烈火
その、肚の底から響くような絶叫を聞いて‐――‐さくらは酷い悪寒を催した。
『モノノケ』と化した蘭渓…
彼が、さくらを求めて兎族の里に向かってきた!?
毒霧の霞む谷底‐‐―――‐‐硫黄谷。
蘭渓は、血反吐を吐いてもがいていた。
その脇で、使令を果たした晟の式神が霧散する。
彼の血まみれの身体は、目を除いて全てが闇に覆われようとしていた。
闇は、全て彼がその身に溜めた恨みや憎しみ・妄執…そして呪いが形を変えたものだ。
闇は黒く棘々(おどろおどろ)しい蛇体を模し、牙を剥いては彼を塗りつぶしていく。
「あ…つい、熱いいっ!? やめろ……っ、ぐあっ、やめろ‐―――――‐‐っ」
最期の絶叫は咆哮となり、ビリビリと天地を軋ませる。
余地なく食い尽くした闇は、彼を『モノノケ』に変えたのだった。
「いま、なにか聞こえた?!」
夜明けのうす青い部屋の中、さくらは跳ね起きた。
なにかの叫び声が聞こえたのは、気のせいだろうか?
さくらは、その肚の底から響くような絶叫に、ひどく禍々しいものを感じて背を凍らせる。
――――‐‐なにかが、とてもイヤなものが来る…。
そんな気がして、さくらは弖阿を呼びに走っていった。
一方、見張り台にいた弖阿も、動揺の異変を感じて考えこんでいた。
まだ遠方だが、微かな異臭がする。
これは死臭だろうか。
ひどく焦げた匂いと、血の生臭さ。
「弖阿さん! なにか変な匂いがしませんか?! それに、声みたいなのを聞いて。不安だから知らせに来たんだけど」
「さくら、呼べば下に降りたのだぞ? こんな所に登ってきて危ない。お主も分かるか、大気が濁っとるんだ…妾はここで様子を見る、お主は皆に知らせてきてくれ」
「はい!」
見張り台を降りたさくらは、座敷で伸びている朔を起こしに向かった。
パン…と勢いよく、障子戸を開け放つ。
「朔ちゃん! 起きなさいっ、おーきーてー!!」
伸びている朔を、さくらはガクガクと揺らす。
「んああ、なぁんだよさくら…まだ朝だろ〜?」
「まだじゃなくて、もうなのっ! 大変なんだから、早く起きて頂戴!」
むに〜っと朔の頬を伸ばして、さくらは膨れ顔。
「分かった、分かったから……ったく、、奈与起きろ、さくらが呼んでんぞっ」
朔は、渋々転寝をしていた奈与を叩き起こした。
「なにっ!? なにかあったのかっ」
(フン、コイツはこんなモンだろ…)
奈与の場合、さくらの名さえチラつかせれば起きるのだ。
譬え、どこにいようと駆けつけるだろう。
「いや、それが俺もさくらに叩き起こされてな。なんか異変がどうとか…ってもういねぇし!」
朔も、少しは見習って欲しいところである。(最近怠け気味)
刹霞は民を高台へと避難させ、兵で周囲を固める。
さくらと奈与が触れて廻ったお陰で、現状が兎族全体に伝わったのだった。
「姫さま、いけません…紫生が傍で護ります! だからお戻りをっ」
母同様に武装するさくらの周りを、紫生が泣きそうな顔で跳ね回る。
「あたしも闘うのよ、ただ護られるのは好きじゃない。みんなと一緒に闘うわ」
「紫生、もちろんお前も闘うんだ。兎族の男なら、しゃんとおし」
「母上……はい。この紫生、兎族のために闘いましょう」
「我らも命を賭しましょう、御方の恩のために!!」
紫生の言葉を皮切りに、兎族の兵士全てが平伏した。
「弖阿さん、あれは…っ」
さくらは、朔の鎧の胸元にきつく身を寄せる。
腐臭が、濃くなった。
「分かっておる……あれは蘭渓じゃ。ついに、憎しみに喰われたか」
陽光に反射して、棘々(おどろおどろ)しい漆黒の獣が唸りを轟かせる。
触れている地表は悉く焼けただれ、死臭をまき散らした。
「ニクイ……ニンゲンガ、ニクイ! コロス……コロシテヤル‐‐―――――‐‐!?」
