樹の上から
ずっと下にある地面に根を張る樹。ここから地面に落ちたら終わりである。地面とはすなわち、死の世界であり、帰ってきた者は誰一人いない。
「ねえ、ラガルト」
返事はない。
ふと、ラガルトを見ると、彼はちょうど、鈍い音を立てて樹鹿を肛門から頭まで真っ二つに裂いたところだった。途端、ガス状の腐敗臭が広がる。
舞い上がる蠅を手で払い、思わず咳き込むと竜の巨大な頭がこちらに向いた。口からは腐りかけた何かの内蔵がはみ出している。
『まだいたのか』
口に腐肉をくわえたままマナーニャの所を向いたため、獣の腐れた血液がマナーニャの顔までかかった。
「今更だけどよく、そんなもの食べられるね」
『うまいぞ。おまえも食べるか?』
「いらない。そんなもん食べたら死ぬ」
のどの奥からごろごろと音を出して彼は笑った。マナーニャは手を伸ばして顎を掻いてやった。ラガルトは大きな目玉をぐりぐりと気持ちよさそうに動かす。
ぼんやりとしか見えない地上を見ながら、ラガルトに尋ねる。
「地上って、死後の世界なんでしょう? 何があるのかな」
『見下ろせば分かるだろう』
「どこまでも続く、茶色の地面ならね」
『なら、それだけだ』
ラガルトはそう言って、再び腐肉をくわえた。
「違うよ。そういう意味じゃない」
マナーニャはぷいっと顔を背けた。
『ならばどういう意味だ?』
マナーニャは詳しく説明しようとして諦めた。竜と人間は違うのだから納得してもらえないのは宿命である。
そんなマナーニャの心うちを受け取ったようにラガルトは言う。
『地上とは竜はわざわざ死ななくても行けるところだからな』
マナーニャはくるっとラガルトを見た。
「行ったことあるの?」
『ないな。竜の中でも体が大きくて、力試しをしたい奴しか行けない』
「ラガルトは行かないの?」
『いつかは、な』
口の奥で、ぼきぼきと骨が砕かれる音がする。
「なんか地上って想像付かないよ。どこまでも平たい地面が続いているんだろう。こんな狭い所じゃなくて。あんな所に立つなんて怖くないのかな」
今座っているところはちょうど樹の腐食によって穴が開いたところを埋め立てたところだ。その上に芝が生えているからムンドの民の憩いの場になっている。
ラガルトは喉を鳴らして笑った。
『きっと、地上のものはどうして樹の上に人間が住めるだろうかと思っているだろう』
竜は歯に挟まった毛皮を吐き出す。
「…なあ、ラガルトって、いくつ?」
『二百を過ぎた頃から忘れた』
マナーニャは唸った。
「人間と基準が違うからラガルトが若いのか、年寄りなのか全然分からない」
『おまえよりは長生きしていることは確かだ』
ちょうどマナーニャが用意した肉すべてを食べ終わり、口から大きなガスを吐きだした。そこに火がつき、近くの葉がぱりぱりと焼ける。
「それじゃあさ、竜族はどのくらい生きているの?」
『だいたい二千は普通だな。年を取るにつれ、身体が大きくなっていくから見た目で知ることも出来る』
マナーニャは目を見はった。
「じゃあ、本物の竜の巣にはもっと大きな竜がいるということ?」
『そうだ。人間の所には一番小柄な私が来たというわけだ』
樹で知能を持つ生き物同士としてラガルトは唯一人間が話ができる使者というわけだ。ただし、竜の方はだいぶ人を見下していてその関係は対等とはいえない。
ラガルトは立ち上がり、うんとのびをした。体中の鱗を逆立たせると、銀の光が突き刺すように光り輝く。細い舌を使って口の周りに付いた肉片を舐め取る。
『まだ全然足りないな。…仕方がない』
ガラス玉のような目でラガルトはマナーニャを見た。
『乗るか?』
「竜の巣に行くの?」
『ああ、いつものように気は向かないけれどな。空腹には勝てない』
太い首がマナーニャの前に降ろされる。枝をのぼる要領でよじ登る。
「大丈夫? 重くない?」
『婚約者を重いとは言えないな』
ばさりと大きな翼が振り下ろされる。風を翼に受け、何度か翼を動かすと、浮力が身体を包み込む。
「うわぁ」
芝が渦巻き、下からの風が身体を押し上げる。枝をつたい移動するときよりも不安定である。
『しっかり捕まれ。落ちても助けはしないぞ』
慌てて太い首に捕まる。鱗は一枚一枚鋭く刃物のようであったが、気にしていられない。
ラガルトは空中で二、三度翼を羽ばたかせていたが、空気の流れを捕らえ、目的地へと進んでいった。