衝突
蘭渓の攻撃により記憶をなくし、茜嶺という漁村に流れ着いたさくら。
黒鋼との生活に終わりが訪れつつあった。
さくらの記憶が戻ったのだ!
『変成』を起こして吐血した彼女を、黒鋼は医者に診せに行くが……そこでさくらの新事実が明らかになる!
「‐‐―‐イタカ?」
「‐‐‐―‐アア、ミツケタ」
「センダッテ、ホンタイニツタエニイッタ……サァ、ドウウゴクカミモノダナ」
漆黒の闇に紛れて潜伏している梁呂側の暗殺部三人組は、暗殺部特有の微声で、標的の動きを見張っていた。
「くっ、ぬかったわ……呪が甘かったのか、あの小娘め、返してきおった!」
吐血した鮮血のこびりつく口許を拭って、蘭渓は憎々しげに、叫ぶともつかない声で叫き散らす。
「くそ、くそっ……たかが人間の分際で! 許さん、許さんぞぉっ」
‐‐―‐パタッ……パタタ
鮮血が掌を伝って、地面を赤黒く染めていく。
再び吐血して、蘭渓は体をくの字に折り曲げた。
「あの女……殺してやる!」
狂気の宿る目が、ひときわ青く燃えたぎった。
晟の案内で入った部屋は、壁天井すべてが朱塗りで、そこかしこに甲骨文字によく似た、おそらく一般人には解読不能な文字が刻まれている。
そして、文字たちは自在にその空間を廻っていた。
地下室独特の冷気と水の気配が、不可思議な雰囲気を寄り際立たせている。
「さくらさんをこっちに……この池に浸して」
薬湯元々の色なのか、他にも様々な薬草が沈む澄んだグリーンの水に、黒鋼は静かにさくらを横たえた。
水は、まるで冬の凍水のよう。
冷たい痛みが走り、彼は苦渋にその顔を歪ませた。
「いてっ! ……つーか、なんだこの冷たさはっ。真冬なみだぞ」
「それが、いま彼女が感じてる『痛み』だよ。水を通して伝わったみたいだね」
「さくら……」
触れようと伸ばした手を、晟はやんわりと、だがしっかりと押しとどめる。
「ダメだよ、今は触っちゃいけない。邪気を炙り出しているからね……見てごらん、早速始まった」
静かな水面に、ゆっくりと泡が浮かんでは消える。
同時に、水中に筋を引く青白い糸。
「なっ、なんだよこりゃあ!」
青白い糸は恰も、蛇のように鎌首をもたげて床へと這い出し、寄り集い、布を織るように一人の男の姿を現した。
【お、のれ……! 人間の小娘が……許さん、許さん!】
ボロボロと崩れては戻るを繰りかえしながら、『それ』はさくらへの怨嗟を吐き散らす。
「やっとおでましだね、コイツが…術者、さくらさんを呪詛した犯人だよ。どうやら兎族のようだけど」
見覚えのある容姿に、黒鋼は唸る‐‐―‐というか怒鳴った。
「コイツ、あん時のっ!? またなんか仕掛けてやがったっ」
「ねえ、あの時って? なーに?」
「あん時は、あん時だ。初デート壊しやがって……って、てめぇは知らなくていいんだよっ」
忘れもしない。
初デートを邪魔した男だ。
忘れようにも、忘れられるわけがない。
「それよかコイツ……手負いみてぇだな」
べっとりと鮮血のこびりつく口許、狂気の青い瞳。
痛手さえも凌駕するほどの執念が感じられる。
「同族に追われてるみたいだ。なんだろうね、兎族のほう……なんだかきな臭い」
晟はうむむ、と唸ってから、ポケットにある呪符‐‐―‐紙人形を取り出す。
そして薬湯の池からさくらを抱え出し、紙人形を彼女の額に張り合わせた。
紙人形は一度、等身大の繭玉に変じると、蕾が綻ぶが如くにその形を変化させてゆく。
やがて現れたのは、さくらと瓜二つの式神だった。
「おっ、おい! さくらが分裂したぞっ」
慌てて後じさる黒鋼、案外小心者である。
