失くしたキオク 残った想い
蘭渓の襲撃を受けたさくら。
朔の目の前で、彼女は『死んだ』
遠い浜辺に打ち上げられた彼女を救ったのは……!?
すべての記憶を失った彼女に、再び〈試練〉が迫る。
異界ラブストーリー、新展開!
ひたひたと、寄せては押し戻ってゆく波。
大波、小波をくり返しながら、時を紡ぐのだ。
波が寄せて、浜に漂流物を置いていく。
波が今度は、一際大きな物体を押し上げて去っていった。
海獣の死骸が、浜に揚がることがある。
海辺を餌場にする、妖魔の類には願ってもないことだ。
いま一頭の黒狼が唸りながら、流れ着いた贈り物の廻りをぐるりと旋回している。
そっと、鼻面を押し当てたりしながら決めかねているうちに、同族の狼たちが遠巻きに集まり始め、『よこせ』と言わんばかりに牙を剥いて、口々に威嚇を始めた。
「よこせ、ここは俺達の縄張り(テリトリー)、そいつを置いていけ!」
すると、黒狼は胸を張って前足を一歩踏み出し、一声大きく吼える。
「俺から横取るたぁいい度胸だ……てめぇら、よっぽど死にてぇみたいだな!」
彼の咆哮は響く。
手当たり次第に、邪魔者を蹴散らしていく。
「ダメだ、奴は『鬼神』だぞ、やっぱりやめた方がいい」
「けど、どうする」
「どうするどうする……」
狼達は獲物の事などとうに忘れて、尖った顔を揃えて首を横に振る。
「ぐだぐだとやかましい奴らだ! とっとと失せやがれっ」
煮え切らない同族らに嫌気した彼は、思いきり歯噛みして大声で吼えた。
尻尾を巻いて退散していく狼たちは口々に、『やっぱり相手が悪い』と悲鳴を上げ、情けないほどあっけなく逃げ帰っていったのだった。
「二度と来るんじゃねぇぞっ」
黒狼は尾をピンと立て、未練がましく潜んでいた残党に吼える。
あわあわと、忙しく逃げって行った狼に背中を向けて、彼は歩きながら人型に姿を変える。
狼と人間、両方の姿をとることができる…人狼なのだ。
黒く硬い髪なので、つんつんと毛先が跳ねている。驚くほど長身の男だ。
青い瞳が、波打ち際に横たわるさくらを捉えた。
「追っ払ったものの…こいつ、やっぱり助けにゃならねえのか。下等な奴ら以外は人型だし、んなモンは有り触れてる。まずは、何属か知るべきだよな」
長ったらしい独り言を終えると、彼は、むんずとさくらを背中に担いで砂浜を後にした。
さくらは、ぼんやりと温もりに身を任せていた。
(誰、とても温かい手。誰なの?)
そっと撫でつける手に、懐かしさを感じるのは、なぜだろうか。
考えればその度に、喉の奥がキュッと締まって、苦しくなる。
さくらはうっすらと、涙で潤んだ目を開いた。
「う……」
涙をゆっくりと拭って、のろのろと体を起こす。
潮騒の音が微かに響く室内は、必要最低限の家具しかなく、殺風景だ。
一体、自分はどうしたのか。
‐‐―‐‐分からない。
ここは、どこ?
言おうとしたが、渇いた喉は掠れた呻きしか紡がなかった。
ただ、言葉のとおりに口が動いただけ。
「気がついたみてぇだな…起きても平気なのか?」
後ろから声をかけられて、さくらはぎくりと肩を跳ねさせる。
そっと振り向くと、牀台の枕元に寄せられた椅子に、黒髪の青年が座ってこちらを見ていた。
気づいていたなら、もっと早くに話しかけてくれればよかったのに‐‐――漠然とそう思ったが、口に出す気にはなれなかった。
虚ろなのだ。
なにもかもが、曖昧。
かろうじて、自分の名前だけが思い出せただけ。
さくらは、すべてを失っていた。
名前はさておき、今までの記憶‐―‐‐―‐すべてを失くしてしまっていた。
こくんと頷いたさくらを、青年は興味深そうに、まじまじと見つめる。
「ふーん、お前…名は? ウサギの嬢ちゃん」
「……さくら。それに、あたしウサギじゃないわ。人間よ?」
「人間って種族はここにゃぁいねえな、それに言葉…兎族のだろ」
さくらは眉間を寄せて、怪訝な顔で青年を見やる。
「兎族って、なに? みんな…人間じゃないの?」
「へえぇ、お前…マジで人間? それにしちゃウサギ臭いが」
青年は顔を間近まで寄せると、すんすんと匂いを嗅ぐ仕種をした。
「やだやだ、なにすんのよっ……それに、あなたは誰?」
なんとか枕で頭をガードして、さくらは小さく竦みあがる。
「本っ当にどの妖魔の匂いもしねぇなあ。人間なんか、現存しねぇって聞いてるけど。俺は黒鋼、ただの一匹狼さ」
さくらを、珍しげに見つめる青い瞳。
どこかで、見覚えのあるその色。
思い出しかけた光景は、さくらの脳裏に一瞬だけ明滅して消えた。
悲しいほどの懐かしさ‐‐――‐自分を呼んでくれる、優しい声は誰だろうか。
けれど、それを思う度に伴う痛みがある。
‐――‐‐『忘れろ』と言っているのだろうか?
