきたのを見て、誘導をしていた男が逃げ出せたのは危機一髪だった。木の葉をまき散らして、竜が降り立ったのは先ほど男が立っていた場所であった。
マナーニャは慌てて首から飛び降りる。
「大丈夫ですか? 怪我はありません?」
尻餅をついた男の手を引きやっとのことで立ち上がらせた。
「あ、ああ。おかげで助かったよ」
カルロスはあざ黒い肌を布で拭った。立派な体躯をしているこの男こそが、竜の巣の管理者であった。
「本当に今は危なかったですね。ラガルトの奴…」
「いや、良いんだよ。竜という生き物は、――いっ!?」
突然、後ろの竜が吠え、マナーニャより頭一つ分高いカルロスの頭を燃やそうと炎を吐いた。
「ラガルト!」
マナーニャが振り返ると、竜はぴしゃりと口を閉じた。
『婚約者殿』
ちろりと舌が出され、長い歯が光る。
『浮気は良くない』
「へ?」
マナーニャが睨む視線に力を込めると、ぷいと竜は顔を逸らした。
「今度やったら二度とご飯集めてやらないんだからね」
その言葉にラガルトはうるさそうに頭を振るい、唸るように言った。
『…その人間に早くご飯を出せと言え』
彼は音を立てながら、作られた寝床へと向かっていった。マナーニャはため息を付いて、頭から水を被っているカルロスの方へと近づいた。
「カルロスさん、大丈夫ですか?」
どばっと、もう一杯頭から水を被った男は疲れた微笑みを見せた。
「ありがとう。大丈夫だよ。竜は人を対等の者として扱っていないんだ。このくらいの仕打ちは昔から日常茶飯事さ」
カルロスはおそるおそる頭上に触れた。
「あぁあ、でも、若いのにしばらくはてっぺんハゲかなあ」
「本当にラガルトは…」
憤りを感じてマナーニャが拳を握ったときであった。樹の側面住居の扉がぱかっと開き、若い女が現れた。
「あんたー! ラガルト様が来ているじゃないか! 食事の方は出したのかい?」
「ああ、そうだ!」
気のいい男はラガルトのいる巣へと走る。女はと言うと、側に立っているマナーニャを見つけると陽気に手を振ってくれた。
「マナーニャ? 久しぶり!」
「ローサさん!」
女はまるで娘のように早歩きでマナーニャの元にやって来た。背の高い彼女は逞しく、女性のたおやかさはなかったが、背中に背負われている赤ん坊をあやす姿は間違いなく母であった。
「カロリーナ、大きくなりましたね」
「ええ、最近つたい歩きが出来るようになったの。けれど、もう眠っちゃったわ」
母親譲りの黒い髪はつむじの方で渦巻いている。ピンクの頬をつつくと、可愛らしくあくびを漏らしている。
「マナーニャ、あなたどうやってここまで来たの?」
「ラガルトに連れてきてもらって」
そう言うと一瞬ローサは目を見はった。いつもおしゃべりなローサの口が止まったことに戸惑う。
「どうかしました?」
「…ううん。よく、ラガルト様は許したと思って」
ローサは雑用で引き締まった足を竜の寝床へ向ける。
「…カルロスはね、本物の竜の巣へ行って訓練を受けたのよ。前の管理人達も、命がけで竜と対話したいと訓練を積んできた人たちよ。けれども、竜と話すだけじゃなく、背中に乗った人間だなんて聞いたこともないわ」
「そう、なんですか?」
ローサはしばらく黙って竜の巣の方を見ていたが、肩をすくめた。
「ま、竜に気に入られるなんて貴重な体験ができたとぐらいでいいのよ」
ローサはぎゅっとマナーニャの手を握る。カルロスと似たあざ黒い顔は人なつっこい笑顔で溢れていた。
「せっかく来てくれたんだから、ちょっとお茶でも飲んで行ってよ。ね? そうね、あなた腐肉集めに行っていたでしょ。だいぶ匂うわよ。一風呂浴びて行ってよ」
人付き合いがうまいとは言えないマナーニャだが、ローサの底抜けに陽気な笑顔は大好きである。満面の笑みに対して、マナーニャの控えめな、でも精一杯な笑顔で答える。
「ありがとうございます。お借りします」
「どうぞ。樹乳はいる?」
「大丈夫です」
狭い室内の上からは種油ランプが吊されている。風呂あがりのマナーニャにローサは大きなマグカップにお茶を並々注いでくれた。
「ごめんなさいね。このくらいしか出せなくて。この頃、うちの果樹の成りも悪くてお菓子にまわす分がないのよ」