「いいや、分かれたんじゃないよ。元に戻ったのさ……彼女を呪ったのと同じモノに。それと、呪詛返しも兼ねて、今度彼女を呪おうとしても術は働かずに、術者自身を殺すように、と。ちょっとオマケした♪」
てへ、と無邪気に笑った晟に、黒鋼はヒヤリとなる。
(コイツ……もしかしてやばい奴かも)
「見かけに寄らねぇな、お前。黒いこと言いやがる」
「さて、次の手を打つとしようかな」
晟は女神のように微笑むと『そんなことないよ』と、さくら型式神の背を軽く押し出した。
「さ……行っておいで。その力の持ち主の元へ。そして見張れ、もし動きがあれば殺しいい」
是と応えた式神は、疾風となって鏑矢の如くに、天高く跳んでいった。
「さて……」
椅子に座らせていたさくらに向き直ると、晟は彼女の額に人差し指で触れる。
すると、徐々にじわじわと青い光の皮膜が覆った。
「君は戻ってくるんだよ、目を開けて」
彼女の瞼が、ゆっくりと開かれてゆく。
いま夢から醒めたような薄茶の瞳が、ふわりと光を戻した。
「戻ったね、おかえり」
白く、か細い手が伸ばされる。
差し出された彼の手を取り、覚束ない足取りで立ちあがるさくら。
「お前っ……よく、無事でっ!」
痩せて、更に華奢になったさくらの肩。黒鋼は堪らずに思いきり抱き締めた。
「心配ばっか、かけやがって……よく、戻ってきたな」
強く閉じた黒鋼の目尻から、涙が、堰をきったように幾筋も伝いおちた。
「黒鋼……ここ、どこ? 寒いの」
強く締めていた彼の腕を解いて、さくらは身を竦ませる。
すべて、赭で統一された空間。
冷気……。
いや、霊気だろうか?
さくらは漠然と、雨上がりの、故郷の森を思い出していた。
雨。
冷気、水の…気配。
心許なくて……愛おしく、甘酸っぱいような思いがこみ上げてきて。
意識が……覚醒していく。
「なあ、コイツ記憶喪失なんだよ。それも治ったのか?」
黒鋼は、どこか縋るように晟に訊う。
信じたくないのだ、彼女が自分から離れていくことを。
紛れもない事実だが、分かってはいるが……もう一度問わずにはいられなかった。
ゆるゆると、首を振る晟。
その答えが、どちらを意味するのか……彼にはもう分かっていた。
‐‐―‐‐時が、動き始めたよ。妨げる、手だてはないんだ。
「初めまして、さくらさん……俺は晟。巫蠱道士なんだ。君を戒めていたモノは、取らせて貰ったよ。よかったら、話してくれるかい? 兎族のこと、そして……君がどこから来たのか」
「……」
さくらは暫しの沈黙のあと、何度か瞠目を繰り返してから、ゆっくりと頷いた。
「あたし、ずっと漂っていたのね。あの日、突き落とされてから今まで。朔の処に、早く帰らなくちゃ……」
「帰るって、さくらさんは朔というヒトの処から来たんだ? どこに棲んでたんだい?」
ひとしきり、走った痛みがさくらの頭を軋らせる。
その痛みに、彼女は強く眉間を顰めた。
「ごめんよ、ムリしないでいいから…ゆっくりね」
「ええ……あたしは、夫と梁呂にいたわ。兎族同士が争っていて…あたしが、その始まり。ダメ……これくらいしか思い出せなくて」
‐‐―‐夫。
その響きに、黒鋼は爆ぜんばかりに目を見張った。
「言うな…それ以上言うなよっ」
傾いださくらを抱き寄せて、黒鋼はきつく頬寄せる。
「ダメだ…行かさねぇっ、お前は…俺の傍で幸せになればいい! わざわざ不幸になりに行くこたねぇよっ」
「今も昔も、あたしが始まりで兎族は闘ってるの……あたしが始まりだから、だからあたしが終わらせなくちゃ」
ただ成り行きを見ていた晟が、やにわに言った。