さくらの擦れて汚れた頬を、雫が幾筋も伝い落ちては散ってゆく。
それを見守っていた黒鋼はばつの悪い顔をしてから、そっと戸惑いがちに、壊れ物を扱う手つきで彼女の頭を撫でた。
「どうしてここまで来たかは、今は聞かねぇ。安心しろよ……だから、泣くな」
「……うん」
「お前、なにも覚えてないのか?」
「うん……分からない、思い出せなくて」
海岸に打ちあげられた流木に腰掛けて、黒鋼はさくらの顔を覗き込む。
穏やかな潮騒が、風に乗せて微かな波音を運んでくる。
ここは、細かな白砂が広がる海岸の端だ。
「ま、思い出せねぇなら仕方ないだろ。人生のやり直しと思って、生きればいい」
「優しいのね、黒鋼さんは」
にこり。
初めて笑ったさくらにぎょっと驚いた顔をして、黒鋼はすぐに、軽く毒づいてそっぽを向いた。
「べっ、別に優しかねえっ、ただ……放っとけなかっただけだ」
「だから優しいの」
さくらは、どこか悲愴な笑顔を滄海へ投げて、小さく呟いた。
「そうかよ」
しばらく、両者間に無音の空白が生まれる。
‐‐―と、静かに凪ぐ滄海を眺めていた黒鋼が、ふいに立ちあがった。
「おい」
ぽけ…と見あげるさくらに、彼はニッと笑みを深くする。
その表情には、どこか子供のような無邪気さが表れていた。
「ついてこい、俺が拾ったんだ……ちゃんと面倒見てやるよ。だから元気出せ」
「きゃっ」
ひょい、と子猫のように掬い上げられて、さくらはパチパチと何度も瞠目する。
「ほんと?」
「そうだ。うっわ、軽いなお前! ちゃんと喰わねぇと、これからでかくなれねぇぞ? 帰ったら、まずはメシだな」
問答無用で、のしのしとさくらを自宅へ連行する黒鋼。
その後ろ姿が、少し誘拐じみている。
「とか言って、結局作るのはあたしなのね。何が使えるかしら?」
戻ったはいいが、黒鋼の家の台所で、さくらはキョロキョロと材料を探していた。
何もない割にムダに広い台所で、小柄なさくらは異様に目立って見える。
「お前、ホント小っさいのな」
「やっ、や、や」
背後に現れた黒鋼が巨大すぎて、さくらは後ずさって少し距離を取った。
「ちび」
面白そうに茶々を入れる黒鋼に、さくらはぷりぷりと怒りまくる。
「むぅ、小っさいなんて失礼な。黒鋼さんこそ、毎日なに食べて生きてるの? 殆どなにもないじゃない」
「あ‐‐―、とりあえず肉さえありゃあいいさ」
「ダメよそれじゃあ…絶対どこか悪くするわよ?」
とりあえず手元にあるのは、牛酪に小麦の粉と少しばかりの野菜、それに干し肉だった。
「ガキのくせに、一丁前に言うな。なにか作れるのか?」
無愛想に言う黒鋼にカチンときたさくらは、精一杯に怒鳴った。
「あたし子供じゃないもの! 小さくて悪かったわねっ、黒鋼さんが大きすぎなのよっ」
「あーあーあー、怒るなって……腹に響く。悪かったよ」
「もう……大人しくしてて頂戴」
ぐったりと項垂れて見せて、さくらは再び台所に向かう。
「お鍋に水を張って、火…これって、竈よね? やっ、火が点かな…熱っ、熱っ!」
小麦と牛酪を炒めてから、水となじませて野菜・干し肉と一緒に煮る。
煮立ってきたら、塩加減を見て完成。
「結構ホネだわね……」
呟いたと同時に、匂いに誘われて入ってきた黒鋼が、不思議そうな顔でフンフンと鼻を鳴らした。
「いー匂いだな、もうできたのか?」
「うん、なんとかね。美味しいか分かんないけど」
「お前も喰うんだぞ、味見したのかよ」
困った顔をして、鼻に皺を寄せる黒鋼。
「したわよ、口に合うか分からない、って言ったの」
「はいはい、分かったって……早く喰おうぜ?」
黒鋼は早くも席について、さくらがシチューをよそってくれるのを待っている。
