悲しい理(ことわり)
無事、朔との再会を果たしたさくら。
しかし‐―――。
『変成』を起こしたさくらは、もう人の形を保ってはいなかった!?
「ねえ朔……」
「ん〜?」
朔とさくらは、夜に沈んだ浜辺で寄り添っていた。
月は中天に流れて、淡く海原を撫でていく。
「あたしね、ずっと……帰りたいって、思ってたの。思い出した」
‐‐――――‐―‐‐遠い望郷。
この世界の向こう側に、必ず戻ると言っていた、あの日。
「さくら……今でも、戻りたいか?」
朔は、愛おしげに頬擦りしながら、さくらを腕の中に閉じ込める。
「ううん。たぶん、もう……そこにあたしの居場所はないの」
「さくら?」
月明かりに照らされた、さくらの顔が悲しみに翳る。
もう、戻れないのだ。
自分は『人間』という存在を逸脱してしまったから。
身体が、変わってしまったから。
「もう、戻れない」
「さ…くら? お前」
朔は気づく。
自分を見つめる彼女の双眸が、青いことに。
彼女の瞳が、闇の中でも沈んでいないことに。
「もういいの、あたし……人間じゃなくなっちゃったから。帰る場所は、ここしかないのよ」
彼女が、もう人間ではないのは事実なのだ。
さくらはもう、殆ど兎族になっていた。
「兎族に、なってる?」
「朔ちゃん……だからもう、なにも言わないで」
するすると、彼女の頬を清いものが伝っていく。
変わっていく、身体が痛かった。
血反吐を吐いて歪み、引き裂けて死んでいく『人間の身体』が悲しかった。
初めて血を吐いたとき、『人間のあたし』は悲鳴を上げた。
怖くて、怖くて内側で叫んだ。
‐‐――‐お願い! あたしを殺さないでっ、どうして死ななきゃいけないの!?
誰か、この『異形』を殺して!
氷を抱いて、身の内に巣喰う異形を殺すのだ。
『これ』が死んでしまえば、あたしは助かるのでしょ!?
‐―――ダメよ、それはあなたの子供よ? 殺してはダメ、あなたまで死んでしまう。
‐――ウソ! イヤよっ、死にたくないよ! あたしにも、生きる権利があるのにっ
その叫びを聞きながらも、自分はどうすることもできず、変化に喰われていった。
いやだ!
ひときわ大きく声があがったが。
痛みに耐えて、叫びを飲み込む。
それが自分に与えられた運命なのだ。
受け入れるしか‐‐――――‐‐そうするしか、なかった。
「あなたと生きていたいから、選んだ。これでいいの」
「さくら…っ、どうして、なぜだ!?」
抱き締められた彼女の目尻から、涙が一筋こぼれ落ちる。
「人として生きるということは…朔より先に死ぬということ。そんなの、耐えられない。あたしにはできないよっ」
愛しい者のため……
少女は『人』の理を棄てた。
「そんな惨い道を……俺は、さくらに選ばせちまったのか!?」
さくらは、わななく彼の腕に触れて、ゆるゆると首を振る。
「朔も…誰も悪い訳じゃないわ。あたしの身体が変わったのは‐――‐あたしたちに子供ができたからなのよ?」
「――――‐はっ?」
空耳を聴いた気がして、朔は抱いていたさくらを離してしまった。
「やっぱり驚いた、あたしも最初は驚いたわ。でも本当よ…」
くすくすと笑うさくらに、朔は呆気にとられたまま動けない。
「まさか‐‐―――‐本当に? 夢じゃ、ないよな?」
「そうよー。お父さんになったんだからね、しっかり頼むわよ? 朔」
悲しみを代償にして、手に入れた幸せ。
「やだもー…ほら、泣かないのっ」
(俺はやっぱり、愚かなのかも知れない)
それでも幸せ、と。
よかったと思えてしまう、手前勝手な自身が情けない。
(あれ……でも、それよりももっとイヤなこと、忘れてないか?)