その声音に、尋常とは思えない意志を感じたからだ。
「さくらさん……記憶が戻ったんだね」
「さくら!?」
小さく頷いた彼女に、黒鋼はまたも目を張る。
さくらは黒鋼の側から離れると、悲愴に顔を顰めた。
「ごめんね、黒鋼……もっと前から、記憶は戻ってたの。あなたの気持ちが嬉しかった……愛してくれて、嬉しかった。でも、これじゃ騙したのと、同じだよね」
泣いても状況は動かないし、誤魔化せないのは分かっている。
けれど、泣かずにはおれなかった。
痛い……。
痛い。
静寂が、痛い。
「巻き込むくらいなら、忘れたまま暮らせばいいと思った。けど…そんなのはダメ、自分だけ逃げて生きるわけにはいかないのよ。さだめが、あたしを逃がさない」
泣いて腫れた目元を拭って、さくらは二人を交互に見やる。
「言い方が悪かったんだね。別に君を責めてる訳じゃない……さくらさん、俺たち君の力になりたいんだ。だから、なにがあったのか全部話してくれる?」
翡翠のような緑の瞳を和ませ、晟はさくらの頬を撫でた。
その温みが愛おしくて、また涙腺がゆるむ。
「バーカ、そんなんで俺が諦めると思うな。お前の行く先、どこにだって付いてくぜ」
「黒鋼、それってストーカーって言うんだよ?」
へんっ、と強がって胸を張った黒鋼を、晟が茶化す。
「んだとぉ……毟られてえのかテメエ!」
「おっと、暴力はんた〜い」
一方…晟の式神付きの蘭渓は、思いの外の深手を抱えて、茜嶺の山林を逃亡していた。
青い巨体が、木々をへし折りながら森中を疾駆する。
背後の、そう遠くない距離に、無数の気配を感じる。
おそらくは追っ手、梁呂側の軍勢だろう。
蘭渓は唸った。
「ふん…結局残ったのは俺だけか。くだらん奴らだ、怖じ気づきおって!」
カララ、と脆い岩盤が崩れて谷底の闇に消えてゆくのを見送って、口惜しげに足踏みする蘭渓。
これですべて、彼の退路は断たれた。
「くそっ…来すぎた!」
谷底には、硫黄の噴き出す地獄谷。
これしきの熱で溶ける体ではないが、長丁場になれば不利な地形だ。
「追いついたぞ、蘭渓っ!!」
風の中に、短かな黒髪がさんざめく。
蘭渓より数粁離れた場所に、引き絞った矢を番えた青年が構えていた。
朔だ。
その他にも刹霞や奈与、弖阿がいる。
「屠られた同胞の辛酸…思い知るがいい。蘭渓、反逆罪により貴様をこの場で極刑に処す!!」
「ふふふ……くはははっ……兄上、今更、もう遅いわ!」
歪んだ笑み。
牙を剥き出しに、耳まで裂けた口を開けて高笑いする蘭渓。
「貴様……黙りゃ!」
きらりと白刃に光が反射し、鞘から刀身が抜かれた。
刀を振り上げたのは、弖阿だ。
「弖阿……兄妹だろう、兄を斬るのか?」
「罪人に、兄もヘチマもない……彼岸でその罪、悔いることだ」
戦姫の異名を持つ彼女からは、普段からは想像のできないほどの気迫と殺気が放たれていた。
「止せ、やめろ弖阿!」
必死に身を捩る蘭渓。
しかし白刃が、滑らかに弧を描いて振り下ろされた。
‐‐―‐―‐‐ガシュッ……ッ!
斬り捨てられた蘭渓はそのまま崖を滑落し、谷底の闇に消えていったのだった。
「この世界に、人間はいないのよね? どうしてか知ってる?」
さくらは、自分より頭2つ分背が高い晟を見あげて問うた。
「色々説はあるけど、気候のせいとか…一番有力なのが戦争による減少、及び絶滅かな」
「俺も、そう聞いてるが……さくら、なにか知っているのか?」
大きく頷いたさくらに、黒鋼と晟は、共にぎょっと目を張った。
「兎族と人族が千年前に大戦をしたの、その原因が……あたしよ」
ああ、黒鋼がしつこい。(汗)