「あたしもお腹空いちゃった、食べましょ」
言うや否や、ガツガツと食い付きのいい黒鋼に、さくらはあんぐり。
(すごい……なんだか、獣みたいだなぁ)
「旨いな、これ……なんていうんだ?」
「口にあってよかった。これはシチューっていうの」
シチューにがっつく黒鋼と、知っているのに、名前の分からない男の面影が。
‐‐―‐面影が、重なる。
似ているはずがないのに……なのに。
なのに‐‐―――――――‐‐。
匙を置いたさくらの頬を、つぅ、と涙が伝い落ちた。
「どっ、どうした! 泣くなよ、おい」
「分かんない、分かんないの……急に、苦しくて」
椅子から立つと、黒鋼は涙するさくらの傍に屈み、目線を合わせた。
「大丈夫か? どうした」
「顔が、浮かぶの……」
震える声で言ったさくらの頭を撫でてやり、黒鋼は密かに溜息する。
「忘れろとは言わない。なるべく、考えないようにな」
忘れろなんて、ムリ。
考えない日もない。
誰か分からないのに、こんなに愛おしいのは…恋しいのはなぜ?
頭が割れそうで、誰か助けて!
「いいのかな? ホントに」
さくらは、潤む瞳で黒鋼の碧眼を、真っ直ぐに見つめた。
「辛い思いをするぐらいなら、忘れてしまえ。少しずつな」
この想いを捨ててしまったら、本当に楽になれるだろうか。
本当に‐‐――‐それでいい?
今のさくらには、何一つ、為す術がなかった。
彼女はただ、じっと黙ったまま黒鋼の腕に、抱かれることしかできなかった。
黒鋼は無愛想な男だが、見ず知らずの自分を救ってくれたのだから、別段似悪い人間ではないようだ。
さくらは緊張に身を固くしながらも、伝わってくる温もりと心音に、うっとりと眼を細めた。
(不思議……今日出逢ったばかりなのに。どうしてかしら、信頼しているみたい)
いっそ、この人に縋ってしまいたい。
心が、震える。
「ごっ、ごめんなさい……夕飯、冷めちゃったわね」
ゆっくりと離れたさくらの背を押して、黒鋼は席に着く。
「なにも考えるなよ……いまを、生きろ」
食事を再開した黒鋼は、目元を和らげてさくらに笑いかけた。
夕食の後片付けが終わり、さくらはさくらは牀台に力なく倒れる。
「とても……とても疲れた」
さくらは牀台に横たわって、小さく掠れた声で呟いた。
瞼が重くて、このまま眠ってしまえば、二度と目覚めることができない気がする。
あたしは、どうしてここにいるんだろう?
帰りたい‐‐――‐‐。
俄に弱々しい郷愁がわいたが、帰る場所さえ分からないのに、どこに帰ろうというのだろう。
(瞼が重い……もうあたし、死んでしまうのかしら。それとも、もうとっくに? 体が鉛みたいに鈍くなって、闇の底に沈んでいくみたいよ)
「怖い、の…なんだか。とても、とても」
「なーに『今にも死にそう』な声出してんだよ、もうお眠か?」
黒鋼の大きな手が、さくらの頭を撫でて、揉みくちゃにする。
「あたし‐‐――‐‐夜が……闇が怖い。目を閉じたら、もう戻って来れなくなる気がして」
目を丸くして、黒鋼は幾許か驚いたようだ。
「怖い……のよ」
「ここにいてやるから、寝ろ。手放したりしねぇから、安心しな」
さくらの縋るような目に、黒鋼はその碧眼を細める。
「ほんと、ね?」
「ああ」
眠るさくらの傍に座った黒鋼は、そっと彼女の頬を撫でて外へ出て行った。
その瞳は、どこか切なげだった。
眠るさくらの真上、天井の梁。
そこに蠢く影があった。
蜘蛛だ。
銀糸の巣の真ん中に、無数の目を、赤く爛々と光らせる大蜘蛛がいた。
【まだ……生きていたのか‐‐――‐‐おのれ】
色濃い怨嗟を含んだ声で一頻り呟いてから、大蜘蛛は突如、焔をあげて跡形もなく燃え尽きた。