ローサは窓から、狭い庭を見た。
そこには腐った木屑を苗床にして、いくつもの植物が植えられていた。豊かな養分を含む苗床は毎年のように豊作をもたらしていたが、ここ数年、食料の成りが悪い。
「…そうですか」
「他の所もそうみたい。樹全体がおかしいんだって。そのおかげで、自分たちの食べ物だけじゃなくて竜の食事だって見つけるのが大変なの」
確かに、この最近死体の数は少なくなっている。
「何があったんでしょう」
「分からないわ。婆達に聞いても分からないっていうの」
ローサは顔を曇らせていたが、顔を振った。
「まあ、樹だって生きているんだし、時には調子が悪いときだってあるわよ。後数年分の蓄えはあるからそれまでは大丈夫よ」
ローサはさばさばと言った。
本当に樹の不調が一時期の物であったらいいのだが。
その時であった。樹鹿の骨で作られたドアベルが鳴らされる。
「――こんにちは、ローサさん。マナーニャは来ています?」
その声に、ローサは弾かれたように立ち上がった。
「ああそう! 私、あんたを見かけたら知らせるようにマレードに言われていたんだったわ」
「マレードに?」
ローサが扉を開けた。
「マナーニャはいるわよ」
白い衣を纏った一人の娘が部屋に入ってきた。マレードは色素の薄い髪とすっきりと整った顔立ちをした美人であった。
「マナーニャ?」
「マレード、どうしたの?」
彼女はほっとしたようにため息を付いた。
「良かったわ。あなた、家にもいないんだもの。また、進入禁止地区に入って、落っこちたかと心配になったわ」
「そんな大げさな。落ちはしないよ」
マナーニャはハハハと笑い飛ばす。それでもマレードはくいっと眉を上げた。
「あなた、もしかしてまた進入禁止地区に入ったの?」
「え?」
実際の姉のように育ったマレードの前ではちょっとした言葉が落とし穴となる。
心優しき巫女として有名な彼女も、従妹の前では心配性の保護者となる。
マナーニャはぎこちなく微笑む。
「そ、そうだ、マレード。最近、魔術の訓練はどう?」
「おかげさまで、浮遊は使えるようになったわ。――それと、これが何の関係があるのかしら?」
マレードの切り返しにマナーニャの浅知恵は呆気なく屈する。
「久しぶりに家に帰ったらあなたもいなくて、母さんも心配していたわ。妹の一人娘を死なせたら申し訳ないって」
それは分かっている。けれども。
マナーニャは口を尖らせた。
「…だって、ラガルトが」
「言い訳しないの。最後に後悔するのはあなたなのよ」
マレードはぴしゃりと言って、腰に手を当てた。そんな二人の娘にローサは苦笑した。
「まあまあ、あんたたち。マレード、お茶は飲む?」
マレードはローサを見る。
「ローサさんも知っているでしょう。竜ならいざ知らず、翼を持っていない人間が一度樹から足を踏み外したら助かる見込みなんてないって」
「まあ、ねえ。ほら、飲んで」
険しい顔のマレードにローサはマグカップを渡してあげる。
「けれど、竜がわざわざ人間に話しかけて、ご飯をねだるというのはないことだからね。竜は人に慣れない生き物なのよ。マナーニャ、あなたは特別」
ローサの瞳がマナーニャを見据える。その瞳には隠しきれない羨望があった。
「私たちみたいに竜に関わるものとしてはあなたのその特性はすごく羨ましいわ。竜と話せるってどんな感じかしら、ってね」
マレードは表情をゆるめず、ローサに言い募る。
「そんな、マナーニャはまだ子どもですよ。竜は何を考えているか分からないし、近づくのは危険です」
「竜はそんな人間の事情なんて知ったことないわよ。竜がマナーニャを気に入ったなら、マナーニャがどう思おうと竜は干渉してくるわよ」
笑い飛ばすローサの横で、マレードはマグカップを持ったまま無表情に立ちつくす。それがまたマナーニャには怖かった。
「ね、マレード、冷めるよ。…私、竜のこと嫌いじゃないし」
「まあ、マレード。竜のやっていることに口出ししても仕方がないわよ。――そうだ、マレード、マナーニャに用があるんじゃないの?」
マレードは大きな青い瞳をマナーニャに移した。その瞳は不安で揺れている。
「――婆様達がマナーニャに会いたいんだって」