朔の小冒険
市内の幼稚園で、ごく普通に働く高島さくらは、ある日、仕事帰りにとんでもない拾い物をしてしまう。
その拾い物は、人語を話す、不思議なウサギ・朔だった。
朔と暮らし始めたさくら、彼女の凍っていた心を、朔が溶かしていく。
さくらは、4年前になくした琥珀が忘れられずに涙するが……?
人と妖…異種族間の恋を描くラブ・ファンタジー
子ウサギ・朔と暮らし始めて、早3ヶ月が過ぎ……。
朔が、子ウサギじゃなくなった。
……ような気がする。
一回り大きくなったように見えるのは、果たして、あたしの気のせいだろうか?
「さくら、メシくれっ、メシっ」
暮らしにすっかり慣れた朔が、犬のようにエサ皿を銜えて走り回る。
久々の休日の朝を、思いきり引っかき回すのがコイツ、朔だ。
朝っぱらから、元気いっぱいに、あたしの上で飛び跳ねてくれた。
まるで、子供ができたみたいだと思い始めた、今日この頃である。
「はいはい。朔、お皿銜えたまま走らないー……ケガしたら危ないでしょう」
言われて、ぴたりと動きを止める朔。
銜えていたアルミ製の皿が落ちて、からんと固い音を立てる。
「分かったよう、大人しくするから、早くメシ〜」
ぺしょっと耳を下げ、後足で立った朔が、さくらの足に両手で掴まった。
「いい子ね、ちょっと待ってて…キャベツ切るから」
床から皿を拾って、さくらは朔を撫でる。
「おう、大盛りでなっ」
「はいはい」
そう言っておきながら、ちっとも大人しくない朔に、さくらは楽しそうに、くすくすと笑った。
「朔ー、最近大きくなったよねぇ? なんでも、よく食べるもん」
がつがつと、キャベツ+ラビットフードを持った皿にがっつく朔の頭を、もしゃもしゃと撫でながらさくらが言う。
「そぉか? あ、これ、ごちそうさんな」
鼻先で皿をさくらに突き出すと、受け取った彼女の手をペロペロと舐めて、朔は『ウサギのお礼』をした。
「はい、ごちそうさまでした。さて、あたしも朝ご飯しようかな」
ぱたぱたと動き回るさくらの脇で、朔がのんびりと毛繕いをして、耳や顔を洗っている。
ひょこひょこ、と居間を跳ねていた朔は、電話台であるキャビネットの上に、一枚の写真を見つけた。
〈98’07.28 琥珀と一緒に〉
マジックペンの消えかけた文字。朔は、なぜかとても痛々しいものを感じた。
写真に写っているのは、行儀よく前足を揃えている、灰色に近い、銀色のウサギ。
(優しい目‐‐―‐きれいな人だな)
「あれ、朔ちゃーん?」
さくらは、写真を見あげている朔を見つけ、動きを止めた。
「ああ、さくら……この人、琥珀って言うんだな。きれいな人だな?」
朔は、そっと何度もさくらの手に顔を擦りつけて甘える。
「朔ちゃん」
さくらは、ふっと表情を和らげた、慰めようとしてくれている彼が、あんまりにも一生懸命だから。
「おいで、朔ちゃん」
「……さくら」
朔を抱っこすると、さくらはソファに腰掛ける。片手には、琥珀の写真を持って。
「琥珀はね、4年前までウチにいた人なんだよー、きれいでしょ?」
えへへー、とさくら。
「さくら、泣きそうだ」
朔が、小さな手でさくらの頬を撫でながら言った。
「えー? あたし、全然平気だよ? 心配性ね」
「嘘つくなぃ、さくらの目、悲しい目してる」
ペロペロ、と優しく頬を嘗めた朔に、さくらは、大きく目を見開いた。
開けっ放しの窓から、サワサワと風が入り、カーテンを揺らす。
あまりの静けさに、かすかに遠く、カタンカタンと、電車の音までもが聞こえたような気がする。
始めに、口を開いたのはさくらだった。
「朔ちゃん、あたしね? 今でも琥珀が好きだよ、でも、朔ちゃんと比べてる訳じゃないんだぁ?」
「さくら、おいらは……」
段々と涙声になっていき、遂に声が切れ切れになる。
「琥珀の……代わりとかじゃ、ないからね?」
「うん……おいら、ちゃんと分かってるよ」
ぽろぽろと頬を滑る涙を舐めながら、朔はきつく、さくらに身を寄せた。
「いい子。朔ちゃんが、今のあたしにはすっごく大事ー」
「おいらもー」
朔は、動物同士がよくするように、さくらの頬と、自分の頬を擦り合わせながら言う。
「おいら、どこにも行かない。さくらといる」
「朔ちゃん……ありがとっ」
さくらは、朔を床に降ろすと、照れくさそうに笑った。
「着替えたら、お散歩行こうか、朔ちゃん」
「ホントかっ、散歩だ散歩ー!」
ダーッと、すばしこく走り回る朔に振り向いて、さくらは微笑みかける。そして、そのまま階段を昇っていった。
……数分後。
さくらが二階に行って、少し退屈していた朔は、戯れにプランターのベンジャミンゴムの葉を囓っていた。
さくらに見つかったら叱られるが、この葉はまあまあ美味いので、もう一枚千切っておく。
ちぎった葉は、テレビ台の後ろにでも隠しておけば見つからないだろう。
「朔ちゃ〜ん、用意できたよ……って」
さくらの動きが、ぴたりと止まる。
足元に散らばる、プランターの葉っぱを見たからだ。
同じく朔も、一時停止。
「おいで、朔ちゃん。いま口もぐもぐしたよねー?」
にこっ、とさくら。
「おいら、ちゃんと待ってたよ?」
慌てて後ずさるが遅く、哀れ……さくらにしっかりと捕まえられる。
耳がV字の、『バレちゃった!?』サインを出している。
こういう時の朔は、怪しいのだ。
「ダメでしょ、またベンジャミンちぎってー……どうせテレビの裏にも隠してるんでしょ、出しなさい」
ベンジャミンの葉、押収。バレバレである。
「だって、さくらが遅かったんだい」
足首に、ぎゅーっとしがみつく朔を抱っこし、さくらは穏やかに微笑んだ。
「ごめんね、朔ちゃん。そっか、ちょっと遅かったね、拗ねないの」
「散歩いこ、散歩〜」
「うん、朔ちゃんのおやつ持ってこうか」
さくらは、朔を抱っこしたまま、冷蔵庫から果物入りのタッパーを出して、小脇に抱えた。
タッパーの中身は、赤くて艶々とした苺が詰まっている。
「ねー朔ちゃん、今日は遠出して、堤防の向こうまで行ってみようか?」
「さくら、今日は太っ腹〜」
「今日は、は余計だぞ〜? こらー」
さくらは、お仕置きとばかりに、朔の鼻をつまんだ。(潰したとも言う)
「んぷぅ」
にっこりと笑うさくらに、朔も幸せそうに笑う。
「さーて、散歩に出発ぅ」
「おう!」
バタン! と勢いよく玄関のドアが閉まり、きゃあきゃあと、二人の楽しげな声が遠ざかっていった。
日だまりになっている居間のテーブルの上には、置き去りにされたままの一枚の写真があった。
無邪気に笑う、遠い日のさくらと琥珀。
もういいんだよ、忘れなさい、とでも言うかのように、そっと網戸から入った風が写真を吹きつけ、床に伏せてしまった。
今晩話、維月十夜です、ああ、書いていて恥ずかしいことが何点か。
あうう、朔を動かすのが難しい……(汗)