「……やばい」
冷や汗まみれ、しかも涙目でぽつりと呟いた夫に、さくらはきょとんと振りかえる。
「朔ちゃん?」
「さくらっ…アイツだけには言うなよ? もし知ったらどうなるか…」
アイツとは、もちろん奈与のことである。
『この、へなちょこのクセに〜っ!』と蹴りが来るのはまず確実だろう。
「大丈夫よ、奈与ならきっと分かってくれるわ?」
頼りなく震える朔。
はっきり言って、かなり情けない。
「なにを、聞いたら悪いんだ?」
「企業秘密! 奈与には言っちゃならねぇ話…って奈与!? なんで、ここに」
背後に、今いるはずのない奈与の声を聞き、朔は言葉どおり飛び跳ねた。
そこには、肩で荒い息をする奈与が構えていたのだ。
「母さんの、戻りが遅いから見に来たら……やっぱりお前か朔!」
「なに怒ってんだよ、おいっ」
朔は、すかさず後じさった。
それに彼の色違いの双眸が、訝しげに細まる。
「怪しい、お前…なにか隠してるだろう」
「べ、別に」
(これだけはっ……これだけは言う訳にはいかない! 殺される〜〜)
「吐け、このへなちょこウサ! なにがあったんだっ、母さんから人間の気配が消えてるだろっ」
蛇に睨まれた蛙とはこの事か、絞られる朔は、あっという間に汗みずくだ。
「な、なんで分かった? 隠してたのに」
「わからいでかっ!? さくらは、いつからああなんだ! もう、父上たちと同じ気配がするじゃないかっ」
「やめれバカ奈与!」
「うるさいっ、なんでさくらをちゃんと護らなかったんだ!」
怒りにまかせて奈与は獣化し、朔に飛びかかった。
「俺にふるな! バカ野郎っ」
キイキイと喧嘩する二人は、既に動く毛玉と化している。
まき散らされる砂と一緒に、ふわふわと毛玉が舞う。
じゃれている二匹に、さくらは大仰に溜息した。
「こーら、二人ともやめなさいッ…話すから、大人しくして?」
「「さくら!?」」
仲良く(?)声が重なった朔と奈与は、『フンっ』と思いきりそっぽを向く。
(朔は後でいいにしても、問題は奈与……相当怒ってるわ。無理ないけど)
「おいで、おいで奈与」
耳をV字にして威嚇し、じりじりと後じさって睨む奈与の瞳には、大粒の涙が溢れている。
さくらは以前彼に言った言葉を反芻して、痛苦に顔を歪めた。
【――‐ねえ奈与、あたしがお母さんになってあげる】
【ずっと、一緒よ‐――‐‐】
「……一人にしたね。寂しくして、ごめんね?」
さくらはそっと彼の傍に屈み、首に腕をまわした。
「悪いお母さんだよね…っ、あなただけのお母さんじゃ、なくなっちゃった」
頽れたさくらの姿が、大きく歪む。
「さ…くら!?」
そこには、銀色のウサギが、大きな目に涙を溜めて佇んでいた。
「あたし……もう、人間じゃないんだ」
「どういうことだ、どうしてだ! どうしてこんな惨いことを!?」
いつの間にか人型に戻った奈与の頬を、止めどなく涙が伝う。
「変わらざるを得なかったのよ。人間を棄てないと、お腹の子も、あたしも助からなかったから」
「お腹の、子?」
みごとに惚けた顔をして、奈与は鸚鵡返しに呟いた。
心なしか、焦点が合っていない。
「そんなっ……」
‐――‐どさ。
「なっ、奈与!?」
卒倒した奈与を抱えて、さくらはオロオロ。
「だからだ、コイツには言うなっていったのに」
ミニサイズに縮んで、さくらの腕で伸びている奈与をねめつけながら、朔はぶうたれる。
「やだ‐‐―――‐どうしましょ」
「とにかく戻るか」
足早に踵をかえす朔。
完全に伸びてしまった奈与を抱えて、さくらは忙しなく朔の後を付いていくのだった。