憎悪に凍った青い瞳が、さくらを見つけて真円に裂ける。
勢いを付けるために身を撓ませてから、唸りをあげて走り出した。
「来たよ、こっちへ来る!?」
「あんな化け物、どうするんだ!」
木々をへし折って猛進する憎悪の塊に、民は震え上がる。
短く空気を裂く破裂音、それに続いて重く砲撃音が轟いた。
戦陣の兵が闘っているのだ。
黒い獣はあっという間に業火に覆い隠され、もがいては牙を剥く。
だがすぐに大きな身震いで焔を振り払い、獣の咆哮は天地をひどく拉がせた。
「さくら、お前はここで民の守りを頼む!」
「弖阿さん!? ダメよっ、刀じゃ『あれ』は斬れないっ」
愛馬の背に跨った弖阿に、さくらは慌てて縋りつく。
「行かせておくれ……愚弟を止めるのは、どうか妾に」
「弖阿さんっ…一人じゃ行かせられません。行くというのなら、あたしを連れて行ってくださいっ」
彼女の傍で、朔と奈与も頷いた。
「しかし、お主は言うなれば生まれたばかりの赤子に等しいのじゃ…それに騎獣はどうする…」
「それなら大事ない、奈与がいるではないか」
言いかけた弖阿を、刹霞が遮る。
「俺も行くぞ、コイツ一人にゃ任せらんねえからな」
朔につつかれ、奈与は膨れ面。
「いや、お前はここに残れ」
掴み合って喧嘩を始めた二人のうちの、朔の方を弖阿がつまみ上げた。
「なっ、なんで俺がッ…」
「お前たちが喧嘩してどうするんじゃ、収まるものも収まらぬわい」
べーっと舌を出す奈与に、朔は地団駄を踏む。
「それじゃあ奈与…お願いね」
兎型に転変した奈与を抱き締めて、さくらは青い瞳を細めた。
「ああもう、仕方のない……妾の負けじゃ。各々方、出陣が決まったからには、うかうかしてられぬぞ?!」
ぐるりと見回してから、弖阿はクシャリとさくらの髪を撫でる。
「弖阿さん……あたしも闘います、護られるだけはイヤだから」
「昔と変わらんな、お主は」
「ええ」
「……随分と楽しそうじゃねーか」
突如割り込んだ黒鋼の声に、一同は背後をふり返った。
「黒鋼!? どうしてここに、帰ったんじゃ…」
ぴょん、と飛び出してきたさくらを、黒鋼は嬉しげに軽々と抱きあげて笑う。
「すげぇコトになってんな、兎共がドンパチ始めやがったって…今その話で持ちきりだぜ?」
「それどこじゃないの、あれ見てよ!」
もがもがと暴れて、さくらは迫りつつある黒い獣を指さした。
「ああ、アイツだな。青毛のクソ野郎…ついにモノノケになったか」
「笑い事じゃないのーっ、今から闘いに行くんだからっ」
子兎よろしく暴れるさくらを地面に降ろすと、黒鋼はスタスタと弖阿の傍に歩いていく。
「アンタが将だな? 頼みがあるんだが、いいか」
「人狼の小僧、さくらを救ったのはお主だったな。なんだ、頼みとは」
ニヤリと笑った弖阿に、朔たち一同は冷や汗を禁じ得ずに、その場に凍った。
「俺を、軍に加えちゃもらえねぇだろうか?」
「黒鋼?」
不思議そうな顔のさくらに、彼は不敵に笑う。
「奥の手は俺にくれ。こんなコト、滅多にねぇぞ」
「まぁ、よかろう…兵は多いに越したことはないからな。どうじゃ、猗風…お主も異存なかろ?」
弖阿は騎乗したまま、愛馬である銀の巨狼に問う。
「主様がよいと思えば、猗風も同じこと」
凛とした女の声で、猗風は『是』と応えた。
その時、黒鋼が彼女を食い入るように見ていたことは、誰も気づいていないようだった。
「お主、名は?」
「黒鋼」
「そうか…行くぞ、黒鋼」
弖阿は黒鋼を軍に加え、戦地へと陣を進めたのだった。
「―――‐‐聲が、聞こえる」
疾駆する奈与の背中で、さくらはぽつりと呟いた。
こんばんわ、維月です。
『Rabbitぱにっく』35話のお届けにあがりました。
モノノケと化した蘭渓は、さくらを求めて兎族の里へ猛進中……。