かすかなる聲
さくらは、助けを求める蘭渓の声を聴いた。
そして、『彼女』は動き始める!?
‐――ニクイ…ドウシテ、ナゼカノジョハ、アニヲエランダンダ!
さくらは戦慄した。
彼の声が流れ込んできて、灼けるような悪寒を催させるのだ。
「やっぱり、気のせいじゃない」
「さくら? どうしたんだ…顔が青いぞ?」
急停止した奈与に、朔も慌てて足を止めた。
「どうした!?」
弖阿に止められたが、無理を承知で付いてきたのである。
――‐‐クルシイ…カナシイ、カナシイ……クルシイ、ダレカ…タスケテクレ!
「聲がするのよ、おそらく…蘭渓の」
「なにっ!?」
朔は血が滲むほど強く、唇を噛みしめる。
(あの男は、モノノケになってまでさくらを苦しめるのか!?)
「なんて言ってる! 忘れてしまえ、そんなものっ」
「ダメ…聲が止まない。助けて欲しがってる! とめてくれってっ」
「奈与っ、弖阿に伝えろ! 早く行ってこいっ」
「分かった!!」
額を抑えて俯くさくらを抱き締めて、朔は奈与を急がせた。
「彼…とても苦しんだんだわ。闇の底で、凍えて泣いている。彼に武器は効かないから、斬ってはダメと伝えて……でないと、みんな死んでしまう。早く!」
ぜいぜいと蒼白な顔で言う彼女に、朔は引っかかりを憶える。
彼女は、そんなもの言いをしたりはしない。
それに、気配が被って‐‐――‐いや、重なっている。
「わ、分かった! お前はそこにいろっ」
朔は、口論している奈与と弖阿の仲裁に入ると、さくらの『お告げ』を伝えた。
「とにかく喧嘩してる時じゃない、弖阿…今すぐ兵を止めてくれ! あれに武器は効かないし、でないとみんな死んじまうんだ!」
「バカを言うな! いま兵を止めた方が危険なことが分からぬかっ」
ゆらりと、さくらが立ちあがる。
彼女の全身を銀色の光輪が覆い、細い毛先を揺らめかせていた。
「あれは……私が止めます。私でなければ、止められない」
その声を背後に聞いて、弖阿は目を張った。
さくらから、およそ尋常ではない霊気が発せられていたからだ。
「お主、さくらではないな……あの『さくら』か!?」
「そうよ。ずっとこの子の中で、時を待っていました…私をあの者の傍へ連れて行きなさい」
「母…上なのか? 本当に」
よろめいて、奈与はさくらの前に仁王立ちになる。
「奈与……ごめんなさいね。すべて私が始まり、だから、幕は私が引くわ」
涙ぐむ彼女を無言で背負うと、奈与は滑るように兎型に転変した。
「俺が連れて行く、叔母上たちは高台で待っていてください」
「待ちな」
背を向けた彼に、黒鋼が唸る。
「なにを……二度は言わぬぞ、去れっ」
「だーから、お前一人じゃ危なっかしいんだよ。俺はお前よりも強ぇし、足も速い」
「なにが言いたい!」
ぐるると牙を剥く奈与に、黒鋼はそれ以上言わずに、狼に変化する。
「なにしてる、行くんだろ? 行け!」
「わ、分かってる!」
黒鋼の吼えに後押しされ、奈与はようやく走り出した。
「弖阿……さくらが」
駆け去った二人を見送った後、朔は複雑な思いで隣の弖阿を振り向く。
「さくらの遺志に、任せるんじゃ…我らは高台へ行こう。民が、待っている」
弖阿の先導に、兵は従順に移動を始めた。
戦陣の兵等は、たじろいでいた。
それは、突如血反吐を噴いて崩落した獣のせいだ。
「どうしたんだ…動きが止まったぞ…」
「よく分からんが、油断はできん…気をつけろ」
そんなような会話がヒソヒソと交わされる中、闇のそこで、蘭渓は声を聴いていた。
(サムイ……オレハ、モウモドレナイヨウダナ。アノコロニ、モドリタイ)
分厚い壁を隔てているような幽かな声だが、彼にとってそれは、それでも温もりを与える。
そんなような気がして、闇底の彼の頬を涙が伝った。
戻れたらいいのに。
あの暖かかった、豊かな時代に。
誰よりも愛していた彼女の、生きていた時代に。
こんなにも望んでいるのに、声が出ないんだ。
彼女の、生まれ変わりを見つけたのに…。
優しくしてやろうと、今度こそ優しくしてやろうと思ったのに。
また、彼女を深く傷つけた。
もう戻れないのか…。
昔の自分にも、昔の兎族にも。
ならばいっそ…もう。
――‐‐ならばもう、いっそ殺してくれ。
と、兵が騒めき始め、そこに堕ちていた蘭渓‐‐―‐‐いや、獣はゆっくりとその巨体を起こした。
細かに鋭く、風を裂く音が閑地に響く。
上空から、しなやかに奈与が獣の傍に降りたった。
「ありがとう奈与、ここでいいわ…下がっていて?」
さくらは彼の背を降りると、蹲る獣に惜しげもなく歩み寄る。
なぜか獣も抵抗せずに、彼女の接触を受け入れた。
「私が分かる? 蘭渓。こんな姿になってしまって、私があなたを傷つけてしまったのよね。最期まで、あなたの気持ちに応えられなかった私を許してね」
さくらは、やんわりと闇色の獣を抱き締める。
「ヲレコソ……スマナイ」
低くくぐもった声がして、獣はさくらに頬寄せた。
「ごめんなさいね、本当に…でももう今度こそ、一緒にいられるわ?」
「サ…ク、ラ」
彼女の腕の中で、獣は輪郭をなくしたようだった。
彼を取り巻いていた闇が、浄化されたのだ。
闇が消えた後、そこにあったのは……傷つき、痩せさらばえた一匹の青兎だった。
「今度こそ、絶対に一緒よ? もう、行きましょうね…どこへでも行けるから」
虚ろだった蘭渓の瞳の色が、悄然と褪せていく。
彼女が撫でると彼は幸せそうに、鼻先を小さく動かした。
「せめて、道案内ぐらいさせて頂戴ね? ね? 蘭渓」
さくらの身体が、ゆっくりと頽れる。
「さくら!?」
彼女が地面に触れるすんでの所を、駆けつけた奈与が慌てて受け止めた。
「……奈与」
起きあがったさくらは涙を拭って、腕の中の蘭渓を見せた。
骨張った、小さな体。
蘭渓は、息を引き取っていた。
「彼がね、最期に謝ってくれたわ……本当に、済まなかった。ありがとうって」
言いながらさくらは嗚咽が止まらずに、奈与の胸元に掻き付いて、大声で泣いた。
「兎族の因縁も、これで終わった。帰ろう? さくら」
「うん……」
これで本当に、兎族の因縁は幕を閉じた。
後日、蘭渓の亡骸は刹霞の妻・さくらの墓の傍に葬られることになったようだ。
どうも、維月です。
『Rabbitぱにっく』次話で最終回です。
さくらではない、『さくら』が蘭渓を連れて行きます。
蘭渓…可哀相な奴ですが、真の悪人ではなかったんですよね。