婚約者
彼の声は直接頭に響いてくる。本来の口から響いてくる声はシューシューと恐ろしげな物だったが、脳に直接届いてくる意識は知性に満ちた穏やかな物だった。しかし、自らの意識をより巨大な意識で擦られると畏怖の感情さえ湧いてくる。
「ラガルト」
マナーニャはため息を付きながら言ったが、竜はそれを無視する。
『昨日からずっと何も食べていない。随分腹が減った』
彼はカチリと爪をならし、肉を食べるに適したヤスリのような舌を舐めずりした。
『おまえは言われたとおりちゃんと私のご飯を用意してくれているようだ。ただし、随分と少ないようだが』
マナーニャはため息を付いて、無駄だと思いながらも訴えた。
「最近、果樹の成りが悪くて、動物たちも減ってきているんだ。用意された巣があるだろう。そこには選ばれたちゃんとした世話係が餌を用意しているのに。どうして私なんだよ? カルロスさんだってきっと待っているよ」
『人間と話をしても面白くない』
「私も人間だし、その中でも一番面白くない部類に入ると思うよ」
マナーニャは冗談の一つも言えないし、それで許されるほどの愛嬌があるとも思えない。しかし、偉大なる竜はそれを完全に無視した。
『そんなことない。おまえと過ごす時間の方は何倍も興味深い。小さな婚約者よ』
「その婚約者と言うのも止めてくれる?」
マナーニャはずっと気になっていた彼の言葉も指摘する。しかしその訴えにも竜は大きな顔を傾げるだけであった。
『なぜだ? 人間は好きなお互いが好きな者同士だったら結婚をするのだろう。そして、本当に好きかどうか判別する前に婚約という契約をする。私は人間は嫌いだが、おまえのことは好きでも嫌いでもない。だからそれを知るためにおまえと婚約して、好きかどうかを知ろうとしているのだ』
マナーニャは肩を落とした。彼が捕らえている婚約者の意味は元々とかなりかけ離れている。
「あのね、婚約者はそう言う意味で使う言葉はない…」
『いや、そう言う意味だ。私は間違わない』
高慢な竜のことだ。彼の言ったことはすべて正しく、彼の意志と反する物は悪なのだ。
『おまえは私以外の者と浮気をしてはいけない』
竜の不完全な知識を元にした婚約者とはややこしい。どこで知ったのか知らないが、浮気という概念さえも入っていればなおさらだ。生まれてこの方、恋愛なんぞもしたことないのに。マナーニャは反論すべく口を開く。
「浮気って…。けれど、相手を好きか嫌いかを知るのは婚約者という括りじゃなくてもいいんだよ」
『じゃあ、何という括りにすればいい?』
「えっと…」
そう言われてみれば難しい。
今度は彼が鼻を鳴らす番であった。しかし、彼の場合、気を付けないと周りの物を吹き飛ばしてしまう可能性がある。
そして今回は運の悪いことに、その息には炎が混ざっていた。
『おっと、すまん』
熱風に晒され、髪の一部が縮れた。人から女らしい格好をしろとよく言われるが、彼の世話をしている間は無理だと思う。
そして、自分が所詮そういうことを思う柄でもないということに思い至る。少し自分らしくない考えにはまっていたのが恥ずかしくなり、首を振った。既に隣のラガルトは会話に飽きていたようだ。
『それより、早く肉だ』
「はいはい」
マナーニャは背中の腐肉をラガルトの前にぶちまけた。途端、彼の大きな目から理性はなくなり、食
欲だけが支配する。ラガルトは喉を鳴らし、腐肉にかぶりついた。
その姿を横目に見ながら、マナーニャは彼の隣に腰掛ける。そしてぼんやりと面皰を掻きながら、ずっと下を見下ろした。